マンガ家志望である由希人は、出来上がった原稿を手に郵便局へ向かった。
今回の作品は力作であり、新人賞を獲れる自信があった。
郵便局は小さな町の支局で、局員は三人しかいなかった。
課長と書かれたプレートの置いてある奥の席には、中年の男性。受付には二十代の女性と、少し肉の付いた三十代後半の女性。
ふっくらとした女性の前には、サングラスをかけた、オシャレな格好をした男が立っている。小包を郵送するためか、荷物を横に置き、書類にペンを走らせている。
小柄な由希人は、標準身長の彼にコンプレックスを抱きながらも、若い局員と接することができ、多少の幸福感を味わった。
大きな茶封筒を計量すると、財布を取り出し、郵送に必要な切手の金額を局員が提示するのを待つ。
自動ドアが開き、キャップを目深に被った男が入ってくる。
男はマスクをして顔の下半分を、サングラスで目元を隠している。
長身なその男は鞄から拳銃を取り出すと、天井へ向けて威嚇射撃を放った。
撃音がして、天井に二つの穴が穿たれる。
男は銃を、手近に居た由希人のコメカミに当て、言った。
「金を寄越せ」くぐもった声。
二人の女性局員は短い悲鳴を上げて固まる。
奥の課長は咄嗟に非常ボタンを押した。
シャッターが閉まる。
郵便強盗は焦って辺りを見回す。
合気道三段の由希人は、その隙を見逃さなかった。
腕を振り上げ、突き付けられた銃口を逸らす。
引き金に指が掛かったままだったので、拳銃は由希人の耳元で轟音を発した。
銃弾は危うい所で由希人の髪を撫で、後ろへ流れていく。
由希人は強盗の腕を絡め取ろうとする。
銃口から噴いた炎によって、由希人の髪が燃えた臭いがする。一方で先程発射された弾は若い局員の眉間から骨を砕いて左右両脳の前頭葉を押し潰し、脳幹を断ち切った。さらには衝撃を受け切れなかった頭蓋骨後部が炸裂して脳ミソを派手にブチ撒けた。
由希人は強盗の腕に自分の腕を巻きつけると、肘関節をキメる。
短い呻き声を上げて、強盗は銃を落とした。
床に落ちた勢いで銃が暴発する。弾丸はオシャレな男の腹部から入り、肝臓と腸をズタズタに引き裂いて背骨を抉り、片方の腎臓を破壊してそこに留まった。男は悲鳴を上げて倒れ手足をバタつかせようとして、気付いた。両足が動かない。動かない所か感覚がまるで無いではないか。背骨を破壊されたせいだろう。抑えもきかず、膀胱に溜まっていた尿が尿器から漏れ出る様を見て、男は絶望的な気分と激痛に気絶した。
強盗は肘の関節攻撃への反撃をしようとして、自由な方の手でポケットからナイフを取り出した。
由希人は一見して、そのナイフが特殊な物であることに気付いた。
マンガの資料として買った、ナイフを扱った本で見ていたからだ。
そのナイフは飛び出しナイフ。
鞘の内部にバネが仕組まれ、ワンタッチのボタン操作で刃先が飛び出すようになっている、危険なナイフ。
先手必勝。
由希人はためらいもなく腕に力を込め、強盗の肘を逆方向に曲げた。
「ぐぎゃ」
関節の粉砕する音に重なって、強盗が絶叫する。
あまりの痛さゆえか、強盗はナイフを握り締め、ボタンを押してしまった。
発射されるナイフの刃先。
きらめく刃は由希人と無関係な方向へ飛んだ。そして休憩室へと逃避しようとした課長の頭の付け根に刺さる。ちょうど延髄の部分。課長はドアに手を掛けたまま、ずるずるとくずおれた。首から下への命令経路が遮断されたために心臓の鼓動と呼吸活動が停止し、課長は一瞬、パニックに襲われる。しかしさすがは管理職。冷静さを取り戻し、自らの死を予感する。酸素の供給が絶たれ、じわじわと死滅する脳細胞。混濁した意識の中で、彼は自分の不幸さを嘆いていた。
由希人は強盗を倒し、組み敷いた。
やがて、パトカーがサイレンを流して近付いて来る。
気絶をしそうになりながら、健気にもすべてを見ていた三十代の女性局員は、警察に救助されると開口一番、こう言った。
「犯人は、あの人よ」
指差す先には由希人の姿。
「え?オレ?」
なかなか誤解はとけなかったという。
今回の作品は力作であり、新人賞を獲れる自信があった。
郵便局は小さな町の支局で、局員は三人しかいなかった。
課長と書かれたプレートの置いてある奥の席には、中年の男性。受付には二十代の女性と、少し肉の付いた三十代後半の女性。
ふっくらとした女性の前には、サングラスをかけた、オシャレな格好をした男が立っている。小包を郵送するためか、荷物を横に置き、書類にペンを走らせている。
小柄な由希人は、標準身長の彼にコンプレックスを抱きながらも、若い局員と接することができ、多少の幸福感を味わった。
大きな茶封筒を計量すると、財布を取り出し、郵送に必要な切手の金額を局員が提示するのを待つ。
自動ドアが開き、キャップを目深に被った男が入ってくる。
男はマスクをして顔の下半分を、サングラスで目元を隠している。
長身なその男は鞄から拳銃を取り出すと、天井へ向けて威嚇射撃を放った。
撃音がして、天井に二つの穴が穿たれる。
男は銃を、手近に居た由希人のコメカミに当て、言った。
「金を寄越せ」くぐもった声。
二人の女性局員は短い悲鳴を上げて固まる。
奥の課長は咄嗟に非常ボタンを押した。
シャッターが閉まる。
郵便強盗は焦って辺りを見回す。
合気道三段の由希人は、その隙を見逃さなかった。
腕を振り上げ、突き付けられた銃口を逸らす。
引き金に指が掛かったままだったので、拳銃は由希人の耳元で轟音を発した。
銃弾は危うい所で由希人の髪を撫で、後ろへ流れていく。
由希人は強盗の腕を絡め取ろうとする。
銃口から噴いた炎によって、由希人の髪が燃えた臭いがする。一方で先程発射された弾は若い局員の眉間から骨を砕いて左右両脳の前頭葉を押し潰し、脳幹を断ち切った。さらには衝撃を受け切れなかった頭蓋骨後部が炸裂して脳ミソを派手にブチ撒けた。
由希人は強盗の腕に自分の腕を巻きつけると、肘関節をキメる。
短い呻き声を上げて、強盗は銃を落とした。
床に落ちた勢いで銃が暴発する。弾丸はオシャレな男の腹部から入り、肝臓と腸をズタズタに引き裂いて背骨を抉り、片方の腎臓を破壊してそこに留まった。男は悲鳴を上げて倒れ手足をバタつかせようとして、気付いた。両足が動かない。動かない所か感覚がまるで無いではないか。背骨を破壊されたせいだろう。抑えもきかず、膀胱に溜まっていた尿が尿器から漏れ出る様を見て、男は絶望的な気分と激痛に気絶した。
強盗は肘の関節攻撃への反撃をしようとして、自由な方の手でポケットからナイフを取り出した。
由希人は一見して、そのナイフが特殊な物であることに気付いた。
マンガの資料として買った、ナイフを扱った本で見ていたからだ。
そのナイフは飛び出しナイフ。
鞘の内部にバネが仕組まれ、ワンタッチのボタン操作で刃先が飛び出すようになっている、危険なナイフ。
先手必勝。
由希人はためらいもなく腕に力を込め、強盗の肘を逆方向に曲げた。
「ぐぎゃ」
関節の粉砕する音に重なって、強盗が絶叫する。
あまりの痛さゆえか、強盗はナイフを握り締め、ボタンを押してしまった。
発射されるナイフの刃先。
きらめく刃は由希人と無関係な方向へ飛んだ。そして休憩室へと逃避しようとした課長の頭の付け根に刺さる。ちょうど延髄の部分。課長はドアに手を掛けたまま、ずるずるとくずおれた。首から下への命令経路が遮断されたために心臓の鼓動と呼吸活動が停止し、課長は一瞬、パニックに襲われる。しかしさすがは管理職。冷静さを取り戻し、自らの死を予感する。酸素の供給が絶たれ、じわじわと死滅する脳細胞。混濁した意識の中で、彼は自分の不幸さを嘆いていた。
由希人は強盗を倒し、組み敷いた。
やがて、パトカーがサイレンを流して近付いて来る。
気絶をしそうになりながら、健気にもすべてを見ていた三十代の女性局員は、警察に救助されると開口一番、こう言った。
「犯人は、あの人よ」
指差す先には由希人の姿。
「え?オレ?」
なかなか誤解はとけなかったという。
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あたしみたいに平べったい魚は珍しいみたい。ヒラメやカレイなんて魚もいるけど、目が寄ってるし、あんなふうに生まれなくて良かったって思ってる。
エイであるあたしが水槽の中を泳いでいる時、人間はどんな目で見ているのかしら。
この水族館に、エイはあたし一尾だけ。寂しいから、いつも砂に潜っている。
特に人間のカップルが来る日には、見てられないから一日中。
あたしだって年頃の女の子なんだもん、見せつけられたら切なくなっちゃう。
でも、恋人同士ってどんなものなのか気になるから、砂の中からこっそり見ている時もある。
みんな楽しそう。
にこにこしてこちらを指差し、笑っている。
やっぱり見なきゃ良かったなって、後悔するのはいつも同じ。
苦しくなる。
あたしには片思いの人がいるから。
――そう。片思いの人間。
あたしは人に恋している。
その人は恋人とか、人が大勢来る時間にしか来てくれないから、あたしはその時ばかりは砂の中から体を出す。
ゆっくりと近付き、彼の回りをゆっくり旋回する。
でも彼は仕事で来ているのだ。
水に潜って餌をばら撒く。
貪欲なイワシやアジといった魚たちが群がって来るけど、邪魔で邪魔で仕方がない。
みんなが満腹になっていなくなってから、あたしはゆっくりと彼に近付く。
放り出された餌は食べない。
彼の手から、直接出されたペレット状の餌を食べる。
そんな時に彼は、優しくあたしの体を撫でてくれる。
この時が一番の幸せ。
小魚たちがいなくなるのを待ってのことだから、嬉しさも一際。
人目も憚らずに、この時ばかりは彼と一緒にランデブー。
後をついて、ゆっくりと水槽の中を泳いで行く。
みんなが珍しそうにあたしたちを指差している。
でも気にしない。
彼と一緒にいられる、短い貴重な時間なんだから。
あたしのことがよほど珍しいのか、最近は人がどんどん増えている。
彼は餌付けをした後に泳いでいる時間も長くなってきた。
人が増えるのは、初めは嫌だったけど、今はもう気にしない。
そのせいで彼が一緒に泳いでくれる時間が増えたみたいだから。
四角い箱に、丸い筒の付いたものを持ってあたしの姿を追いかけてくる人も増えてきた。
集団で、中には眩しい光を出す物を持ってる人もいる。あの人たちは何だろう。
その集団が来ると必ず、彼は水槽の前に立って、箱を持った人たちの前で話をしているみたいだった。
女の人が短い棒を彼に差し出したりしている。
なんだかジェラシー。
あたしは女の人を睨みつける。
女の人は時々あたしに笑顔を向ける。そんな時、あたしは気分が悪くなって、プイっとその場を去るのだ。
でも、やっぱり彼が気になって戻ってしまう。
もしかしたら、彼の恋人なのかなって思ったりもするけど、女の人は毎回別人のようだし、たまには相手が男の人に変わっていることもある。
あたしのことについて話しているのかもしれないな。
彼がみんなに、あたしのことを自慢しているのかも。
だとしたら――ちょっと恥ずかしいけど、嬉しいな。
集団で来る人以外にも、細長い物を持って、あたしにパシャパシャと光を向ける人たちが増えてきた。
ちょっと鬱陶しいけれど、綺麗に見える時もある。
彼との恋が成就した気がするから、そんな光なんて気にしない。
あたしはいつの間にか、恋人たちが水槽の前にいても、気にならなくなっていた。
砂に潜る時間も減って、泳ぐ時間が長くなる。
これが恋なんだって、あたしは思った。
そんな時。
彼が水槽の前に、女の人と二人で来ていた。
いつものような目立たない格好はしていない。他の人みたいな服を着ていたせいで、初めはあたしも気がつかなかった。
女の人と手をつないで――いつもは見せないような笑顔で二人は話している。
まるで水槽の前に来る、普通の恋人たちみたいに。
――あたしは、衝撃を受けた。
彼には、人間の恋人がいたのだ。
考えてみれば、それは当然のことなのかもしれない。人間と魚が結ばれることなんて、結局は無理なことなんだろう。
あたしはその日から、また砂に潜ることにした。
彼が水槽に潜ってきても、もうあたしは外に出ない。
食も細くなり、ちょっと痩せた気がした。
彼は心配そうにあたしの姿を探し、近付いてくる。
でもあたしはショックを受け、怒ってもいるのだ。
砂をかけ、あたしは彼を避けようとする。だけど彼はしつこくあたしを追い回す。
段々、彼のことが憎らしくなってきた。
優しい振りはしていても、結局彼は人間の恋人の元へと戻っていくのだから。
そうしてあたしは初めて殺意を抱いた。
アカエイであるあたしには、尻尾の付け根に毒針が付いているのだ。
でも、あたしはためらっていた。
昔、餌付けの人間を襲ったサメが、別の水槽に移されたことがあるのだ。
サメがその後どうなったのか、詳しいことは知らないけれど、大体の予想はつく。
きっと、あのサメは処分されてしまったのだろう。
あのサメの行く末を想像して実行に移すことはしなかったけれど、ある日にあたしは目撃してしまったのだ。
水槽の前で、心配そうにこちらを見ている彼を元気付けようとして、彼の恋人が口付けをしたのだ。
――あたしの気持ちは固まった。
ある日のこと。
彼が例によってあたしを心配する振りをして近付いた時に、あたしは計画を実行した。
ウェットスーツに毒針を押しつけ、力いっぱいに彼の足に突き刺した。
彼は苦しんで動きが止まり、そして絶命した。
あたしも数日後には処分されるのだろう。
まさしく、すべては水の泡。
でも、これでいいんだ。
あたしは彼の浮かんだ死体を見ながらそう思った。
エイであるあたしが水槽の中を泳いでいる時、人間はどんな目で見ているのかしら。
この水族館に、エイはあたし一尾だけ。寂しいから、いつも砂に潜っている。
特に人間のカップルが来る日には、見てられないから一日中。
あたしだって年頃の女の子なんだもん、見せつけられたら切なくなっちゃう。
でも、恋人同士ってどんなものなのか気になるから、砂の中からこっそり見ている時もある。
みんな楽しそう。
にこにこしてこちらを指差し、笑っている。
やっぱり見なきゃ良かったなって、後悔するのはいつも同じ。
苦しくなる。
あたしには片思いの人がいるから。
――そう。片思いの人間。
あたしは人に恋している。
その人は恋人とか、人が大勢来る時間にしか来てくれないから、あたしはその時ばかりは砂の中から体を出す。
ゆっくりと近付き、彼の回りをゆっくり旋回する。
でも彼は仕事で来ているのだ。
水に潜って餌をばら撒く。
貪欲なイワシやアジといった魚たちが群がって来るけど、邪魔で邪魔で仕方がない。
みんなが満腹になっていなくなってから、あたしはゆっくりと彼に近付く。
放り出された餌は食べない。
彼の手から、直接出されたペレット状の餌を食べる。
そんな時に彼は、優しくあたしの体を撫でてくれる。
この時が一番の幸せ。
小魚たちがいなくなるのを待ってのことだから、嬉しさも一際。
人目も憚らずに、この時ばかりは彼と一緒にランデブー。
後をついて、ゆっくりと水槽の中を泳いで行く。
みんなが珍しそうにあたしたちを指差している。
でも気にしない。
彼と一緒にいられる、短い貴重な時間なんだから。
あたしのことがよほど珍しいのか、最近は人がどんどん増えている。
彼は餌付けをした後に泳いでいる時間も長くなってきた。
人が増えるのは、初めは嫌だったけど、今はもう気にしない。
そのせいで彼が一緒に泳いでくれる時間が増えたみたいだから。
四角い箱に、丸い筒の付いたものを持ってあたしの姿を追いかけてくる人も増えてきた。
集団で、中には眩しい光を出す物を持ってる人もいる。あの人たちは何だろう。
その集団が来ると必ず、彼は水槽の前に立って、箱を持った人たちの前で話をしているみたいだった。
女の人が短い棒を彼に差し出したりしている。
なんだかジェラシー。
あたしは女の人を睨みつける。
女の人は時々あたしに笑顔を向ける。そんな時、あたしは気分が悪くなって、プイっとその場を去るのだ。
でも、やっぱり彼が気になって戻ってしまう。
もしかしたら、彼の恋人なのかなって思ったりもするけど、女の人は毎回別人のようだし、たまには相手が男の人に変わっていることもある。
あたしのことについて話しているのかもしれないな。
彼がみんなに、あたしのことを自慢しているのかも。
だとしたら――ちょっと恥ずかしいけど、嬉しいな。
集団で来る人以外にも、細長い物を持って、あたしにパシャパシャと光を向ける人たちが増えてきた。
ちょっと鬱陶しいけれど、綺麗に見える時もある。
彼との恋が成就した気がするから、そんな光なんて気にしない。
あたしはいつの間にか、恋人たちが水槽の前にいても、気にならなくなっていた。
砂に潜る時間も減って、泳ぐ時間が長くなる。
これが恋なんだって、あたしは思った。
そんな時。
彼が水槽の前に、女の人と二人で来ていた。
いつものような目立たない格好はしていない。他の人みたいな服を着ていたせいで、初めはあたしも気がつかなかった。
女の人と手をつないで――いつもは見せないような笑顔で二人は話している。
まるで水槽の前に来る、普通の恋人たちみたいに。
――あたしは、衝撃を受けた。
彼には、人間の恋人がいたのだ。
考えてみれば、それは当然のことなのかもしれない。人間と魚が結ばれることなんて、結局は無理なことなんだろう。
あたしはその日から、また砂に潜ることにした。
彼が水槽に潜ってきても、もうあたしは外に出ない。
食も細くなり、ちょっと痩せた気がした。
彼は心配そうにあたしの姿を探し、近付いてくる。
でもあたしはショックを受け、怒ってもいるのだ。
砂をかけ、あたしは彼を避けようとする。だけど彼はしつこくあたしを追い回す。
段々、彼のことが憎らしくなってきた。
優しい振りはしていても、結局彼は人間の恋人の元へと戻っていくのだから。
そうしてあたしは初めて殺意を抱いた。
アカエイであるあたしには、尻尾の付け根に毒針が付いているのだ。
でも、あたしはためらっていた。
昔、餌付けの人間を襲ったサメが、別の水槽に移されたことがあるのだ。
サメがその後どうなったのか、詳しいことは知らないけれど、大体の予想はつく。
きっと、あのサメは処分されてしまったのだろう。
あのサメの行く末を想像して実行に移すことはしなかったけれど、ある日にあたしは目撃してしまったのだ。
水槽の前で、心配そうにこちらを見ている彼を元気付けようとして、彼の恋人が口付けをしたのだ。
――あたしの気持ちは固まった。
ある日のこと。
彼が例によってあたしを心配する振りをして近付いた時に、あたしは計画を実行した。
ウェットスーツに毒針を押しつけ、力いっぱいに彼の足に突き刺した。
彼は苦しんで動きが止まり、そして絶命した。
あたしも数日後には処分されるのだろう。
まさしく、すべては水の泡。
でも、これでいいんだ。
あたしは彼の浮かんだ死体を見ながらそう思った。
「あれ?おれ、いつの間にこんな店にいるんだっけ?」←舌足らず。
「何言ってるの?酔っ払っちゃって」←ギャル系。
「――誰?」―乱れたスーツ。
「さっき名前教えたばっかりなのに、本当に酔ってるのね。えみるです」←媚びた感じ。
えみるはボトルを手にし、ウィスキーの水割りを作る。水の割り合いは多め。
スーツの男は舌が麻痺していて味の薄さに気付かない。
店内は縦長の小さなバー。
窓はなくて暗い照明。
カウンターの奥にいるバーテンダーはがっしりタイプ。
二人はボックス席に座っている。
ボックス席はコの字型で仕切られている。
客の姿は他にない。
重低音のBGM。怪し気な音楽で原曲の曲調はすっかり壊されている。
「あれぇ、何で一緒に飲んでるんだっけ?」←のんびりした口調。
「ひっどーい。さっきのお店で仲良くなったでしょ」←甘ったるく。
「そうだっけ?まあいっか」←まんざらでもない。
バーテンダーがフルーツ盛りを持ってくる。
一礼して席を離れるバーテンダー、カウンターの中へ戻る。
「何、これ。おれ頼んでないぜ」←惑乱。
バーテンダーに文句を言う勇気はないので女に文句を言う。
「フルーツはお酒を飲んだ時に食べるとアルコールを分解してくれて二日酔いになりにくくなるのよ。食べた方がいいわ」←これは本当。
「あ、そうなの。おれ二日酔いひどいから食べとくかなぁ」←酔っているから誘導される。
「そうよ。さっきその話してたから、えみるが頼んどいてあげたのよ」←うそ。
「ありがとー、えみるちゃんは優しいなぁ」←能天気。
スーツの男がフルーツ盛りを食べている間に、えみるは自分のグラスの中身を床に捨てる。
気付かないスーツの男。
自分の水割りを作るえみる。
自分のグラスと男のグラスを巧妙に入れ替えるえみる。
バーテンダーが再びカウンターからボックス席へやって来る。
右手にはチーズの盛り合わせ、左手には冷やしトマトの皿を持っている。
皿を二つテーブルに置き、一礼してカウンターへ戻るバーテンダー。
「えっ?おれチーズ嫌いなんだけど」←顔をしかめる。
「えー、何でー?えみる大好きだよー。カルシウムたっぷりだし、好き嫌いは良くないゾ☆はい、あーんして」←百戦錬磨。
「あーん」←バカ。
もぐもぐと何度か噛んで、噎せたようにおしぼりを手にする。
おしぼりにチーズを吐き出し、包む。
「やっぱダメだ、臭いがダメ」←汚れた口元。
「あら大変、これでも飲んで」←全然大変そうではなく余裕たっぷりに。
ウィスキーのグラスを飲み干す男。
「わーすごーい」←無感動。
「これくらいの強さならまだ飲めるよ」←有頂天。
「頼もしいわ」←さっとグラスに手を伸ばす。
水割りを作るえみる。
その姿をぼんやりと見ながら。
「えみるちゃんの水割りは飲みやすいなぁ」←おだてのつもり。
「あら、そうぉ?」←内心ギクリとしたような感じで。
手早くマドラーで掻き混ぜ、男の前にグラスを置く。
「はい、ドーゾ(はあと)」←胸元を見せつける。
胸の谷間をチラ見してニヤける男。
「ありがとう」←いやらしい笑みを取り繕う。
えみるは酒を飲むフリをして男を観察。
悩殺に成功したと見てホッとする。
男は冷やしトマトをつまみながらグラスを傾ける。
「ちょっと、トイレ」←尿意。
男は立ち上がり、席を離れる。
バーテンダーにトイレの位置を尋ね、その指示に従ってトイレへ向かう。
奥へと消える、男の後ろ姿。
戻ってくる男。
足元はふらついている。
席に戻り、グラスを手にして固まる。
テーブルの上にはボトルが二本増えている。
「何だ、このボトル」←思考停止。
「ああ、お酒が無くなったから頼んどいたの」←平静。
「――って、そんなわけないだろう……そんなに早くボトルが空けるわけない……」←戸惑い。
「えみるも飲んだし~、けっこー濃いめの水割り作ったからそのせいかも」←軽くバカにした感じで。
「おれ、こんなに飲めないし――」←混乱中。
「さっきは強いって言ってたじゃーん」←煽り。
「いや、でもさすがに……下げてもられないかな」←理性取り戻し中。
「何よケチ!もっとジャンジャン頼みなさいよ」←豹変。
「何だよおい、キャッチかよ!ふざけんなよ!」←酔い冷める。
「ナニー、その言い掛かりー。チョームカツク~」←口だけ。
「ムカついてんのはこっちだよ!」←威勢の良い罵声。
出口へ向かう男。
しかしドアの前にはバーテンダーが陣取っている。
「お客さん、お勘定、お願いしますよ」←威圧的。
伝票を差し出すバーテンダー。
振り返る男。
店の奥、トイレの反対側から数人の男が現れる。
「えみるお金持ってないし~。お兄さんが払ってよね~」←もはや他人事。
舌打ちしつつも伝票を手に取る男。
金額を見て目を見開く。
「二十万って――」←声が震えている。
「ボックス席のチャージ料が五万、フルーツ盛りが三万、チーズの盛り合わせと冷やしトマトが合わせて三万、ボトル一本が三万です。何か、問題でも?」←重い声。
腕を組むバーテンダーを前に作り笑いを浮かべる男。
「――ペソじゃ……ないですよね」←あがき。
「ペソではございません。円です」←律儀。
ヘタヘタと腰砕ける男を、店の奥から現れた男達が奥へと引きずっていく。
奥へ消える男達。
カウンターへ戻るバーテンダー。
一仕事終えたかのようにタバコに火をつけるえみる。
悲鳴と怒声、布の裂ける音と打撃音。
打撃音はBGMの重低音と重なり、夜は更けていく。
↑皆さんも、十分気を付けて下さい。
「何言ってるの?酔っ払っちゃって」←ギャル系。
「――誰?」―乱れたスーツ。
「さっき名前教えたばっかりなのに、本当に酔ってるのね。えみるです」←媚びた感じ。
えみるはボトルを手にし、ウィスキーの水割りを作る。水の割り合いは多め。
スーツの男は舌が麻痺していて味の薄さに気付かない。
店内は縦長の小さなバー。
窓はなくて暗い照明。
カウンターの奥にいるバーテンダーはがっしりタイプ。
二人はボックス席に座っている。
ボックス席はコの字型で仕切られている。
客の姿は他にない。
重低音のBGM。怪し気な音楽で原曲の曲調はすっかり壊されている。
「あれぇ、何で一緒に飲んでるんだっけ?」←のんびりした口調。
「ひっどーい。さっきのお店で仲良くなったでしょ」←甘ったるく。
「そうだっけ?まあいっか」←まんざらでもない。
バーテンダーがフルーツ盛りを持ってくる。
一礼して席を離れるバーテンダー、カウンターの中へ戻る。
「何、これ。おれ頼んでないぜ」←惑乱。
バーテンダーに文句を言う勇気はないので女に文句を言う。
「フルーツはお酒を飲んだ時に食べるとアルコールを分解してくれて二日酔いになりにくくなるのよ。食べた方がいいわ」←これは本当。
「あ、そうなの。おれ二日酔いひどいから食べとくかなぁ」←酔っているから誘導される。
「そうよ。さっきその話してたから、えみるが頼んどいてあげたのよ」←うそ。
「ありがとー、えみるちゃんは優しいなぁ」←能天気。
スーツの男がフルーツ盛りを食べている間に、えみるは自分のグラスの中身を床に捨てる。
気付かないスーツの男。
自分の水割りを作るえみる。
自分のグラスと男のグラスを巧妙に入れ替えるえみる。
バーテンダーが再びカウンターからボックス席へやって来る。
右手にはチーズの盛り合わせ、左手には冷やしトマトの皿を持っている。
皿を二つテーブルに置き、一礼してカウンターへ戻るバーテンダー。
「えっ?おれチーズ嫌いなんだけど」←顔をしかめる。
「えー、何でー?えみる大好きだよー。カルシウムたっぷりだし、好き嫌いは良くないゾ☆はい、あーんして」←百戦錬磨。
「あーん」←バカ。
もぐもぐと何度か噛んで、噎せたようにおしぼりを手にする。
おしぼりにチーズを吐き出し、包む。
「やっぱダメだ、臭いがダメ」←汚れた口元。
「あら大変、これでも飲んで」←全然大変そうではなく余裕たっぷりに。
ウィスキーのグラスを飲み干す男。
「わーすごーい」←無感動。
「これくらいの強さならまだ飲めるよ」←有頂天。
「頼もしいわ」←さっとグラスに手を伸ばす。
水割りを作るえみる。
その姿をぼんやりと見ながら。
「えみるちゃんの水割りは飲みやすいなぁ」←おだてのつもり。
「あら、そうぉ?」←内心ギクリとしたような感じで。
手早くマドラーで掻き混ぜ、男の前にグラスを置く。
「はい、ドーゾ(はあと)」←胸元を見せつける。
胸の谷間をチラ見してニヤける男。
「ありがとう」←いやらしい笑みを取り繕う。
えみるは酒を飲むフリをして男を観察。
悩殺に成功したと見てホッとする。
男は冷やしトマトをつまみながらグラスを傾ける。
「ちょっと、トイレ」←尿意。
男は立ち上がり、席を離れる。
バーテンダーにトイレの位置を尋ね、その指示に従ってトイレへ向かう。
奥へと消える、男の後ろ姿。
戻ってくる男。
足元はふらついている。
席に戻り、グラスを手にして固まる。
テーブルの上にはボトルが二本増えている。
「何だ、このボトル」←思考停止。
「ああ、お酒が無くなったから頼んどいたの」←平静。
「――って、そんなわけないだろう……そんなに早くボトルが空けるわけない……」←戸惑い。
「えみるも飲んだし~、けっこー濃いめの水割り作ったからそのせいかも」←軽くバカにした感じで。
「おれ、こんなに飲めないし――」←混乱中。
「さっきは強いって言ってたじゃーん」←煽り。
「いや、でもさすがに……下げてもられないかな」←理性取り戻し中。
「何よケチ!もっとジャンジャン頼みなさいよ」←豹変。
「何だよおい、キャッチかよ!ふざけんなよ!」←酔い冷める。
「ナニー、その言い掛かりー。チョームカツク~」←口だけ。
「ムカついてんのはこっちだよ!」←威勢の良い罵声。
出口へ向かう男。
しかしドアの前にはバーテンダーが陣取っている。
「お客さん、お勘定、お願いしますよ」←威圧的。
伝票を差し出すバーテンダー。
振り返る男。
店の奥、トイレの反対側から数人の男が現れる。
「えみるお金持ってないし~。お兄さんが払ってよね~」←もはや他人事。
舌打ちしつつも伝票を手に取る男。
金額を見て目を見開く。
「二十万って――」←声が震えている。
「ボックス席のチャージ料が五万、フルーツ盛りが三万、チーズの盛り合わせと冷やしトマトが合わせて三万、ボトル一本が三万です。何か、問題でも?」←重い声。
腕を組むバーテンダーを前に作り笑いを浮かべる男。
「――ペソじゃ……ないですよね」←あがき。
「ペソではございません。円です」←律儀。
ヘタヘタと腰砕ける男を、店の奥から現れた男達が奥へと引きずっていく。
奥へ消える男達。
カウンターへ戻るバーテンダー。
一仕事終えたかのようにタバコに火をつけるえみる。
悲鳴と怒声、布の裂ける音と打撃音。
打撃音はBGMの重低音と重なり、夜は更けていく。
↑皆さんも、十分気を付けて下さい。
人は、運命を変えることができるのだろうか。
浩二は運命の別れ目に立たされていた。
一人の女性と自分の人生。
どちらを選ぶのか。
――どちらも手に入れたい。
彼を貪欲とみなすことは簡単だろう。しかし未来の拓けつつある今、その一言で彼を断定するのは酷というものかもしれない。
浩二はF-1のテストドライバーとして選ばれたのだ。
この成績次第では、彼のF-1への昇格が決まり、長年の夢が叶う。
その夢が叶ったら――広美という彼女にプロポーズをするつもりでもある。
人生におけるクライマックスの一つ、今、浩二には大事な時であり、最大のチャンスの時なのだ。
広美は彼のレーサーという職業ゆえに、絶えず不安の中にいる。
いつ、大事故を起こし、大怪我、さらには最悪の事態となるか分からない。
その不安が二人の愛の絆を深めているという皮肉な側面もあるだろう。
浩二の危険な香りに惹かれている自分を広美は自覚している。
不安と安定、広美はその狭間で悩みながらも、彼の不安定をこそ求めている自分を否定しきれない。
だが、浩二の安全を願う気持ちに嘘偽りはなかった。本心からレースの無事を思っている。
――アンビバレンツ。
相反する願いと想い。
人は誰しもそうしたものを持っている。
そして悩み、決断することに人生の美しさもまた、あるのだろう。
でも、その間で苦悩する時、人は人知を超えた何かに思いを託し依存してしまうものだ。
誰にだって思い当たることはあるだろう。
広美は不安を払拭したくなる時に、ある占い師に頼ってしまうことがある。
あまり有名ではない占い師ではあるが、その的中率は高く、知る人ぞ知る占い師であった。
事実、広美はこの占い師に今まで何度も相談し、従い、その結果が外れたことは一度もない。
浩二と二人で占ってもらったこともある。
その時に言われたことは今でも忘れたことはない。
二人は出会うべくして出会い、運命の名の下に結ばれる、まさに最高の相性であるということであった。
――まさに運命の二人。
その結果に二人は当然満足し、浩二もその占い師のことを認めるようになった。
この占い師は都合の良いことを言うだけではなく、厳しい言葉も言うこともあり、それがさらに信頼を得ることに拍車をかけている。
浩二のテストドライバーが決まった時、広美は当然のようにその占い師を訪ねた。
――が、その結果は芳しいものではなかったのだ。
占い師の言によると、今回の話はパスし、三年後までガマンをするべきだと言う。
広美には納得のいく結果ではなかったので食い下がった。
なぜ今では駄目なのか、どうして三年後まで待たねばならないのか。
占い師はいつになく歯切れが悪かった。
不信感を抱いた広美は、占い師をなじる言葉を吐いた。
その末に、占い師は重い口を開く。
そして広美は――打ちひしがれた。
今回のテストドライバーの話を受ければ、浩二は酷い大事故を起こしてしまうという。それは命を失うほど重大な事故で、どんなことをしてでも止めるべきという内容だったからだ。
もちろん、この話を蹴ってしまってはデメリットも大きい。
次のチャンスまで三年の時間が開いてしまうのはそのせいでもある。
広美は、この結果を浩二に言うべきか否か悩んだ。
希望を前にした彼に話すべき内容ではないだろう。しかし命に関わるとなれば話は別――だが、浩二が聞く耳を持つかどうか。
広美は、しかしこの話を浩二に告げることにした。
彼の危険な香りが好きとはいえ、本当に大事故が起こってしまっては二度と会えないかもしれないのだ。
この話をすることで彼に嫌われるかもしれない。けれど永遠に失うことはしたくない。
二人には運命で結ばれた絆があるのだから。
決断の下、広美は浩二に占いの結果を伝えた。
浩二は占い師の言葉を鼻で笑った。
いくら認めているとはいえ、占いなどは結局、当たるも八卦当たらぬも八卦と言うではないかと。
広美は食い下がるが、浩二は頑として聞かない。
広美にはまだ言っていないが、浩二としてはプロポーズもかかっていることなのだ、簡単に折れることなどできるはずもない。
その日は喧嘩別れになってしまった。
テストドライブまでまだ日はある。
広美はじっくりと彼を説得しようと思い、日を空けることにした。
浩二はテストドライブが終わってからのことを思い、サプライズイベントの用意を始めた。
互いに連絡を取りつつも、二人は会って話をすることができない日々が続く。
広美が業を煮やして浩二の元に赴いた時、サプライズイベントとしてのプロポーズを耳にしてしまった。
広美は嬉しさの中で舞い上がり、希望的観測に逃げてしまう。
――そう。占いは所詮占い。すべてが現実になるわけではない。事実、あの占い師にしたって外れたことがないわけでもないだろう。今回がまさに外れの時。
広美は浩二に会わず、何も知らないふりをして帰った。
テストドライブ当日――
準備万端で浩二は体調も良かった。
いいタイムが出そうだ。
浩二には、その確信があった。
一週目はエンジンの暖まり具合や路面のコンディションやウィングの角度と計器のチェック等々といった確認作業をしながら軽く流していく。
シミュレート通り、エンジンの心地よい唸り、路面に張り付くタイヤから伝わるサスペンションの振動、軽快なシフトチェンジに滑らかなハンドル捌き。
ラストコーナを曲がり、ストレートに入って最高速までスピードを上げる。
二週目、本番、タイムアタック。
ブレーキ、シフトダウン、理想的なライン取りで最初のコーナーを曲がる。アクセル、シフトアップ、すぐにシフトダウン、エンジンブレーキ、S字コーナーを直進するように走る。アクセル、シフトアップ、スピードを上げて次のコーナーへ。
遠くから広美が見守っている。
アウトインアウト、コーナーを遣り過す。アクセル、シフトアップ、リアが滑る。修正、少しのタイムロス。しかしまだ許容範囲内。ヘアピンカーブに入るためのラインを取る。外側から徐々にスピードを落とし、シフトダウン、ブレーキ、急ハンドル、内側を突いて流れるように外へ膨らむのはセオリー通り。アウトからアクセルを踏み、流れるテールを力技で制御する。体制を立て直すことに成功し、さらにアクセル、シフトアップ、最後のゆるくて長いカーブ。シフトダウン、エンジンブレーキ、遠心力を味方につける。ハンドルの角度は固定したままでアクセル。コーナーを抜け、ストレート、アクセルベタ踏みでシフトアップ、最高速度で二週目を終え、ガッツポーズ。
手応えはあった。
今までのベストタイムかもしれない。
浩二は再びハンドルを握り、ブレーキを踏む。
しかしスピードは落ちない。
トラブル、ピットへ向けて異常の報告。耳元で聞こえるクルー達の慌てた声、声。
シフトダウン、エンジンブレーキを効かせようとするがギアに故障発生、通信、クルーの声、ハンドルを握る手は恐怖で固まり動けない。そして浩二は――風になった。
広美は涙を流している。
浩二の遺影を前にして。
運命の人を失ってしまった彼女のこれからはどうなってしまうのだろうか。
運命に抗い切れなかった男、運命に翻弄された女。
運命には時に別れ道があり、人には運命を変える力があるという。
しかしそれが最悪の方向に変わり、変えてしまった場合、残された一人の女に、立ち向かう術はあるのだろうか。
浩二は運命の別れ目に立たされていた。
一人の女性と自分の人生。
どちらを選ぶのか。
――どちらも手に入れたい。
彼を貪欲とみなすことは簡単だろう。しかし未来の拓けつつある今、その一言で彼を断定するのは酷というものかもしれない。
浩二はF-1のテストドライバーとして選ばれたのだ。
この成績次第では、彼のF-1への昇格が決まり、長年の夢が叶う。
その夢が叶ったら――広美という彼女にプロポーズをするつもりでもある。
人生におけるクライマックスの一つ、今、浩二には大事な時であり、最大のチャンスの時なのだ。
広美は彼のレーサーという職業ゆえに、絶えず不安の中にいる。
いつ、大事故を起こし、大怪我、さらには最悪の事態となるか分からない。
その不安が二人の愛の絆を深めているという皮肉な側面もあるだろう。
浩二の危険な香りに惹かれている自分を広美は自覚している。
不安と安定、広美はその狭間で悩みながらも、彼の不安定をこそ求めている自分を否定しきれない。
だが、浩二の安全を願う気持ちに嘘偽りはなかった。本心からレースの無事を思っている。
――アンビバレンツ。
相反する願いと想い。
人は誰しもそうしたものを持っている。
そして悩み、決断することに人生の美しさもまた、あるのだろう。
でも、その間で苦悩する時、人は人知を超えた何かに思いを託し依存してしまうものだ。
誰にだって思い当たることはあるだろう。
広美は不安を払拭したくなる時に、ある占い師に頼ってしまうことがある。
あまり有名ではない占い師ではあるが、その的中率は高く、知る人ぞ知る占い師であった。
事実、広美はこの占い師に今まで何度も相談し、従い、その結果が外れたことは一度もない。
浩二と二人で占ってもらったこともある。
その時に言われたことは今でも忘れたことはない。
二人は出会うべくして出会い、運命の名の下に結ばれる、まさに最高の相性であるということであった。
――まさに運命の二人。
その結果に二人は当然満足し、浩二もその占い師のことを認めるようになった。
この占い師は都合の良いことを言うだけではなく、厳しい言葉も言うこともあり、それがさらに信頼を得ることに拍車をかけている。
浩二のテストドライバーが決まった時、広美は当然のようにその占い師を訪ねた。
――が、その結果は芳しいものではなかったのだ。
占い師の言によると、今回の話はパスし、三年後までガマンをするべきだと言う。
広美には納得のいく結果ではなかったので食い下がった。
なぜ今では駄目なのか、どうして三年後まで待たねばならないのか。
占い師はいつになく歯切れが悪かった。
不信感を抱いた広美は、占い師をなじる言葉を吐いた。
その末に、占い師は重い口を開く。
そして広美は――打ちひしがれた。
今回のテストドライバーの話を受ければ、浩二は酷い大事故を起こしてしまうという。それは命を失うほど重大な事故で、どんなことをしてでも止めるべきという内容だったからだ。
もちろん、この話を蹴ってしまってはデメリットも大きい。
次のチャンスまで三年の時間が開いてしまうのはそのせいでもある。
広美は、この結果を浩二に言うべきか否か悩んだ。
希望を前にした彼に話すべき内容ではないだろう。しかし命に関わるとなれば話は別――だが、浩二が聞く耳を持つかどうか。
広美は、しかしこの話を浩二に告げることにした。
彼の危険な香りが好きとはいえ、本当に大事故が起こってしまっては二度と会えないかもしれないのだ。
この話をすることで彼に嫌われるかもしれない。けれど永遠に失うことはしたくない。
二人には運命で結ばれた絆があるのだから。
決断の下、広美は浩二に占いの結果を伝えた。
浩二は占い師の言葉を鼻で笑った。
いくら認めているとはいえ、占いなどは結局、当たるも八卦当たらぬも八卦と言うではないかと。
広美は食い下がるが、浩二は頑として聞かない。
広美にはまだ言っていないが、浩二としてはプロポーズもかかっていることなのだ、簡単に折れることなどできるはずもない。
その日は喧嘩別れになってしまった。
テストドライブまでまだ日はある。
広美はじっくりと彼を説得しようと思い、日を空けることにした。
浩二はテストドライブが終わってからのことを思い、サプライズイベントの用意を始めた。
互いに連絡を取りつつも、二人は会って話をすることができない日々が続く。
広美が業を煮やして浩二の元に赴いた時、サプライズイベントとしてのプロポーズを耳にしてしまった。
広美は嬉しさの中で舞い上がり、希望的観測に逃げてしまう。
――そう。占いは所詮占い。すべてが現実になるわけではない。事実、あの占い師にしたって外れたことがないわけでもないだろう。今回がまさに外れの時。
広美は浩二に会わず、何も知らないふりをして帰った。
テストドライブ当日――
準備万端で浩二は体調も良かった。
いいタイムが出そうだ。
浩二には、その確信があった。
一週目はエンジンの暖まり具合や路面のコンディションやウィングの角度と計器のチェック等々といった確認作業をしながら軽く流していく。
シミュレート通り、エンジンの心地よい唸り、路面に張り付くタイヤから伝わるサスペンションの振動、軽快なシフトチェンジに滑らかなハンドル捌き。
ラストコーナを曲がり、ストレートに入って最高速までスピードを上げる。
二週目、本番、タイムアタック。
ブレーキ、シフトダウン、理想的なライン取りで最初のコーナーを曲がる。アクセル、シフトアップ、すぐにシフトダウン、エンジンブレーキ、S字コーナーを直進するように走る。アクセル、シフトアップ、スピードを上げて次のコーナーへ。
遠くから広美が見守っている。
アウトインアウト、コーナーを遣り過す。アクセル、シフトアップ、リアが滑る。修正、少しのタイムロス。しかしまだ許容範囲内。ヘアピンカーブに入るためのラインを取る。外側から徐々にスピードを落とし、シフトダウン、ブレーキ、急ハンドル、内側を突いて流れるように外へ膨らむのはセオリー通り。アウトからアクセルを踏み、流れるテールを力技で制御する。体制を立て直すことに成功し、さらにアクセル、シフトアップ、最後のゆるくて長いカーブ。シフトダウン、エンジンブレーキ、遠心力を味方につける。ハンドルの角度は固定したままでアクセル。コーナーを抜け、ストレート、アクセルベタ踏みでシフトアップ、最高速度で二週目を終え、ガッツポーズ。
手応えはあった。
今までのベストタイムかもしれない。
浩二は再びハンドルを握り、ブレーキを踏む。
しかしスピードは落ちない。
トラブル、ピットへ向けて異常の報告。耳元で聞こえるクルー達の慌てた声、声。
シフトダウン、エンジンブレーキを効かせようとするがギアに故障発生、通信、クルーの声、ハンドルを握る手は恐怖で固まり動けない。そして浩二は――風になった。
広美は涙を流している。
浩二の遺影を前にして。
運命の人を失ってしまった彼女のこれからはどうなってしまうのだろうか。
運命に抗い切れなかった男、運命に翻弄された女。
運命には時に別れ道があり、人には運命を変える力があるという。
しかしそれが最悪の方向に変わり、変えてしまった場合、残された一人の女に、立ち向かう術はあるのだろうか。
細長い室内。
すでに電気は消えており、室内は真っ暗だ。
両の壁際には小さな動物用のケージが三段、ずらりと部屋いっぱいに並んでいる。
室内には様々な動物の混じりあった、独特の獣臭。
ケージの空きは少なく、動物たちが主人から放された悲壮感が漂っている。
「おれたち、ここに捨てられたのかな」年端もいかない、白いチンチラがつぶやく。「ここで死ぬのかな」
「お前は今日初めてだからそんなことを言うのかもしれないけれど」対面の三毛猫が言う。「そんなこと言わない方がいいわ。余計に辛気臭くなる」
「そうだ、やめろよ」言うのは年経たシベリアンハスキーだ。「まあ不安になるのは分かる。しかしおれはここを何回も出入りしている。大丈夫だよ、安心しろ」
「安心安心」今度は白いフェレットだ。「ここは動物病院。病気が治ればすぐ出られる」
「だけど――」チンチラはまだ不安そうだ。
「お前は重い病気ってわけでもないんだろ」シベリアンハスキーがなだめる。「大丈夫だよ、一週間もしないうちに家へ帰れる」
「安心安心」白いフェレットだ。
「手術は明日なんだろう。大丈夫。寝ているうちに終わるよ」
三毛猫がそう言うと、フェレットが大丈夫大丈夫と連呼する。
「でもなあ」意地悪そうにアビシニアンが言う。「お腹切られるんだぜ」
「お腹――」
死という概念をきちんと理解はできていないのだが、アビシニアンの言葉にチンチラは身を震わせた。
「そういうことは言うもんじゃない」
三毛猫がアビシニアンをたしなめる。
「すまねえな姉御」アビシニアンは謝りつつも嗜虐心を抑えることができない。「確かに寝ているうちに終わるよ。おれの骨折手術も寝ているうちに終わった。だけども麻酔が切れると痛くて痛くて仕方がないぜ。今でも手術痕が痛むよ。おーいてぇいてぇ」
「痛ぇ痛ぇ」フェレットが言った。
チンチラはまたもや身震いをする。未知の恐怖ほど恐いものはない。チンチラは小便をした。
「おやおや漏らしちまったのかい」アビシニアンはアリスに出てくるチェシャ猫のような顔をした。
「そこら辺でやめてあげな」ゴールデンレトリバーが言う。「アンタ、家の近くの飼い猫だったわね。それ以上言うと散歩で家の前を通るたびに吠えまくってやるからね」
アビシニアンはビクリとすると、それきり黙りこんでしまう。
「アンタもね、そんなに恐がるんじゃないよ」ゴールデンレトリバーはチンチラに向かって言う。「みんな病気や怪我してるんだし、そんなこと言われると不快になるやつもいるんだからさ」
「すみません」チンチラは素直に謝る。
「そんなに硬くならなくていい」三毛猫だ。
「ここの獣医は名医だからね、心配しなくても大丈夫さ」
「大丈夫大丈夫」
「はい。優しそうな獣医さんでした」
「それでいいんだよ」三毛猫はチンチラに言った。
「それでいいそれでいい」
「まったくお前は、オウムでもないのにオウム返しばっかりだな」
シベリアンハスキーに言われてフェレットは恥ずかしそうに身をよじる。
「――優しそうな獣医、ね」意味ありげにアカミミガメ――通称ミドリガメが水槽からか首を伸ばして言う。
「えっ何ですか、何ですか」チンチラは恐がっている。
「あたしらには関係ない話よ」ゴールデンレトリバーだ。「ただ、人間相手にはちょっと……ね。獣医さんも人間だし、どこか欠点があるのも仕方のない話よ」
「何ですか?気になります」恐そうな話ではないと知り、チンチラは興味を掻き立てられる。
「気になる気になる」フェレットもこの話は知らないようだ。
ウヒヒヒヒと亀は笑って水槽に潜った。
「まったく、あいつ本当に出歯亀だぜ」シベリアンハスキーがこぼす。
「人間はおれたちと違って万年発情期だからな」静かにしていたアビシニアンが勢いを取り戻した。「ここの看護婦たちに手当たり次第、手を付けているのさ。人がいない所ならどこでもやる。この部屋でだってやるんだぜ、おれたちの目の前で。まったくうるさくてかなわんわな」
「下世話な話よ」ゴールデンレトリバーは興味を失くしたように丸くなった。
「人間の交尾っていうのは、なんであんなに時間がかかるものなのかね」アビシニアンは続ける。「それに服なんてものを着て。あんなことをするんなら最初から服なんて着なきゃいいのに、わざわざ面倒臭いことをするもんだ」
「ウヒヒヒヒ」ミドリガメがまたもや首を伸ばした。「ウチの飼い主なんて、服を着たままの方が燃えるなんて言ってやしたぜ。性癖ってやつなんでしょうな」
「まったく、朝昼夜と関係ないからな、人間ってやつは。どうしようもねぇよ」誇り高きシベリアンハスキーはうんざりといった様子だ。
「そうですか、ダンナ」ミドリガメは好色そうに言う。「あたしには願ったり叶ったりですがね」
「ああもう面倒臭い。なんでこんな話になっちまったのかねぇ」三毛猫がグチをこぼす。
「――発情期?」チンチラはピンと来ないようだ。「交尾ってなんですか」
ミドリガメが驚きの声を上げる。
「まあ、ミドリガメには同じ列で見えないから仕方ないか」アビシニアンが言った。「チンチラはまだ子供なんだよ。ネンネなのさ」
なんだつまらないと言ってミドリガメは水槽の中に沈んだ。
「――何だろう。見てみたいなぁ」
「見てみたい見てみたい」
フェレットも子供なのか、てらいなくチンチラの言葉を繰り返す。
その時、室内に電気が点き、夜の回診かと動物達は静かにする。
が、入室してきたのは獣医と看護師。
動物たちの見守る中、人間たちの交尾が始まる――
すでに電気は消えており、室内は真っ暗だ。
両の壁際には小さな動物用のケージが三段、ずらりと部屋いっぱいに並んでいる。
室内には様々な動物の混じりあった、独特の獣臭。
ケージの空きは少なく、動物たちが主人から放された悲壮感が漂っている。
「おれたち、ここに捨てられたのかな」年端もいかない、白いチンチラがつぶやく。「ここで死ぬのかな」
「お前は今日初めてだからそんなことを言うのかもしれないけれど」対面の三毛猫が言う。「そんなこと言わない方がいいわ。余計に辛気臭くなる」
「そうだ、やめろよ」言うのは年経たシベリアンハスキーだ。「まあ不安になるのは分かる。しかしおれはここを何回も出入りしている。大丈夫だよ、安心しろ」
「安心安心」今度は白いフェレットだ。「ここは動物病院。病気が治ればすぐ出られる」
「だけど――」チンチラはまだ不安そうだ。
「お前は重い病気ってわけでもないんだろ」シベリアンハスキーがなだめる。「大丈夫だよ、一週間もしないうちに家へ帰れる」
「安心安心」白いフェレットだ。
「手術は明日なんだろう。大丈夫。寝ているうちに終わるよ」
三毛猫がそう言うと、フェレットが大丈夫大丈夫と連呼する。
「でもなあ」意地悪そうにアビシニアンが言う。「お腹切られるんだぜ」
「お腹――」
死という概念をきちんと理解はできていないのだが、アビシニアンの言葉にチンチラは身を震わせた。
「そういうことは言うもんじゃない」
三毛猫がアビシニアンをたしなめる。
「すまねえな姉御」アビシニアンは謝りつつも嗜虐心を抑えることができない。「確かに寝ているうちに終わるよ。おれの骨折手術も寝ているうちに終わった。だけども麻酔が切れると痛くて痛くて仕方がないぜ。今でも手術痕が痛むよ。おーいてぇいてぇ」
「痛ぇ痛ぇ」フェレットが言った。
チンチラはまたもや身震いをする。未知の恐怖ほど恐いものはない。チンチラは小便をした。
「おやおや漏らしちまったのかい」アビシニアンはアリスに出てくるチェシャ猫のような顔をした。
「そこら辺でやめてあげな」ゴールデンレトリバーが言う。「アンタ、家の近くの飼い猫だったわね。それ以上言うと散歩で家の前を通るたびに吠えまくってやるからね」
アビシニアンはビクリとすると、それきり黙りこんでしまう。
「アンタもね、そんなに恐がるんじゃないよ」ゴールデンレトリバーはチンチラに向かって言う。「みんな病気や怪我してるんだし、そんなこと言われると不快になるやつもいるんだからさ」
「すみません」チンチラは素直に謝る。
「そんなに硬くならなくていい」三毛猫だ。
「ここの獣医は名医だからね、心配しなくても大丈夫さ」
「大丈夫大丈夫」
「はい。優しそうな獣医さんでした」
「それでいいんだよ」三毛猫はチンチラに言った。
「それでいいそれでいい」
「まったくお前は、オウムでもないのにオウム返しばっかりだな」
シベリアンハスキーに言われてフェレットは恥ずかしそうに身をよじる。
「――優しそうな獣医、ね」意味ありげにアカミミガメ――通称ミドリガメが水槽からか首を伸ばして言う。
「えっ何ですか、何ですか」チンチラは恐がっている。
「あたしらには関係ない話よ」ゴールデンレトリバーだ。「ただ、人間相手にはちょっと……ね。獣医さんも人間だし、どこか欠点があるのも仕方のない話よ」
「何ですか?気になります」恐そうな話ではないと知り、チンチラは興味を掻き立てられる。
「気になる気になる」フェレットもこの話は知らないようだ。
ウヒヒヒヒと亀は笑って水槽に潜った。
「まったく、あいつ本当に出歯亀だぜ」シベリアンハスキーがこぼす。
「人間はおれたちと違って万年発情期だからな」静かにしていたアビシニアンが勢いを取り戻した。「ここの看護婦たちに手当たり次第、手を付けているのさ。人がいない所ならどこでもやる。この部屋でだってやるんだぜ、おれたちの目の前で。まったくうるさくてかなわんわな」
「下世話な話よ」ゴールデンレトリバーは興味を失くしたように丸くなった。
「人間の交尾っていうのは、なんであんなに時間がかかるものなのかね」アビシニアンは続ける。「それに服なんてものを着て。あんなことをするんなら最初から服なんて着なきゃいいのに、わざわざ面倒臭いことをするもんだ」
「ウヒヒヒヒ」ミドリガメがまたもや首を伸ばした。「ウチの飼い主なんて、服を着たままの方が燃えるなんて言ってやしたぜ。性癖ってやつなんでしょうな」
「まったく、朝昼夜と関係ないからな、人間ってやつは。どうしようもねぇよ」誇り高きシベリアンハスキーはうんざりといった様子だ。
「そうですか、ダンナ」ミドリガメは好色そうに言う。「あたしには願ったり叶ったりですがね」
「ああもう面倒臭い。なんでこんな話になっちまったのかねぇ」三毛猫がグチをこぼす。
「――発情期?」チンチラはピンと来ないようだ。「交尾ってなんですか」
ミドリガメが驚きの声を上げる。
「まあ、ミドリガメには同じ列で見えないから仕方ないか」アビシニアンが言った。「チンチラはまだ子供なんだよ。ネンネなのさ」
なんだつまらないと言ってミドリガメは水槽の中に沈んだ。
「――何だろう。見てみたいなぁ」
「見てみたい見てみたい」
フェレットも子供なのか、てらいなくチンチラの言葉を繰り返す。
その時、室内に電気が点き、夜の回診かと動物達は静かにする。
が、入室してきたのは獣医と看護師。
動物たちの見守る中、人間たちの交尾が始まる――