「来年のことを言うと鬼が笑うって言うけどさ」八郎が言う。「今年も残り、一週間も無いんだし、正月どうするかいい加減に決めなきゃなぁ」
「ああ」
「そうだな」
「もう、そんな時期なのね」
八郎の兄や姉たちは答えた。
その時だった。
狭いリビング内に重い音が響く。
よく聞くと、どうやらそれは笑い声のようだった。
あえてそれを文学という情報伝達媒体としてコード化するならば、こんな感じになる↓
「ヴ ヴァ ヴォ ヴァヴヴォ ヴォオオオオオオ ヴァル ヴァルヴァヴァヴァヴルァッ! ブベラボブオ ブリアッ!」
「鬼だ!」八郎の姉さんが悲鳴を上げる。「鬼よ! みんな逃げ――」
床下から大きな赤い手が現れ、彼女の細い体を握った。
彼女は鬼の握力のせいで息もできずに眉根を寄せ、一種官能的とも言えるような苦悶の表情を見せた。
二十階建てマンションの、地上九階。
八郎は階下の住人が気になり、赤い腕と床の境目を見る。
そこには、ただ永遠の暗黒が見えるばかり。もしかしたら別の次元につながっているのかもしれないなと八郎が思ったときだった。
暗闇の中から怒りに燃える、二つの瞳が、周囲の暗黒よりもどす黒い邪気を放って八郎を射抜いていたのだ。
八郎は体がすくんで動けず、腰を抜かした。
床の裂け目からは腕が伸び、怒髪天を衝く鬼の額、それから目、鼻と顔が現れた。
八郎の姉を掴んだ右腕と顔だけを覗かせながら、鬼はまだ笑っている。
鼓膜がビリビリと震える。
一同は耳を塞ぐが、効果はなかった。
どうやら何かしらの力でもって、鼓膜だけに干渉しているみたいだ。
「これが、鬼の力か」八郎の兄のうちの一人が言った。
悲鳴みたいに、声を荒げて。
鬼は姉である一人の女性を掴んだまま、右腕を後ろに逸らした。
八郎は思った。
――何のためだろう?
しかし彼は瞬時に気付き、兄や姉に声をかける。
「バックスウィングだ!皆伏せて!」
しかし全員が耳を塞いでいるために、八郎の叫び、望む声が聞き取れない。
モリ――モリッと鬼の肩の筋肉が膨らみ、それは上腕から肘、そして下腕にまで達する。
手首の筋肉が膨らんだときには、掴まれていた姉の顔は蒼褪め口から泡を吐いていた。泡は弾け、粘性を失うと液状のよだれとなって、鬼の親指に滴った。
すると次の瞬間には、その親指を初めとするすべての指が膨らんで、右手の彼女をさらに圧する。
か細く華奢な八郎の姉は、その握力に抗うことも出来ずに口から血や臓物を吐き出し、眼球は押し出され、鼻血と涙でまだらな赤に濁って落ち、重すぎる圧力に脳が両眼の飛び落ちた眼窩からトコロテンのように搾り出される。続いて木の枝が折れるようなパキポキといった骨の砕ける音が聞こえてきた。
それは時間にして一、二秒のことだったから、八郎に姉の死に様がすべて見えていたとは考えにくい。
しかし彼は確かに目撃をした。
姉の死を、目撃した。
バックスウィングをした鬼の腕が振るわれ、八郎の兄姉たちが犠牲となった。ある者は胸に直撃されてそこから体が上と下との二つに分かれた。ある者は耳を塞いで屈んでいたために頭部が破壊されて脳漿やぐずぐずに崩れた脳をぶち撒かされて骨の一部や上記した物は壁一面にこびりついた。
鬼の右腕一振りで、八郎以外の兄や姉は皆死んでしまった。
伏せていた八郎は恐る恐る顔を上げ、惨劇の跡を見渡し絶句した。
気を失わずに済んだのは、喉元をせり上がってくる胃液のヒリヒリとした痛みと吐き気のせいだろう。
鬼はおもむろに掴んでいた八郎の姉を放した。
姉の体には、握られた粘土のようにしっかりと鬼の指跡が付き、それが人体であったことが嘘みたいに潰されていた。
「やっぱり」八郎は自分でも気付かず口にしていた。「来年の話は駄目ですか」
鬼はその言葉を聞くと、今までの態度と百八十度転換し、清清しい、一つの邪気も無い無邪気な声で言った。
「うん」鬼の瞳は優しいものへと変わっている。「駄目だよ。分かった?」
「――はい」八郎は答えた。
けれども八郎の意識はここで一時期、失われることとなる。
あまりの出来事に精神が保たず、現実を拒否する心の防衛反応により、気絶をしてしまったのだ。
だから、鬼がその後にどうやって帰ったのか、床の穴がなぜ消えたのかは分からない。
八郎はそのことで困っている。
とっても困っていたのだ。
密室での大量殺人。
確実に、八郎は容疑者扱いされている。
本当のことを言っても、誰も本気にしてくれない。
一度、霊視するという霊媒師が来たが、それはインチキ霊媒師だった。八郎と一儲けするために買収しようとしてきたのだ。
もちろん八郎は断わった。
しかしこのような大事件にも関わらず、八郎に接近できるということは余程名の売れた霊媒師か警察幹部とのコネを持っている人間なのだろう。
八郎はこの一件で、ますます窮地に陥ってしまったとも言えるだろう。
けれど彼には嘘をつけない。
兄や姉たちの死、その失われた命にかけて。
八郎は確信している。
このまま裁判で争っても、自分は死刑になるだけだと。
しかしそれもまた、仕方のないことだと思っている。
なぜなら来年の話を持ち出したのは自分だからだ。
間接的に、兄や姉を殺したのは自分だと八郎は思っている。
後は、粛々と刑の執行を待つだけだ。
死刑が執行されるまでの間、八郎は自らの軽挙妄動を反省することにした。悔い改め、毎日の日々を拘留所で過した。
しかし思いがけないことが起こった。
八郎は精神的に問題があるとされ、精神科への移送が決まったのだ。
大晦日前日の、まさに慌しい一日であった。
「良いよな、お前は」拘留所で知り合った男が八郎に声をかけてきた。「こんなに早く移送されるなんて、異例中の異例だぜ。お前、何かの秘密を握っているんじゃないのか?」
「秘密? 秘密ってなんです?」
「お前が足蹴にした霊媒師はな、ありゃ大物政治家の飼い犬だ。そいつに唾かけてもこんなに早い措置。こりゃ何かがあるんじゃないかと思ってよ」
「――残念ながら、私には心当たりがないのですよ」
あまりに真っ直ぐな八郎の視線に、男は狼狽えた。
「そ、そうか」男は言う。「ま、なんにしても気をつけるこったな。俺はまだまだ拘留所からは出られない。少なくとも来年の三月までは無理だろうよ」
「来年ですって!?」八郎は絶叫し、白目になって気絶をした。
「おいおい、どうしたんだよ」男は慌てて言う。「これじゃあ俺がお前に何かしたみたいに思われるかもしれないだろう」
男がそう言い終えた時、拘留所の床が裂け、何か赤い物が現れた。
「ああ」
「そうだな」
「もう、そんな時期なのね」
八郎の兄や姉たちは答えた。
その時だった。
狭いリビング内に重い音が響く。
よく聞くと、どうやらそれは笑い声のようだった。
あえてそれを文学という情報伝達媒体としてコード化するならば、こんな感じになる↓
「ヴ ヴァ ヴォ ヴァヴヴォ ヴォオオオオオオ ヴァル ヴァルヴァヴァヴァヴルァッ! ブベラボブオ ブリアッ!」
「鬼だ!」八郎の姉さんが悲鳴を上げる。「鬼よ! みんな逃げ――」
床下から大きな赤い手が現れ、彼女の細い体を握った。
彼女は鬼の握力のせいで息もできずに眉根を寄せ、一種官能的とも言えるような苦悶の表情を見せた。
二十階建てマンションの、地上九階。
八郎は階下の住人が気になり、赤い腕と床の境目を見る。
そこには、ただ永遠の暗黒が見えるばかり。もしかしたら別の次元につながっているのかもしれないなと八郎が思ったときだった。
暗闇の中から怒りに燃える、二つの瞳が、周囲の暗黒よりもどす黒い邪気を放って八郎を射抜いていたのだ。
八郎は体がすくんで動けず、腰を抜かした。
床の裂け目からは腕が伸び、怒髪天を衝く鬼の額、それから目、鼻と顔が現れた。
八郎の姉を掴んだ右腕と顔だけを覗かせながら、鬼はまだ笑っている。
鼓膜がビリビリと震える。
一同は耳を塞ぐが、効果はなかった。
どうやら何かしらの力でもって、鼓膜だけに干渉しているみたいだ。
「これが、鬼の力か」八郎の兄のうちの一人が言った。
悲鳴みたいに、声を荒げて。
鬼は姉である一人の女性を掴んだまま、右腕を後ろに逸らした。
八郎は思った。
――何のためだろう?
しかし彼は瞬時に気付き、兄や姉に声をかける。
「バックスウィングだ!皆伏せて!」
しかし全員が耳を塞いでいるために、八郎の叫び、望む声が聞き取れない。
モリ――モリッと鬼の肩の筋肉が膨らみ、それは上腕から肘、そして下腕にまで達する。
手首の筋肉が膨らんだときには、掴まれていた姉の顔は蒼褪め口から泡を吐いていた。泡は弾け、粘性を失うと液状のよだれとなって、鬼の親指に滴った。
すると次の瞬間には、その親指を初めとするすべての指が膨らんで、右手の彼女をさらに圧する。
か細く華奢な八郎の姉は、その握力に抗うことも出来ずに口から血や臓物を吐き出し、眼球は押し出され、鼻血と涙でまだらな赤に濁って落ち、重すぎる圧力に脳が両眼の飛び落ちた眼窩からトコロテンのように搾り出される。続いて木の枝が折れるようなパキポキといった骨の砕ける音が聞こえてきた。
それは時間にして一、二秒のことだったから、八郎に姉の死に様がすべて見えていたとは考えにくい。
しかし彼は確かに目撃をした。
姉の死を、目撃した。
バックスウィングをした鬼の腕が振るわれ、八郎の兄姉たちが犠牲となった。ある者は胸に直撃されてそこから体が上と下との二つに分かれた。ある者は耳を塞いで屈んでいたために頭部が破壊されて脳漿やぐずぐずに崩れた脳をぶち撒かされて骨の一部や上記した物は壁一面にこびりついた。
鬼の右腕一振りで、八郎以外の兄や姉は皆死んでしまった。
伏せていた八郎は恐る恐る顔を上げ、惨劇の跡を見渡し絶句した。
気を失わずに済んだのは、喉元をせり上がってくる胃液のヒリヒリとした痛みと吐き気のせいだろう。
鬼はおもむろに掴んでいた八郎の姉を放した。
姉の体には、握られた粘土のようにしっかりと鬼の指跡が付き、それが人体であったことが嘘みたいに潰されていた。
「やっぱり」八郎は自分でも気付かず口にしていた。「来年の話は駄目ですか」
鬼はその言葉を聞くと、今までの態度と百八十度転換し、清清しい、一つの邪気も無い無邪気な声で言った。
「うん」鬼の瞳は優しいものへと変わっている。「駄目だよ。分かった?」
「――はい」八郎は答えた。
けれども八郎の意識はここで一時期、失われることとなる。
あまりの出来事に精神が保たず、現実を拒否する心の防衛反応により、気絶をしてしまったのだ。
だから、鬼がその後にどうやって帰ったのか、床の穴がなぜ消えたのかは分からない。
八郎はそのことで困っている。
とっても困っていたのだ。
密室での大量殺人。
確実に、八郎は容疑者扱いされている。
本当のことを言っても、誰も本気にしてくれない。
一度、霊視するという霊媒師が来たが、それはインチキ霊媒師だった。八郎と一儲けするために買収しようとしてきたのだ。
もちろん八郎は断わった。
しかしこのような大事件にも関わらず、八郎に接近できるということは余程名の売れた霊媒師か警察幹部とのコネを持っている人間なのだろう。
八郎はこの一件で、ますます窮地に陥ってしまったとも言えるだろう。
けれど彼には嘘をつけない。
兄や姉たちの死、その失われた命にかけて。
八郎は確信している。
このまま裁判で争っても、自分は死刑になるだけだと。
しかしそれもまた、仕方のないことだと思っている。
なぜなら来年の話を持ち出したのは自分だからだ。
間接的に、兄や姉を殺したのは自分だと八郎は思っている。
後は、粛々と刑の執行を待つだけだ。
死刑が執行されるまでの間、八郎は自らの軽挙妄動を反省することにした。悔い改め、毎日の日々を拘留所で過した。
しかし思いがけないことが起こった。
八郎は精神的に問題があるとされ、精神科への移送が決まったのだ。
大晦日前日の、まさに慌しい一日であった。
「良いよな、お前は」拘留所で知り合った男が八郎に声をかけてきた。「こんなに早く移送されるなんて、異例中の異例だぜ。お前、何かの秘密を握っているんじゃないのか?」
「秘密? 秘密ってなんです?」
「お前が足蹴にした霊媒師はな、ありゃ大物政治家の飼い犬だ。そいつに唾かけてもこんなに早い措置。こりゃ何かがあるんじゃないかと思ってよ」
「――残念ながら、私には心当たりがないのですよ」
あまりに真っ直ぐな八郎の視線に、男は狼狽えた。
「そ、そうか」男は言う。「ま、なんにしても気をつけるこったな。俺はまだまだ拘留所からは出られない。少なくとも来年の三月までは無理だろうよ」
「来年ですって!?」八郎は絶叫し、白目になって気絶をした。
「おいおい、どうしたんだよ」男は慌てて言う。「これじゃあ俺がお前に何かしたみたいに思われるかもしれないだろう」
男がそう言い終えた時、拘留所の床が裂け、何か赤い物が現れた。
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