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空の青さが、やけにムカツク

『揺れるココロ、と高鳴るドウキ』__完全自作の小説・詩・散文サイト。携帯からもどうぞ。
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 お母さん業を営むむつ子さんはこう語る。

 ――人生というものは、辛く険しく厳しいものです。特に混迷なる今の時代、このような職種も必要なのではないでしょうか。

 ではお母さん業は時代が求めたものだと?

 ――ええ。生や死の問題が拡大解釈されるに従って、その神聖性は皮肉なことに失われてしまったのです。そのことに一番敏感な弱い人たちが気付き、自分を守るために牙を剥きました。その次に弱い人たちは仮想世界へと逃げ込み、殻を堅く閉ざしてしまいました。今、彼らに必要なものは包容力なのでしょう。

 弱い人たちが牙を剥いたとは、具体的にはどのようなことなのでしょうか?

 ――窮鼠が猫を咬むという喩えの通りですよ。神聖性を失った生や死に代わって彼らを襲うのは現実なのです。それも普通の人が感じるよりもリアルで生々しい現実感です。生臭い息を吹きかける魔獣の爪よりも鋭く、深く人の心を抉り取り、突き刺さります。どんな暴力よりも、見せかけの優しさの方が強く精神を揺さぶり傷付けるのです。その反発は殺人といった重大な犯罪から、登校拒否という自らを傷付ける行為、そして小さな嘘などと多岐に渡る反社会行動のすべてなのですよ。

 小さな嘘ですか。そんな所にまで影響が出るのですか?

 ――出ますよ。それは確信的な嘘ではなく、保身的な怯えという感情から出る切羽詰った嘘として現れるものなのです。

 保身的な嘘ですか。感覚的には理解できるのですが、その構造はちょっと理解しかねます。それはやはり、心理学の専門家であったむつ子さんならではの考えなのでしょうか。

 ――それは古い話です。けれども、そうですね。心理学的な見地も大きいですよ。母親が子供を心を真っ先に見通さずして、優しく包むことは無理なことですからね。

 なるほど、やはりそうした下地があってこそのお母さん業であり、従業員の育成プログラムとして役に立っているのですね。

 ――そんな大それたことではないのですけれど(苦笑)

 お母さん業を依頼しに来る人たちが、ある定型に分けられるとのことですが、どういった所で見分けられるのでしょうか。

 ――それは企業秘密に関わることですので多くは語ることができないのですが、一つ、大きな点を上げるとすれば洗濯物でしょうかね。

 洗濯物ですか。これは意外なお言葉ですね。

 ――そうかもしれませんね。しかしこれは重要な点なのですよ。洗濯をする物の種類や状態で、大まかなことは分かります。例えばタオル地の多い場合はマザーコンプレックスの片鱗が窺えますし、脱ぎ散らかしたままの状態であれば、男性らしさを重視する人物というように捕らえることができるのです。

 なるほど。そしてそのタイプに合わせて理想のお母さんを演じるというわけですか。

 ――演じると言うには語弊がありますけどね。

 失礼しました。

 ――いいえ。まあ、世間の方から見ればそうなのかもしれませんね。

 ところで、お母さん業を開設するにあたってのエピソードがあるそうですけれど、そのお話を聞かせて頂けませんでしょうか。

 ――そうですね。これは多くのお母様方に聞いて頂きたいと思ってもいる話なので、お話しましょう。それは心理学を教えていた大学時代にまでさかのぼる話なのですが、大学生のサークル勧誘の裏に、多くの宗教団体が関わっていることはよく聞かれる話です。大学生という、思春期を脱し切れていない精神状態の中で、母親の不在がいかに大きな問題となっているのかを理解していない方々のお子様ほど、その宗教の毒牙にかかってしまうという現実を見てきたからなのです。もちろんこの場合で言う母親の不在とは、実際に母親がいる、いないということではなくて、精神的な存在としてのことなのですけれどもね。

 では、そういった学生を見るに見かねてといった所が出発点だったのですね?

 ――そうです。私はまず宗教とはどんなものなのかを基本的なことから学び、理解しようとしました。その中から得られた結論の一つに、どんな宗教の神でも人を愛すると同時に憎んでいるという二律背反に気が付いたのです。それはまさに父であり母であるのですが、それは誰もが持つ理想的な両親であり、実際の両親には投影できない種類のものなのです。そして今の時代は荘厳なる父性よりも慈愛たる母性が求められていると考えました。

 神は憎しみを持っていますか。

 ――ええ。持っています。それは実際に神様がいたとしたならば、きっと噛み締めた歯がヒビ割れ歯茎から血を流すほどに人間というものを呪い、痛めつけようとしているのではないかと思えるくらいにです。

 それはまた壮絶ですね。

 ――神がその対称となっている悪魔や悪鬼への情け容赦のない姿勢を見れば一目瞭然でしょう。人は心の内に悪を抱えていますからね、当然その資性は受け継がれてしかるべきと考える方が自然でしょう。

 では悪に対する厳しさこそが父性であり、善に対するありったけの愛情が母性にあたると?

 ――その通りです。もちろんそれは簡単にした図式であって実際にはそう単純なことでもないのですけどね。

 分かります。深いお考えがあってのことなのですね。

 ――そこまで言われると、ちょっとくすぐったい気持ちがしてしまいますが、その通りですね。

 むつ子さんのおっしゃることこそがお母さん業の本質であり、バッシングに対するお答えでもあるのですね。

 ――そうです。男性による女装趣味の正当化などという言いがかりは単なる誹謗中傷であって、私が女装しお母さん業を営むことにはそれなりの覚悟と考えがあってのことなのです。

 本日はご多忙の中、貴重なお時間を割いて下さってありがとうございました。

 ――いいえ、こちらこそ。

 それでは最後に一言、お願いできますでしょうか。

 ――そうですね。では一つだけ。我が社はもちろん男性のお母さんだけではなく、女性のお母さんを募集しております。ですので女性の方も遠慮なさらずご連絡頂ければ幸いかと……。

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 街中の雑踏。きらびやかなイルミネィション。人の群れ。
 両親に挟まれ、手をつないだ少年は、気が付くと一人。迷子になっていた。
 視界を塞ぐのは大人たちの足、足、足。
 少年は両親の姿を探してさまよい、時に蹴られる。
 寂しさと惨めさと身体的苦痛と焦りと無力さとで小さな体をいっぱいに満たし、少年は涙を流していた。
 近付いては去って行く人影。交鎖する足。
 大勢の中で少年は一人、初めての孤独を味わっていた。
 そんな少年の肩を、ぽんと叩く一つの手。
 振り返ると青い涙を流したピエロが立っている。
 ピエロは風船を渡そうとしていたが、少年が泣いていることを知ると、顔を悲しげに歪ませる。
 風船の糸をまとめている段ボールに絡ませ戻し、腕に掛けていた手編みふうのバスケットから一包みの袋を取り出した。
 少年が受け取ると、ピエロは巻き取られたヨーヨーのようなパントマイムをして消えて行く。
 袋の表面には文字が書いてあった。
「とってもとっても あま~いおかし
 ほっぺがおちて あながあく」
 少年は袋を破いて、柔らかく乳白色をした見たこともないお菓子を口に含んだ。
 砂糖よりも甘く、凝縮された雨の日の匂い。
 舌が爛れるように口の中が熱くなる。
 口中に広がる甘さは粘膜から吸収されて少年の頬を膨らませ、溶けさせる。
 少年の頬には大きな穴が開き、唇は伸びた輪ゴムのように上顎と下顎をつなげている。
 頬の筋肉がなくなったせいで、口を閉じることができなくなってしまったのだ。
 頬の溶けた痛みはなく、代わりにあるのは両頬や口を伝い流れる唾液のもたらす淫靡な感覚。未発達なリビドー。しかし本能的な背徳感に自然と心が高揚する。
 涎は顎を伝い首を伝って服を濡らし、あるいは顎の先から地面に滴り落ちる。
 頬の穴から見える、宙に浮いた赤黒い炎は少年の舌だ。
 少年は虚ろな目をして歩いて行く。
 人生にも似た、目的のないふらついた足元。
 ふわふわと歩いているうちに、少年はサーカスのテントを見つけた。
 暗がりの中を、引き寄せられるように近付いて行く。
 人気のない幕舎内は明りもなくひっそりとしている。
 耳鳴りのしそうなほどの静寂。
 少年はステージの中央に降り立つ。
 真上からスポットライトが少年を照らし、彼は満杯の客席に向かって恭しく一礼をする。
 顔が下を向いた時には、かちりと歯が鳴り口が閉じる。だらしなく唾液は流れ続け、姿勢が直るとまたもや顎はだらりと下がる。
 タップダンスをしながらラインダンスを踊る一群が少年を取り囲み、タカタ タタ タタタタと靴を響かせた。
 ラインは輪となり小さくなる。
 大人たちの影。
 少年は不安になって手を伸ばす。
 何かを掴んだ。
 少年はもがくように強く、それを引く。
 鮮血。
 手にしたものは誰かのピアス。
 ダンサーたちは怒号のような悲鳴をあげて、影絵のごとく四散する。
 少年は高見から人々を見渡していた。
 ずらりと並んだこけしの頭が彼を見上げている。
 少年の頬に棒が通され、紐にくくられる。背中を押されて宙に跳ぶ。
 インドの苦行にも似た空中ブランコ。
 唾液が飛び散り線を引く。
 少年は四つ並んだ玉にぶつかった。
 少年のぶつかった所から一番離れた距離にある玉が反動ではじき出され、振り子の軌道で隣の玉にぶつかる。少年はその反動で飛ばされ、遠心力に身動きが縛られる。頂点で止まると次は落下と糸に引かれる感覚で酔ったような気持ちになった。
 離れたばかりの玉に衝突しそうになるが、玉はライオンの頭に替わっていた。
 白い牙の奥には暗黒の宇宙が広がり、少年は頭から宇宙に放り投げられる。
 頬の棒は消えてなくなり、銀河の渦が穴を通り抜ける。
 あまりの寒さに少年は両手で穴を塞ぐ。
 口の中に留まる唾や肺の中の空気は、真空の宇宙へ向かって勢いよく迸る。
 滝のように流れた空気は透明な輪っかになり、唾液は伸びきったカメレオンの舌のようにだらしなく続いている。
 口の気圧が低くなったせいで、両手の肉が内側に吸い込まれる。手の肉が丸く切り取られ、頬の穴と同じ大きさの穴が両手にできた。手の肉はそのまま口から吐き出されると、転がるマンホールの蓋のようにサーカスのテントを転がり、コインのようなダンスをしながら倒れる。
 少年はテントの頂点に立ち、手の穴を見る。
 手を顔につける。
 サングラスみたいに向こうが見えた。
 めりめりと眼球が音をたてて盛り上がり、もこもこと手の穴へ移動する。
 手の穴は目で塞がったので少年はほっとする。
 テントの柱の先についていたボールを二つ取り、眼窩にはめ込み頷くと、少年はテントの坂を前転しながら下る。
 目は手にあるが、視神経はつながっている。
 テントを下ると、文字通り目が回っているのが互いの目に映った。
 少年は地面に落ちていた手の肉を二つつまむと、息を吹きかけほこりを落とす。
 近くに鍛冶屋を見つけると、少年は手の肉を手渡した。
 鍛冶屋は黙って手の肉の周囲に釘を打ちつけ、少年の頬にはめこんだ。
 二つの穴はぴたりと塞がり、漏れていた涎も止まる。
 くるくると手の肉が回転すると口が閉じ、反転すると口が開く。
 少年は深々とお辞儀をする。
 姿勢を戻して鍛冶屋を見ると、顔が黄色い風船になっていた。
 風船は風によって飛ばされ宙を浮う。
 少年は風船を追いかける。
 手の平を上に向け、風船を視界に捕らえたまま走る。まるで見えないガラスでも運ぶみたいに。
 風船は黄色から赤へ変わり、青へと変わる。
 少年は色が三十周するまで追いかけ、黄色の時にやっと捕まえた。
 黄色い風船を口へ運び、奥歯で噛み締める。
 心地よい破裂音。
 ぽふっと少年は煙を吐き出す。
 煙はみるみる人の姿を形造り、青い涙を流したピエロになった。
 ピエロはにっこり笑うと少年の頭を撫で、去って行く。
 少年は満面の笑みを浮かべ、自分が大人の仲間入りをしたことを自覚した。

  

 トシさんはぼくより二十も年上だが、今年入ったばかりの新入社員だ。
 初めての後輩ができて嬉しいのだが、どうにも微妙で仕方がない。
 なぜかトシさんは、ぼくに懐いてくる。
 同世代の先輩たちは工場勤務が長いせいか職人気質で、肌が合わないのかもしれない。
 トシさんの身分はアルバイトだが、独身であるため気楽だと言う。
 そしてまた一度も女性と付き合ったことがないのだと言う。
 人の付き合い方もいろいろあるし、縁がないだけと言う。トシさんは確かに十人並みの顔をしているので、別にモテないわけではないだろう。
 問題は、きっと違う所にあるのだ。
 理想が高かったりするのではないだろうか。
 本当はそんなこと考えたくもないのだが、トシさんに彼女でもできれば、毎日飲みに誘われることもなくなると思う。
 正直、少し厄介に感じているのは事実だ。
 ぼくにだって学校時代の友人や女友達も何人かいる。トシさんに構ってばかりはいられないのだ。

 トシさんが入社して六ヶ月が過ぎたころだろうか。
 ぼくは帰りの駐車場で、トシさんに声を掛けられた。
 また酒の誘いかとうんざりしていたが、話の内容は思わぬ方へ。
 どこかのバーで意気投合した女性と付き合い始めているらしい。
 女性と言ってもぼくより年下の十八歳。
 ほとんど犯罪ですよと言うと、トシさんは頬を赤らめた。
 こんなトシさんを見るのは初めてだったので、ぼくはとても驚き、応援したい気持ちにもなったのだ。
 なんでも相談してくださいと言って、その日は別れた。
 次にトシさんに呼ばれたのは一週間経ってからのことだ。
 久し振りに飲みに行こうと誘われ、トシさんと彼女のことが気になったぼくは、その誘いに乗ったのだ。
「力の強い人が好きだって言うんだよ」
 いきなりノロケから入られたと思って、ぼくは言う。
「ちょっとトシさん、熱いっスね」
「いや、違うんだ」トシさんは言う。「本当にマッチョが好きみたくてさ。俺にも筋肉付けろってうるさくて」
 なーんだ。いきなり相談だったらしい。
 友人行き付けのスポーツクラブを紹介してあげると、トシさんは喜んだ。
 しかし数週間経っても、トシさんはスポーツクラブに通っている気配はない。
 ぼくはどうしたのか尋ねてみた。
 トシさんは気まずそうに、俺には合わないと言う。
「じゃあ、筋肉付けるの諦めたんですか」ぼくはトシさんの見切りの早さに呆れる。
「うん」さすがに恥ずかしそうだ。「力が強いって筋肉ばかりじゃないって思ってね」
「え?」ぼくは驚いた。「どういうことですか?」
「うん。実はね、彼女から教えてもらった方法があるんだ。筋力ではなく、超能力を身に付ける方法をね」
 ぼくはうさん臭そうな顔をしていたんだと思う。
「いやいや」トシさんは続ける。「秘密なんだけどね、君にだけは教えてあげてもいい。実は五十万円で――」
「五十万!払ったんですか?」
「いや、ローンでね。しかしその方法というのが実に独創的で――」
「ダマされてますよ、それ。そんな女とは別れた方がいい」
「なんだ君は。失礼な。私の彼女だぞ、恋人だぞ、ダマすわけがないじゃないか。彼女は俺のことを考えてくれて超能力養成所を教えてくれてだな」
「で、五十万のローンでしょ」
「十二回払いの所を二十四回払いにしてくれた」
「同じですよ、結局は金が目当てで――」
「ケシカラン!」トシさんは怒鳴った。「俺が、君よりも若い子と付き合っているからって、妬むなんて、卑しい、浅ましい」
「いや、普通にその歳の女友達いますから」
「いやはや男の嫉妬というのはまったく、女の嫉妬よりもねちっこい」
 トシさんはぶつくさ言いながら去って行った。
 でも、頭にきたのはこっちの方だ。トシさんのためを思って言ったのに、聞かない所か逃げるように去るだなんて。
 ぼくはその日からトシさんを無視しようとしたが、それはトシさんも同じ考えを持っていたようだ。
 トシさんと彼女との付き合いが一ヶ月続いたころ、工場長にどうしたのかと尋ねられた。
 トシさんが最近おかしいと言うのだ。
 どうおかしいのか聞き返してみると、工場の人達にセミナーへ来ないかと勧誘しているらしい。
 ぼくはどうしようか迷った。
 しかし工場長の粘りに負け、プライバシーにかかわることなので詳しくは言えませんがと断わり、彼女の存在をほのめかした。
 一週間後、トシさんは解雇された。
 そしてその日のうちに、彼女に振られたらしい。
 なぜそんなことを知っているのかというと、トシさんからぼくの携帯に電話がかかってきたからだ。
 トシさんは言う。
「悪かった。俺が間違ってた。でもどこが間違ってたんだろう?強い人が好きって言われて、強くなろうとしただけなのに、残ったのはローンだけ。どうしたらいいのか分からないよ」
 長い溜息をつき、ぼくは頭の中で言うべきことを整理する。
 トシさんへ向けて、ぼくは一言、こう言った。
「全部ですよ、全部ダマされていたんです」
 それでもトシさんには、何のことだか分からないようだった。
 トシさんが独身でいる理由が、ぼくにも分かった。
  

[聞く](音読 774さん)

私の場合、なぜか良い予感はことこごとく外れてしまうのです。
代わりにみなさんご想像の通り、悪い予感は的中率百パーセントでございまして。
何とも困ったことでございますよ。
例えば車を運転している時、信号が黄色に変わり、ブレーキが間に合いそうにない。ここは強引にアクセルを踏んでしまおうと思い、多少危険ではありますがスピードを上げたのです。あら、何か嫌な予感。そう思った時でした。脇道からパトカーがサイレンを鳴らして登場致します。スピーカーは私に警告を発し、路肩へ停めると信号無視のキップを切られましたよ。
しかしまあ、この件につきましては私にも問題があり、仕方の無い部分があります。ですけれどもね、その後です。
パトカーが去って、反則金に心痛めていた時のことです。
車に戻り、エンジンをかけたとたんに来ましたよ。
あ、嫌な予感。
ブレーキを踏むべきでした。
いくらなんでも二回連続でトラブルなど無いだろうと、楽観していたのがいけませんでした。その種の予感は外れるのです。言わば法則の二乗。気が付くべきでした。
車のタイヤがバースト致しまして、ブロック塀に激突。むちうち症になりましたよ。ハンドルに胸を打ちつけ、肋骨も折れました。はい。
自力で救急車を呼んだのは覚えています。
大体の番地といいますか、交差点の名前を告げ、そこで意識を失いました。
病院での生活も不運の連続でしたよ。
ええ。
担当のナースさんが、いわゆるドジッ娘でしてね。
点滴の針は射ち間違える、胸の上に物を落とす、食事の時間を忘れられて空腹になる。そんな女性だったんですよ。
でもね、私は結構幸せでした。そんなドジッ娘でも。
いえ、自分に嘘は吐きますまい。
ええ。好きでした。彼女のことが。
恋をしてしまったんです。
ドジッ娘?
むしろ萌え。
彼女の足音が聞こえるたびに、私の心臓は高鳴り、恋の予感にめらめらと――そうなのです。そのようなプラスの予感は外れるのです。
分かっていました。
ですから私は遠くから彼女を見ているだけでいい。
彼女の笑顔を見られるだけでいい。
そう思っていました。
でもね、ある時、ふと思ったんですよ。
あのナース、上の名前は違っても、下の名前はどこかで聞いたと。
いいや、どこにでもあるようなありふれた名前だし、まさかそんなと。
でもね、嫌な予感は、やっぱり当たるんです。
やっぱりそうでした。
彼女は私の後輩であり、片思いの末に告白をして断られたマネージャーだったのです。苗字が違うのは結婚していたためでした。
さらに言うなら、彼女のドジッ娘ぶりは本当のドジではなく、私を嫌うゆえの仕打ちだったのです。
ええ。
私は泣きましたよ。
独り、屋上に上がって、泣きました。
誰かに聞かれたら嫌だなあと思っていたので、きっと誰かに聞かれていたことでしょう。
もちろん、その誰かとは彼女のことなんですが。ですが、きっとそうなっているはずです。彼女に聞かれて――おお恥ずかしい。
でもね、いいんです。
もういいんです。
どうでもいいんです。
本当にいいんです。
どうなったって構いやしないんです。
すべてをね、もう諦めてしまったんです。
心の中が空っぽになってしまいましたよ。
泣いたせいでしょうかねぇ。
あ~あと溜息を吐いてぼんやりと地面を見ていました。
クルクルとね、土埃が渦を巻いていましたよ。
もしや竜巻なんて起こったりして。そう考えた私が馬鹿でした。渦巻きは本当に竜巻になってしまったんです。私が予感してしまったせいです。
竜巻は、どうせこちらへ向かってくるんだろうなと予感しました。
はい、的中です。
私の体は、空気洗濯機でもみくちゃにされた服のポケットから出てきたゴミクズのようにクルクルと舞い上がり、落ちて行きます。
ああ――私はこれで死ぬんだな。
そう予感しましたよ。
死んですべてが終わるんです。
彼女とも会わず、仕事の嫌らしい苦しみから抜け出せ、なあんだ、そんなに悪くはないじゃないか。死んでもいいや。そう思ったんです。
でもね、良い予感は必ず外れるんです。私の場合。
だから私はまだ死ねず、こうして生きているんですよ。
全身打撲で入院期間が増えましてね。担当は彼女のまま変わらず。仕事である盗撮の罪の意識に苛まれながらもね。
うひひ。

  

ジュウジュウと鉄板が運ばれてくる。
150gのサーロインステーキ。
パチパチと脂が跳ねる。
男はオニオンソースをステーキにかけた。
ジュワーッと音がたち、水分が蒸発してモワモワと煙が出た。
飴色のオニオンがプツプツと音をたて、鉄板は静かになってくる。
カチャカチャと音を鳴らせ、男はナイフとフォークを手に取した。
ズニュッとフォークを突き刺し固定させると、ナイフで切り始める。カリッと焦げた表面にナイフを当てると、シュゴッシュゴッと力を込める。
刃先が鉄板に当たり、ザラついたナイフと摩擦してズリッズリッと音をたてた。
ナイフ使いのせいで、肉の端がフルフル震え、フォークと接する穴からはプツリプツリと肉汁が溢れ出る。
一口サイズに切り取られた断面は、内側に近付くにつれてピンク色になっている。
焼き方はレアのようだ。
肉汁がジワジワ溢れ、滴となってポタリと落ちた。
男はゆっくりと肉を口へ運ぶ。
パクリと口に入れる。
グニッと右の奥歯で噛み締めると、ジュワッと肉汁が口中に広がってきた。
ベロの表面にある味覚が刺激されて、男の唾液がダラーッと分泌される。
ニチャグチャゴチャミチャと肉を噛み、ベロを使って左側の奥歯にヒョイと移す。磨り潰すように顎を使って、グニュグニュムリムチと歯応えを味わった。
唾と肉汁にまみれた肉片の群れをムムリッと飲み込む。
喉ごし良く、食道が肉を胃の中へと運ぶ。
男は旨さに納得して「フム」と頷くと、ペロリと唇を舐めた。
肉の脂で唇がヌメリと光る。
フォークを肉に突き刺し、次の肉片を切り取ろうとする。
しかし今度は脂身の抵抗に会い、簡単には切れなかった。
白っぽい二つの筋が肉と肉とをつないでいる。
男はチッと舌打ちをする。
フォークを肉に刺したまま、男は脂身の一本にナイフを押し当てる。
クリクリクリッと小刻みにナイフを動かすが、良く切れない。しかし確実に脂の紐は細くなっている。
男は早く肉を食べたい気持ちと、細くなっていく脂との格闘の両方を楽しんでいた。
さらに細かくナイフを前後に動かす。もうほとんどが鉄板とナイフの摩擦した感覚しかないのだが、ギリギリの所で二つの肉はつながっている。
腕を伝うザラついた感触。
ようやくにして、プッと脂身が切れる。
しかし脂の紐はもう一つあるのだ。
男はさすがに面倒になってきたのか、ナイフを大きい肉片にペタツクと付け、固定する。
上品とは言い難いが、フォークを横に滑らせる。
肉の断面からは間断なく肉汁がジンワリと出ている。
フォークの穴がププッと音をたてる。小さな肉は脂身の筋と、まだつながっている。男はジリジリとした気分になり、ここら辺でスッキリとしたカタルシスを感じたくなっている。
力を込めると、小さな肉がソースの上をツルンと滑り、脂身はプチンと小気味の良い音をたてて引き千切られた。
男はサッパリした気分で肉を口にポイッと放り込む。
ミチャニチャとした肉の柔らかさの中に、コリックリッとした違和感がある。
これは脂身によるものだろう。
グニッグニャッグニュッ
肉はすでにほぐれているが、脂身はなかなか噛み切れない。
右奥歯に貼り付いた肉を舌先でパロンッと剥がすと、左側に移動させ、ジリズリズリと脂身を磨り潰そうとする。
それでも脂身の塊は弾力を持っているため、容易には崩れない。
男は諦めると、塊のままの脂身とはぐれた肉を、唾液と肉汁と一緒にして飲み込もうとする。
ムムムッーーッリ
食道にも力がこもる。
何とか飲み込んだが、喉に詰まりそうだった。
グラスを掴むと、口に付け、グイッと傾ける。
ゴックリ、ゴクリ
水を二口飲むと、口の中にあった肉の旨みまでが洗い流され、味気なく感じる。
フゥーッと息を吐き、男は次の一口を切り取ろうと肉にフォークを刺した。ナイフを前後に動かし、シュゴッザリッと音をたてる。
――またしても脂身が邪魔をする。
肉が切り離せない。
ええい面倒だと言わんばかりにして男はナイフを大きい肉の方にザシュッと刺した。フォークとナイフを広げて脂身を断ち切ろうとする。しかし白い塊は伸び縮みを繰り返すばかりでなかなか切れない。
えいっとばかりに思い切り力を入れると、肉はスッポーンと滑って宙に浮かぶ。
クルリと反転して肉はソースを撒き散らかし、辺りをビショベショにして汚すと、無情にも床に落ちた。
ペタンと張り付く肉を見て、男は肩を落としてガッカリする。
  

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