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空の青さが、やけにムカツク

『揺れるココロ、と高鳴るドウキ』__完全自作の小説・詩・散文サイト。携帯からもどうぞ。
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 心が落ち込んでいるのは、いつものこと。
 精神安定剤を手探りで取り出し、口に放り込む。
 午前五時。
 冬の太陽は低く、それだけに直線的にオレの目を射抜く。
 白色の陽射しは夕方のように影を伸ばす。
 憂鬱なのは、この情景のせいもあるのだろうか。
 オレは狭い店内を抜け、外に出る。
 オレの店。安い家賃すら払うのにギリギリな、寂れたバーだ。
 吐く息は白い。
 看板をしまい、入口のシャッターを半分まで下ろし、店内に戻ると内側からシャッターを閉めた。
 店内には点滅する蛍光灯の光だけ。
 カウンターには、まだ客の残した酒の瓶やグラスに、食べ残されたクズみたいな料理の乗った皿が散らかっている。
 まぁ、クズみたいな料理を作ったのは、ホントにクズの、このオレなのだが。
 ふっと、オレは笑う。
 苦笑。全然薬が効いてないじゃないか。
 まあ良い。
 グラスや皿をひとつずつ運び、洗っていく。
 時間はたっぷりあるんだからな。
 頭の中では、閉店までかけていたハードロックのシャウトがリフレインし続けている。それに合わせて無意味に叫び、時々頭をピシャリと叩く。
 貧血というわけではないのだが、頭に血が巡っていない感じがする。
 血が足りないのか、血圧が低いのか。
 フラついてカウンターにもたれかかり、頭を振る。ヘッドバンキングするみたいに。
 食器類を洗い終わり、空き瓶の回収&カウンターを拭き掃除する。
 足元にニチャリとした感触。
 見る。粘ついた白い物体。
 チクショウめ、誰かがガムを吐き捨てやがった。
 ペーパーナフキンで床を拭き、靴のラバー底にへばり付いたガムを取る。
 店主のオレがロクでもない人間のせいか、この店にはゴミみたいな客どもしかきやしない。
 タバコの代わりにクサを吸う連中、互いの名前を太股に彫ってあるレズビアンや、ピアスで穴だらけのハードゲイ、一人でブツブツつぶやいているヤツや急に何かを叫ぶやつ。何も注文もしないでオレの顔を睨む客、顔を隠してびくついたように酒を煽る客。
 マトモな客は、ドアを開けてすぐUターンするか、ビールを半分飲んだところで別の何かに酔って顔を真っ青にしてすぐ出て行く。
 チクショウ、何がどうしてこうなったんだ!?
 ガムを取り去り、厨房に入る。
 調理器具を洗浄し、流し台を洗い、グラスや皿の水を拭く。
 頭が少し、くらくらしてきた。
 無性に何かを叩き割ってやりたくなる気分。
「落ち着け、落ち着くんだ」胸に手を当て、自分にそう言い聞かす。
 呼吸。
 1,2,1,2、吸って、吐いて、吸って、吐く。
 ――落ち着いてきた。
 もしかすると薬が効いてきたのかもしれない。
 少し休憩をしてから、作業の続きをする。
 それからリキュールの量を確認する。
 初めはカクテルバーを経営するつもりだったのに、今ではこの店でカクテルを飲むのは自分だけ。
 ウォッカ、ジントニック、オレンジリキュール、ラム、バーボン。
 何だったんだろうな。夢に向かってバーテンダーの仕事を覚えようとしていた修行時代。
 あの頃に作ったカクテル――カルアミルク、ギムレット、ジムビーム、レッドアイ、ブラッディマリー、マティーニ、ソルティードッグ、スクリュードライバー。
 今でもレシピは覚えてる。
 この後は厄介なトイレの掃除か。
 久し振りにカクテルを作りたくなってきた。――いや、単に酒が飲みたくなってきただけか。
 営業中にオレが酒を飲むことは、まったくない。下戸だからだ。年に数回飲む程度。
 酒が好きだが飲めないから、カクテルを作る側に回った。
 オレはマティーニを作った。
「動機が不純だったのかな」久々に味わう酒の味。「――そんなこともないだろう」
 動機はむしろ純粋。子供がケーキ屋さんやおもちゃ屋さんになりたがるようなものだろう。
 二杯目のマティーニ。
 ちょっと強すぎたか、まあいいさ。時間はたっぷりあるんだから。
 カクテルグラスを軽く洗い、トイレに向かう。
 ハードゲイの二人がトイレに長時間入っていたから、今日のトイレは酷く汚れていた。
「クソッタレ!」
 便器の周囲をブラシでこする。
 壁にもべとついたものが張り付いていた。
 ティッシュペーパーを何重にも重ねて、汚物を拭き、消毒スプレーを丹念に撒く。
 頭がくらくらしてきた。
 酒が効いてきやがった。
 直前に薬も飲んでたっけな。
 熱い。
 トイレの中が熱い。
 狭いせいだ。
 消臭しなくちゃ、レズビアンの汗の臭いがこびりついている。
 スプレーシュシュ、いつか五万で舐めさせろと誘ってきたヤツがいやがった。十万ならいいぜと冗談だと思って返したら、アイツ本気にしやがった。しつこい値段交渉。血走った目、目、眼。赤ら顔、赤い赤い、酒臭い息。
 ――白いトイレ。
 便座を抱えて、オレは思い切り吐いた。
 マティーニ、アルコール、精神安定剤、抗うつ剤、胃液、胆汁。
 水で流して、もう一回。
 世界は回って、オレの頭はくらくらだけど、ともかく立ち上がって洗面台へ足を運ぶ。
 久し振りに酔っている。
 トイレ掃除も、あんなもんでいいだろう。どうせ今夜になったら誰かがまた汚すんだ。不毛の努力、諦める。
 顔を洗う、手を洗う、頭を洗う。
 水の冷たさに心臓がキュッとなる。
 このまま川にダイブしたなら即心臓麻痺でおさらばだろうな。
「だからどうした」鏡の中の自分に言う。「どうでもいいのさ」鏡の中の自分が口を動かす。「真似すんな」
 鏡に唾を吐き出し、トイレを出る。
「――なんだこりゃあ」店内を見て思わずつぶやく。
 全然掃除したようになんて見えないぜ。
 ここが世界の果てだというつもりはサラサラないけれど、
 ここが世界の終わりだなんていうつもりも全然ないけれど、
 確かにこの店は置いてきぼりにされている。
 オレと一緒に、どこかに捨てられているんじゃないだろうかな。
 だって、
 オレには分かっちまったんだもんよ。
 だって、
 だってだって、
 確かにこの世界の一隅に追いやられているこの店は、
 オレと同様腐ってる。
 まるで腐って半分潰れた野苺みたいに。
 真っ赤なハラワタぶち撒かして。
 真っ赤な血まみれダルマになって。
 真っ赤に汚れて穢れた空気みたいに息苦しくって臭ってる。
 ハードロック。
 激しいシャウト。
 うなるノイズ。
 ヘッドバンキング。
 踏み潰されたガム。
 トイレの汚物。
 ソイツは何だ?
 誰なんだ?
 ヘッ! 決まっているさ。
 オレの心臓。
 踏みにじられたオレの夢。
 だけど、どうってことはないぜ。
 世界に未練なんかない。
 勝手に腐っていくなら腐るに任せろ。
 トコトンまでオレとこの店は腐っていくぜ。
 だって、
 腐った野苺だって、無意味じゃないんだからな。
 新たな土壌の一部となって――中には花咲く種もある。
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 引っ越してきたばかりの部屋は、段ボール箱でいっぱいだ。
 ある程度の荷物は配置したものの、男は疲れてベッドに倒れた。
 いつしかうつらうつらする。
 と、何かの音が、まばらに聞こえ出す。
 浅く目を開けてみると、小さいものが動いていた。
「なんだ、おもちゃか」
 男はそう口にし、次いで慌てたように跳ね起きる。
 彼には民芸品の人形を集める趣味はあっても、おもちゃを集める趣味はない。
 まじまじと見てみると、手の平サイズの小人達が五体、床の上を歩きながら、それぞれの楽器を鳴らしている。
 男は驚きのあまり声も出ない。
 小人達は窓の隙間から次々に入ってきているようだ。
 シンバルを持った小人、縦笛を吹きながら落ちてくる小人、小太鼓を肩からぶら下げバチを手に落ちてくる小人。 あっという間に数が増え、何体の小人がいるのか数えるのも難しい。
 うじゃうじゃと床を歩き回りながら、みな勝手に音を鳴らして遊んでいる。
「うわっ」男は思わず叫ぶ。
 その声を聞いて驚いたのか、小人たちは一斉に窓から飛び出していった。
 男は目をこすり、静まった部屋を見回す。
 何だったのだろうかと思いながら、あれは夢の一種だったのだろうと自分に言い聞かせる。
 再びベッドに横になるが、神経が昂ぶっているのか眠れない。
 彼は冷蔵庫からビールを取り出し、アルコールの力で、やっと眠れることが出来た。

 翌日、深夜。
 段ボールの数は減っているが、部屋の中はまだ散らかっている。
 昨夜のことを覚えているため、男は窓を閉め鍵を掛けている。
 そしてベッドでうつらうつらしていると――
 テンツクトンテテ ピーヒョロロン ジャーンジャーン テントテテン
 また音が聞こえてきた。
「くそぅ」男は眠気を引きずった頭を上げる。
「やけに安い物件だと思ったら、妙なことがおきやがる」
 昨夜のように叫んで追い返してやろうとするが、部屋の中に小人の姿はない。
 窓を閉め切ってあるせいでこの部屋には入ってこられないのだろう。
 けれど、それならば小人たちはどこから入ってどこで楽器を鳴らしているのだろう。
 男は音のする方へ向かっていく。
 するとそこは浴室だった。
 小人たちは排水口から登り、侵入してきたようだ。
「こんなとこから――」男は眩暈を感じ、たたらを踏む。
 呼吸を整えると、男は息を吸い込み、「わーっ」と大声をあげる。
 声は浴室のタイルに反響し、驚いた小人は散り散りに逃げる。
「なんなんだ、こいつら」頭を抱えてうずくまる。
 そんな彼の視界に、小太鼓が見えた。
 逃げ遅れたのか、怯えた様に立ちすくんでいる小人が数体、集まって震えている。
 虫を払うような動作で追い払おうとするが、小人たちは動かない。
 じっとこちらの様子を窺っている。
 男は仕方なしに立ち上がった。
 つかんで排水口に捨てようと思ったのだ。
 しかし、触れない。
 目に見えているのに、捕まえることができないのだ。
 実体というものがないのかもしれなかった。
「ああ、なんなんだよお前ら。どうしたら帰ってくれるんだよ」
 嘆く男を見て、小人たちは蚊の羽音の様な声で囁きあう。その言葉はどの外国の言葉でもなく、もちろんこの国の言葉でもない。
 小人たちはちらちらと男を見ながら排水口へ向かっていくと、浴室から姿を消した。
「――助かった」男はヘナヘナと腰を下ろす。
 しかし翌日の深夜になると、浴室からまたもや楽器の音が聞こえてくるのだった。
 しかもタチの悪いことに、今回は男が怒鳴り込んでも、小人たちは一体も逃げないのだ。
 ピーとかプエーとかラッパを鳴らし続けている。
 どうやら昨夜話し合っていたのは、男が小人たちに触れない、つまり自分達にとって無害な存在であると確信していたみたいだった。
「くそぅ」男は睡眠不足と怒鳴り散らしたせいで疲れきっていた。
 けれど侵入してきたのが浴室だったので助かったとも言える。
 扉を閉めれば、寝室まで漏れてくる音は小さくなるからだ。
 それでもやはり、音は気になる。
 酒を飲まなければ、今夜も眠れそうにない。だが酒を飲めば飲むほど、精神が過敏になって、音が気になってしまうのだった。
 大体、演奏がでたらめすぎて、幼稚園児の遊びそのものだ。演奏などといえるものではない。一瞬リズムが出来たようでも、すぐにばらばらになる。どこか、まだるっこしい。
 いや、問題はそんなところではない。酔った頭で彼は考える。
 最大の理由、根本的な問題は小人の出現なのだ。
 小人が部屋に入れなくすれば良い。
 隙間という隙間を徹底的に目張りするのだ。
 そう。徹底的に。

 気がつくと、朝になっていた。
 男は浴室へ様子を見に行く。
 昨夜のことが夢であったかのように何の問題もない。
 でも夜になれば、今夜もきっとあいつらはやってくるはずだ。
 男は外出し、ガムテープを大量に購入してきた。
 排水口をテープで塞ぐ。
 これでシャワーは使えなくなったが仕方ない。
 次にキッチンの排水口。水の中から出てくるかもしれないからトイレは蓋ごと封印する。外付けのファンから排気ダクトを伝ってくるかもしれないので、エアコンの送風口を隙間なくガムテープで目張りする。換気扇の通風孔はもちろん、部屋中のありとあらゆる隙間にガムテープを張っていく。コンセントの穴までも。
 一日をかけて、徹底的に目張りをしたため、気が付いたら夜になっていた。
 部屋の空気は淀み、あらゆるところがガムテープまみれになっているため、通常の生活を送れる空間ではなくなっていた。
 それでも男は満足げにベッドに座り、ビールを飲む。
 これで今夜はゆっくり眠れるはずだと。
 しかし、どこからともなく楽器の音が聞こえてくる。どこかに隙間があったのだ。
 聞こえてくるのはどこからだろう? 耳を澄ます。
 聞こえてくるのはキッチンから。
 どうしたことだと男は思う。
 蛇口にだってテープは張ってある。それどころか念には念を入れてシャワーやトイレの栓まで封印してあるはずだ。
 そこでふと気付く。
 浴室からは聞こえてこない。
 小人たちは水周りから侵入したわけでもなさそうだ。
「なら、どこから」男は虚ろな目をしてキッチンへ向かう。
 小人たちは、ガス栓から現れていた。
 体を細かくし、コンロの穴からワラワラ出てきていたのだ。
 彼は笑った。
 笑うしかなかった。
「分かった分かった」酔っていたせいか衝撃が大きすぎたのか他の理由でかは分からないが、彼は全てを諦めた。「分かったよ。でもな、お前らのは全然演奏になっていないんだ。何故だと思う? それは指揮者がいないからさ」彼はどこからか待ち針を持って来た。
「オレがこのマーチングバンドの指揮者になってやるよ」
 男が待ち針をタクト代わりに持つと、小人たちは彼の前に並んだ。
「じゃあ、演奏するぞ」

「またこの部屋か」と、検分に来た刑事は行った。
「ええ。そしてまた、ガス自殺です」パートナーの刑事が応じる。「それにしても不思議ですよね。この部屋でガス自殺をするのは、皆、音大生ばっかりですし」
「不思議なことはないだろう。音大のすぐ近くにこんな安い物件があるんだ」初めの刑事が言う。「家賃よりも楽器や楽譜に金をかけようと思うだろう」
「まだ若いのに。指揮者志望の優秀な生徒だったらしいですよ」
「優秀なら、なおさらだろ」
 検分を終わった二人の刑事は、楽譜一杯の部屋を出た。
 日が沈み、夜になると、剥がされたガムテープの隙間から、小人たちが現れた。
 いつもより、音が揃っている。
 優秀な指揮者が、この小さなマーチングバンドに加わったせいだろうか。

  

「ムカツクぜ」ベロベロに酔っ払ったショウはもつれた舌で怒鳴る。「クソッタレ! 工場長め!」
「仕方がねーよ、ショウ」オレの正面で半分眠りかけているのはカイだ。「仕方ねぇ」
「お前は」ショウはカイの肩に腕を回す。「あの場に居なかったから、そう言えるんだよ」
「そうかもしれねぇ」
「正直なヤツだな、お前はよ」
 ショウはカイの頬にキスをした。
 吐き気がする。
 唾を吐き、立ち上がろうとする。
 しかしショウが俺の腕を掴んだ。
「ドコ行くんだよ」
 濁った瞳。網の目のように血走る目。
「ドコだってイイだろうが」
 オレはショウの手を振り払おうとする。が、ヤツはなかなか放さない。
 タチが悪い。
 ショウの胸に蹴りを入れると、ヤツはバランスを崩してカイを道連れに転がった。
 人気のない公園を突っ切り、俺はその場を離れる。
「クソヤロウ!」背後でショウが叫ぶ。「今度会ったらブットバシてやる!」
 無意味なエネルギーの放出だ。どうせヤツは明日になったら忘れてる。
 何かが壊れているんだ。きっと。だから無駄なエネルギーを消費させている。
 やりきれない夜。
 道路には昼間に降った雪が、泥にまみれて残っている。
 排ガスとタイヤの汚れの混じった水の結晶。
 人の溜息まで混じっているような気がした。
 溶けかけてミゾレ状になっている雪を、思い切り踏みつける。
 弾け飛ぶ不純物。何かの臓物みたいに見えるゲル状のそれは放物線を描いて落下する。
 シャリッシャリッとした感触を味わいながら、無機質な街灯の下を歩いていく。
 凍えるツマ先。
 靴の中に水が入ってきやがった。
 頭はまだ酔っているのに、体が急速に冷えていく。
 忌々しい! 近くのコンビニへ向かい、入って行く。
「いらっしゃいませ」
 奥から出てきた寝ボケ顔の店員を無視して、酒のあるコーナーへ向かう。
 ウィスキーを手に取り、レジに向かう途中で腹が減っていることに気付き、チキンサンドに手を伸ばす。
 金を払う。
 レジ袋に包まれた商品を受け取り、扉に手を掛ける。
 もう少し、この中で温まる必要がある気がしてきた。
 雑誌のラックに足を運び、適当な週刊誌をつまむとぺらぺらめくる。
 文字が頭の中で揺れている。その震える動悸は、やがてダンスするみたいにぐるぐる回り始める。
 言葉の意味なんて、もう分からない。文字という記号がただ踊っているだけ。
 意味をなくした記号なんてゲロ程の価値もない。それなのに、どうして俺をこんなにも苦しめるのか。オレにはそれが理解できなかった。
 ぐるぐるゆらゆら震えて踊る。
 死んだ記号のクセしやがって。
 いや、死んだ記号だからこそ、ゾンビみたいに動いているのか?
 鼻の奥に腐臭を感じる。
 気分が悪くなって、雑誌を放り投げる。
 コンビニを出て、新鮮な空気を吸おう。
 扉に向かって走りかける。
 影。
「ソレ、出して」店員だ。
「アァ?」気分が悪いんだ、今度来た時に相手をしてやるから、今は外に出させてくれ。
「酔ってるからって万引きは良くないよ。早くポケットから手を出して」
 おいおいふざけるな。おれは何も取っちゃいないぜ。頼むから外の空気を吸わせてくれよ。
「さぁ、早く」店員は俺の肩に手を置いた。「それとも奥の事務所に行こうか?」
 店員の腐りかけた脂っこい臭いが鼻をついた。
 オレは口元を押さえたが間に合わなかった。
 ゲロが飛び出て散らばる。口の中から、指の間から、オレの服へと、店員のユニフォームへと。
「キッタネーな」
 店員の言葉が、オレをブチ切れさせた。
「テメーのせいっだらーがぁっ!!」
 店員を殴る。
 ボコボコにだ。
 それからもう一度、店員の顔に向けてゲロを吐くと、気分が少し落ち着いた。
 コンビニを出て、ようやく新鮮な空気にありつけた。
 ゲロに汚れたレジ袋からウィスキーの瓶を取り出すと、蓋に撒きつけてあるプラスティックを剥がし、キャップを開けた。
 ひとくち飲んで、歩き出す。
 雪の上を歩きながら、チキンサンドを食べ始める。
 結局、オレには行き場がないんだ。
 足は自然と公園へ、ショウとカイの元へと進んでいる。
 公園に戻ると、カイは寝ている。ツマ先で突いた。
「凍死するぞ」
「大丈夫だよ」ショウが言った。「俺が家まで運んでく」
「ホラ」ウィスキーを手渡す。
 ショウは本当に良いやつだ。
「サンキュ」ショウはラッパ飲みをする。
 どこかでパトカーのサイレン。
「何かあったのかな」ショウが言う。
「知らねーよ。どこかの酔っ払いが凍死してんじゃねーの」オレは答える。
 だけど、何を血迷ったのか、数分後には警官達が俺の手に手錠を掛けていた。
 ヤツらは言う。
「コンビニ強盗め」
「ッレは何もしてねーよ!」
「黙ってろ、酔っ払い」叫ぶオレを警官の一人が殴りつける。「このクズが」
「やめてくれ」オレは酒臭い息をぶちまける。「酔ってんだ、また吐いっちまうだろうが!」
 いや、吐いても良いか。どうでも良い。これはアルコールのせいだろうか。最低だ。違う、最低なのはオレなんだろうな。ならばこの狂った世界はオレ自身。だったらラヴ。この世界とオレ自身のために。
  

 
「何がメデタイのよ」彼女はベッドの中で言った。「正月なんて地球が一周しただけじゃない」
 清潔な部屋に清潔なシーツ、清潔な患者服。清潔な針を刺された彼女の白い腕には、清潔な液体が清潔な管を通って入って行く。
 わたしは微笑む。
「何よ」彼女は包帯で巻かれた手首を露にした。
「ごめんなさいね」わたしは言った。「昔、読んだ本を思い出してしまって」
「何で」
「あなたの言葉と同じセリフが、そのお話に書いてあったからよ」
「何て本なの」
「さぁ」わたしは肩をすくめた。「題名は忘れちゃったわ」
 わたしはカルテに目を落とす。
 彼女は16歳。
 以前、わたしとの問診中、彼女の言った言葉がある。

「ハタチになる前に、あたしは死ぬわ」
 強い決意を秘めた目で、彼女は私を見つめていた。

「どんな話?」彼女が訊く。
「そうね」私は答えた。「まず、くたびれたホームレスの老人が言うの。『年が明けたからって、何が楽しい』みたいなこと。するとそれを聞いた若い通行人が答えるのね。『地球が太陽を回っている間、365回も自転している。その遠心力の力に吹き飛ばされなかったのを祝っているのさ』って。それに対して老人はこう言うの。『何を言ってやがる。自転してるから重力が働いてるんじゃないか』通行人は少し頭にきて返すのね。『何だよ爺さん、学があるじゃないか。そんなに学があるのに、何でこんな所に居るんだい?』老人は『学があるから、こうしてんのさ』って答えるの」
「――それで?」
 彼女は先を促す。
 わたしは首を振った。
「そこでおしまい」
「何それ、つまんない」天井に目を向ける。
「まぁ、ちょっとした皮肉なお話って所なんでしょうね」
「そんなの、どうでもいいわ」
「――今回で三度目、だっけ」わたしは本題に入ることにした。「リストカット」
「さぁね。軽くなら何回も切ったから覚えてない」彼女は答える。「病院に連れてこられたのは三度目だけど」
「なるほど」わたしは言った。「やっぱり、大人になるのが嫌?」
「別に」彼女は点滴を見て答える。わたしの目を見ようとしない。「ハタチっていうのは、キリのいい数字だからなだけ」
「そっか」わたしは彼女から視線を放さず続ける。「今回は、何で切っちゃったのかな?」
「分かんない」彼女は包帯を見、それから置き時計を見る。
「分からないか。じゃあ仕方ないわね。でも、どうしても切りたいって思っちゃったわけでしょ、その時の気分とか、覚えてないかな」
「うん」彼女は壁に目を走らせる。「何か、ワーッって、なった」
「ワーッて、どんな風に? 頭が混乱しちゃったとか?」
「混乱っていうか、暴走っていうか」
彼女は一瞬、顔を強張らせた。
「暴走?」
「何か――考えちゃって」
「どんなことを?」
「生きてること」
 彼女はわたしを見た。
 目が合う。
 その視線は小動物のよう。
 相手が無害か、遠くから警戒している者の目だ。
 わたしは試されている。
「生きてることを考えると、頭の中がワーッとなっちゃう?」しかしわたしは怯まない。
「ウン」聞こえるかどうかという小さな声を放つ。
「どうしてかな」
 彼女は答えない。
「生きてることが嫌になるから」わたしは言った。「違う?」
 彼女は口を開き、しかし何も言葉にできず視線を彷徨わせ、頷いた。
「あんまり考えすぎないようにしないと」
「でも、嫌になるよ」彼女は抵抗する。「生きてることが、とても嫌になる時があるよ」
「それは」わたしは考えながらいった。「考えなくてもっていう意味でかな?」
 彼女は頷く。「切ると、『生きているんだなぁ』って思う」
「『生きているんだなぁ』」わたしは繰り返す。「その『生きているんだなぁ』っていうのは、嫌じゃない?」
「ウン」
「どうしてだろう」わたしは尋ねる。
「うーん」彼女は考える。「痛いから、かな。嫌いな奴をイジメてる感じ?」
「自分が嫌い?」
 私の質問に彼女は即答する。「好きな人なんているの?」
「どうして自分のことが嫌いなの?」
「知らない」彼女は答える。「分かんない。考えすぎない方がいいんでしょ」
 皮肉。
 わたしはまた、試されている。
「自分の命を、自分だけのものだって思ってるとしたら、それは間違いよ」
「ハッ」蔑んだ目。「両親とか友達とか持ち出すの、そんなもん――自分の命は自分だけのものでしょ」
「あなたの命は、あなたのためだけでもご両親のためでも友達のためだけでもない。あなたに関わる、すべての人たちのものなのよ」
「『人は一人じゃ生きていけない』って奴? 関係ないわよ。先生の言う『すべて』から手を放すんだから」
「分かってない」わたしは声を荒げた。「分かってないわよ、あなたと『これから』関わる人たちにどうするつもり!? あなたを必要とする人が現れた時にあなたが居なければ、その人はどうしたらいいの、あなたに必要とされる人が不必要になったらその人はどうすればいいのよ!」
「馬鹿みたい。命に意味があると思ってんの?」彼女は睨む。わたしのことを。「意味なんてないのよ! そんなもん!」
「あなたが言っているのは使命ってことね。確かに使命なんてあるかどうか分からない。でも意味はあるのよ、人がそこにいる限り」
「――意味分かんない」
「今は分からなくてもいいのよ」わたしは落ち着きを取り戻す。「ゆっくり分かればいいの。とにかく、わたしはあなたに死んで欲しくもないし傷付いて欲しくもない」
「精神科医として、でしょ」
「そうよ」私は頷く。「でも違う」
「はぁ?」
「私は医師として患者であるあなたの死を嫌うし、あなたと関わる者としても、それを求めない。わたしが辛くなるから。わたしが苦しくなるから。私が悲しむから。あなたを好きだから」
 彼女は戸惑っている。
「あなたがハタチになる前に、わたしは転勤することになると思う」わたしは正直に言った。「いつかは分からないけれど、わたしはあなたを気にしながら、でも、どうしようもなく新しい先生にあなたを託さなければならない――そんなの嫌! わたしが治してあげたい。あなたには感じなくたって、わたしには十分に意味があるのよ、あなたの命の大きな意味が」
「そんな」彼女は平静を取り繕うと言葉を探す。「自分勝手」
「そうよ」彼女の言葉を遮る。「あなとと同じ。あなたが皆と手を放そうとしても、皆があなたを手放さない。関わりがあるから。そこにひとつの命を見つけたから。それぞれにあなたに意味を与え持っているから」
 彼女は声を上げて泣き出した。「先生、痛い。心が痛いよ」
 どうやらわたしは彼女の試験をクリアしたみたいだった。
 彼女の頭を抱き締める。
 強く、強く、優しく、強く。
「何だろう、この気持ち。何だろう」彼女が言う。
「黙って泣きな。今は、思いっきり」
  

「来年のことを言うと鬼が笑うって言うけどさ」八郎が言う。「今年も残り、一週間も無いんだし、正月どうするかいい加減に決めなきゃなぁ」
「ああ」
「そうだな」
「もう、そんな時期なのね」
 八郎の兄や姉たちは答えた。
 その時だった。
 狭いリビング内に重い音が響く。
 よく聞くと、どうやらそれは笑い声のようだった。
 あえてそれを文学という情報伝達媒体としてコード化するならば、こんな感じになる↓
「ヴ ヴァ ヴォ ヴァヴヴォ ヴォオオオオオオ ヴァル ヴァルヴァヴァヴァヴルァッ! ブベラボブオ ブリアッ!」
「鬼だ!」八郎の姉さんが悲鳴を上げる。「鬼よ! みんな逃げ――」
 床下から大きな赤い手が現れ、彼女の細い体を握った。
 彼女は鬼の握力のせいで息もできずに眉根を寄せ、一種官能的とも言えるような苦悶の表情を見せた。
 二十階建てマンションの、地上九階。
 八郎は階下の住人が気になり、赤い腕と床の境目を見る。
 そこには、ただ永遠の暗黒が見えるばかり。もしかしたら別の次元につながっているのかもしれないなと八郎が思ったときだった。
 暗闇の中から怒りに燃える、二つの瞳が、周囲の暗黒よりもどす黒い邪気を放って八郎を射抜いていたのだ。
 八郎は体がすくんで動けず、腰を抜かした。
 床の裂け目からは腕が伸び、怒髪天を衝く鬼の額、それから目、鼻と顔が現れた。
 八郎の姉を掴んだ右腕と顔だけを覗かせながら、鬼はまだ笑っている。
 鼓膜がビリビリと震える。
 一同は耳を塞ぐが、効果はなかった。
 どうやら何かしらの力でもって、鼓膜だけに干渉しているみたいだ。
「これが、鬼の力か」八郎の兄のうちの一人が言った。
 悲鳴みたいに、声を荒げて。
 鬼は姉である一人の女性を掴んだまま、右腕を後ろに逸らした。
 八郎は思った。
 ――何のためだろう?
 しかし彼は瞬時に気付き、兄や姉に声をかける。
「バックスウィングだ!皆伏せて!」
 しかし全員が耳を塞いでいるために、八郎の叫び、望む声が聞き取れない。
 モリ――モリッと鬼の肩の筋肉が膨らみ、それは上腕から肘、そして下腕にまで達する。
 手首の筋肉が膨らんだときには、掴まれていた姉の顔は蒼褪め口から泡を吐いていた。泡は弾け、粘性を失うと液状のよだれとなって、鬼の親指に滴った。
 すると次の瞬間には、その親指を初めとするすべての指が膨らんで、右手の彼女をさらに圧する。
 か細く華奢な八郎の姉は、その握力に抗うことも出来ずに口から血や臓物を吐き出し、眼球は押し出され、鼻血と涙でまだらな赤に濁って落ち、重すぎる圧力に脳が両眼の飛び落ちた眼窩からトコロテンのように搾り出される。続いて木の枝が折れるようなパキポキといった骨の砕ける音が聞こえてきた。
 それは時間にして一、二秒のことだったから、八郎に姉の死に様がすべて見えていたとは考えにくい。
 しかし彼は確かに目撃をした。
 姉の死を、目撃した。
 バックスウィングをした鬼の腕が振るわれ、八郎の兄姉たちが犠牲となった。ある者は胸に直撃されてそこから体が上と下との二つに分かれた。ある者は耳を塞いで屈んでいたために頭部が破壊されて脳漿やぐずぐずに崩れた脳をぶち撒かされて骨の一部や上記した物は壁一面にこびりついた。
 鬼の右腕一振りで、八郎以外の兄や姉は皆死んでしまった。
 伏せていた八郎は恐る恐る顔を上げ、惨劇の跡を見渡し絶句した。
 気を失わずに済んだのは、喉元をせり上がってくる胃液のヒリヒリとした痛みと吐き気のせいだろう。
 鬼はおもむろに掴んでいた八郎の姉を放した。
 姉の体には、握られた粘土のようにしっかりと鬼の指跡が付き、それが人体であったことが嘘みたいに潰されていた。
「やっぱり」八郎は自分でも気付かず口にしていた。「来年の話は駄目ですか」
 鬼はその言葉を聞くと、今までの態度と百八十度転換し、清清しい、一つの邪気も無い無邪気な声で言った。
「うん」鬼の瞳は優しいものへと変わっている。「駄目だよ。分かった?」
「――はい」八郎は答えた。
 けれども八郎の意識はここで一時期、失われることとなる。
 あまりの出来事に精神が保たず、現実を拒否する心の防衛反応により、気絶をしてしまったのだ。
 だから、鬼がその後にどうやって帰ったのか、床の穴がなぜ消えたのかは分からない。
 八郎はそのことで困っている。
 とっても困っていたのだ。
 密室での大量殺人。
 確実に、八郎は容疑者扱いされている。
 本当のことを言っても、誰も本気にしてくれない。
 一度、霊視するという霊媒師が来たが、それはインチキ霊媒師だった。八郎と一儲けするために買収しようとしてきたのだ。
 もちろん八郎は断わった。
 しかしこのような大事件にも関わらず、八郎に接近できるということは余程名の売れた霊媒師か警察幹部とのコネを持っている人間なのだろう。
 八郎はこの一件で、ますます窮地に陥ってしまったとも言えるだろう。
 けれど彼には嘘をつけない。
 兄や姉たちの死、その失われた命にかけて。
 八郎は確信している。
 このまま裁判で争っても、自分は死刑になるだけだと。
 しかしそれもまた、仕方のないことだと思っている。
 なぜなら来年の話を持ち出したのは自分だからだ。
 間接的に、兄や姉を殺したのは自分だと八郎は思っている。
 後は、粛々と刑の執行を待つだけだ。
 死刑が執行されるまでの間、八郎は自らの軽挙妄動を反省することにした。悔い改め、毎日の日々を拘留所で過した。
 しかし思いがけないことが起こった。
 八郎は精神的に問題があるとされ、精神科への移送が決まったのだ。
 大晦日前日の、まさに慌しい一日であった。
「良いよな、お前は」拘留所で知り合った男が八郎に声をかけてきた。「こんなに早く移送されるなんて、異例中の異例だぜ。お前、何かの秘密を握っているんじゃないのか?」
「秘密? 秘密ってなんです?」
「お前が足蹴にした霊媒師はな、ありゃ大物政治家の飼い犬だ。そいつに唾かけてもこんなに早い措置。こりゃ何かがあるんじゃないかと思ってよ」
「――残念ながら、私には心当たりがないのですよ」
 あまりに真っ直ぐな八郎の視線に、男は狼狽えた。
「そ、そうか」男は言う。「ま、なんにしても気をつけるこったな。俺はまだまだ拘留所からは出られない。少なくとも来年の三月までは無理だろうよ」
「来年ですって!?」八郎は絶叫し、白目になって気絶をした。
「おいおい、どうしたんだよ」男は慌てて言う。「これじゃあ俺がお前に何かしたみたいに思われるかもしれないだろう」
 男がそう言い終えた時、拘留所の床が裂け、何か赤い物が現れた。
  

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