心が落ち込んでいるのは、いつものこと。
精神安定剤を手探りで取り出し、口に放り込む。
午前五時。
冬の太陽は低く、それだけに直線的にオレの目を射抜く。
白色の陽射しは夕方のように影を伸ばす。
憂鬱なのは、この情景のせいもあるのだろうか。
オレは狭い店内を抜け、外に出る。
オレの店。安い家賃すら払うのにギリギリな、寂れたバーだ。
吐く息は白い。
看板をしまい、入口のシャッターを半分まで下ろし、店内に戻ると内側からシャッターを閉めた。
店内には点滅する蛍光灯の光だけ。
カウンターには、まだ客の残した酒の瓶やグラスに、食べ残されたクズみたいな料理の乗った皿が散らかっている。
まぁ、クズみたいな料理を作ったのは、ホントにクズの、このオレなのだが。
ふっと、オレは笑う。
苦笑。全然薬が効いてないじゃないか。
まあ良い。
グラスや皿をひとつずつ運び、洗っていく。
時間はたっぷりあるんだからな。
頭の中では、閉店までかけていたハードロックのシャウトがリフレインし続けている。それに合わせて無意味に叫び、時々頭をピシャリと叩く。
貧血というわけではないのだが、頭に血が巡っていない感じがする。
血が足りないのか、血圧が低いのか。
フラついてカウンターにもたれかかり、頭を振る。ヘッドバンキングするみたいに。
食器類を洗い終わり、空き瓶の回収&カウンターを拭き掃除する。
足元にニチャリとした感触。
見る。粘ついた白い物体。
チクショウめ、誰かがガムを吐き捨てやがった。
ペーパーナフキンで床を拭き、靴のラバー底にへばり付いたガムを取る。
店主のオレがロクでもない人間のせいか、この店にはゴミみたいな客どもしかきやしない。
タバコの代わりにクサを吸う連中、互いの名前を太股に彫ってあるレズビアンや、ピアスで穴だらけのハードゲイ、一人でブツブツつぶやいているヤツや急に何かを叫ぶやつ。何も注文もしないでオレの顔を睨む客、顔を隠してびくついたように酒を煽る客。
マトモな客は、ドアを開けてすぐUターンするか、ビールを半分飲んだところで別の何かに酔って顔を真っ青にしてすぐ出て行く。
チクショウ、何がどうしてこうなったんだ!?
ガムを取り去り、厨房に入る。
調理器具を洗浄し、流し台を洗い、グラスや皿の水を拭く。
頭が少し、くらくらしてきた。
無性に何かを叩き割ってやりたくなる気分。
「落ち着け、落ち着くんだ」胸に手を当て、自分にそう言い聞かす。
呼吸。
1,2,1,2、吸って、吐いて、吸って、吐く。
――落ち着いてきた。
もしかすると薬が効いてきたのかもしれない。
少し休憩をしてから、作業の続きをする。
それからリキュールの量を確認する。
初めはカクテルバーを経営するつもりだったのに、今ではこの店でカクテルを飲むのは自分だけ。
ウォッカ、ジントニック、オレンジリキュール、ラム、バーボン。
何だったんだろうな。夢に向かってバーテンダーの仕事を覚えようとしていた修行時代。
あの頃に作ったカクテル――カルアミルク、ギムレット、ジムビーム、レッドアイ、ブラッディマリー、マティーニ、ソルティードッグ、スクリュードライバー。
今でもレシピは覚えてる。
この後は厄介なトイレの掃除か。
久し振りにカクテルを作りたくなってきた。――いや、単に酒が飲みたくなってきただけか。
営業中にオレが酒を飲むことは、まったくない。下戸だからだ。年に数回飲む程度。
酒が好きだが飲めないから、カクテルを作る側に回った。
オレはマティーニを作った。
「動機が不純だったのかな」久々に味わう酒の味。「――そんなこともないだろう」
動機はむしろ純粋。子供がケーキ屋さんやおもちゃ屋さんになりたがるようなものだろう。
二杯目のマティーニ。
ちょっと強すぎたか、まあいいさ。時間はたっぷりあるんだから。
カクテルグラスを軽く洗い、トイレに向かう。
ハードゲイの二人がトイレに長時間入っていたから、今日のトイレは酷く汚れていた。
「クソッタレ!」
便器の周囲をブラシでこする。
壁にもべとついたものが張り付いていた。
ティッシュペーパーを何重にも重ねて、汚物を拭き、消毒スプレーを丹念に撒く。
頭がくらくらしてきた。
酒が効いてきやがった。
直前に薬も飲んでたっけな。
熱い。
トイレの中が熱い。
狭いせいだ。
消臭しなくちゃ、レズビアンの汗の臭いがこびりついている。
スプレーシュシュ、いつか五万で舐めさせろと誘ってきたヤツがいやがった。十万ならいいぜと冗談だと思って返したら、アイツ本気にしやがった。しつこい値段交渉。血走った目、目、眼。赤ら顔、赤い赤い、酒臭い息。
――白いトイレ。
便座を抱えて、オレは思い切り吐いた。
マティーニ、アルコール、精神安定剤、抗うつ剤、胃液、胆汁。
水で流して、もう一回。
世界は回って、オレの頭はくらくらだけど、ともかく立ち上がって洗面台へ足を運ぶ。
久し振りに酔っている。
トイレ掃除も、あんなもんでいいだろう。どうせ今夜になったら誰かがまた汚すんだ。不毛の努力、諦める。
顔を洗う、手を洗う、頭を洗う。
水の冷たさに心臓がキュッとなる。
このまま川にダイブしたなら即心臓麻痺でおさらばだろうな。
「だからどうした」鏡の中の自分に言う。「どうでもいいのさ」鏡の中の自分が口を動かす。「真似すんな」
鏡に唾を吐き出し、トイレを出る。
「――なんだこりゃあ」店内を見て思わずつぶやく。
全然掃除したようになんて見えないぜ。
ここが世界の果てだというつもりはサラサラないけれど、
ここが世界の終わりだなんていうつもりも全然ないけれど、
確かにこの店は置いてきぼりにされている。
オレと一緒に、どこかに捨てられているんじゃないだろうかな。
だって、
オレには分かっちまったんだもんよ。
だって、
だってだって、
確かにこの世界の一隅に追いやられているこの店は、
オレと同様腐ってる。
まるで腐って半分潰れた野苺みたいに。
真っ赤なハラワタぶち撒かして。
真っ赤な血まみれダルマになって。
真っ赤に汚れて穢れた空気みたいに息苦しくって臭ってる。
ハードロック。
激しいシャウト。
うなるノイズ。
ヘッドバンキング。
踏み潰されたガム。
トイレの汚物。
ソイツは何だ?
誰なんだ?
ヘッ! 決まっているさ。
オレの心臓。
踏みにじられたオレの夢。
だけど、どうってことはないぜ。
世界に未練なんかない。
勝手に腐っていくなら腐るに任せろ。
トコトンまでオレとこの店は腐っていくぜ。
だって、
腐った野苺だって、無意味じゃないんだからな。
新たな土壌の一部となって――中には花咲く種もある。
精神安定剤を手探りで取り出し、口に放り込む。
午前五時。
冬の太陽は低く、それだけに直線的にオレの目を射抜く。
白色の陽射しは夕方のように影を伸ばす。
憂鬱なのは、この情景のせいもあるのだろうか。
オレは狭い店内を抜け、外に出る。
オレの店。安い家賃すら払うのにギリギリな、寂れたバーだ。
吐く息は白い。
看板をしまい、入口のシャッターを半分まで下ろし、店内に戻ると内側からシャッターを閉めた。
店内には点滅する蛍光灯の光だけ。
カウンターには、まだ客の残した酒の瓶やグラスに、食べ残されたクズみたいな料理の乗った皿が散らかっている。
まぁ、クズみたいな料理を作ったのは、ホントにクズの、このオレなのだが。
ふっと、オレは笑う。
苦笑。全然薬が効いてないじゃないか。
まあ良い。
グラスや皿をひとつずつ運び、洗っていく。
時間はたっぷりあるんだからな。
頭の中では、閉店までかけていたハードロックのシャウトがリフレインし続けている。それに合わせて無意味に叫び、時々頭をピシャリと叩く。
貧血というわけではないのだが、頭に血が巡っていない感じがする。
血が足りないのか、血圧が低いのか。
フラついてカウンターにもたれかかり、頭を振る。ヘッドバンキングするみたいに。
食器類を洗い終わり、空き瓶の回収&カウンターを拭き掃除する。
足元にニチャリとした感触。
見る。粘ついた白い物体。
チクショウめ、誰かがガムを吐き捨てやがった。
ペーパーナフキンで床を拭き、靴のラバー底にへばり付いたガムを取る。
店主のオレがロクでもない人間のせいか、この店にはゴミみたいな客どもしかきやしない。
タバコの代わりにクサを吸う連中、互いの名前を太股に彫ってあるレズビアンや、ピアスで穴だらけのハードゲイ、一人でブツブツつぶやいているヤツや急に何かを叫ぶやつ。何も注文もしないでオレの顔を睨む客、顔を隠してびくついたように酒を煽る客。
マトモな客は、ドアを開けてすぐUターンするか、ビールを半分飲んだところで別の何かに酔って顔を真っ青にしてすぐ出て行く。
チクショウ、何がどうしてこうなったんだ!?
ガムを取り去り、厨房に入る。
調理器具を洗浄し、流し台を洗い、グラスや皿の水を拭く。
頭が少し、くらくらしてきた。
無性に何かを叩き割ってやりたくなる気分。
「落ち着け、落ち着くんだ」胸に手を当て、自分にそう言い聞かす。
呼吸。
1,2,1,2、吸って、吐いて、吸って、吐く。
――落ち着いてきた。
もしかすると薬が効いてきたのかもしれない。
少し休憩をしてから、作業の続きをする。
それからリキュールの量を確認する。
初めはカクテルバーを経営するつもりだったのに、今ではこの店でカクテルを飲むのは自分だけ。
ウォッカ、ジントニック、オレンジリキュール、ラム、バーボン。
何だったんだろうな。夢に向かってバーテンダーの仕事を覚えようとしていた修行時代。
あの頃に作ったカクテル――カルアミルク、ギムレット、ジムビーム、レッドアイ、ブラッディマリー、マティーニ、ソルティードッグ、スクリュードライバー。
今でもレシピは覚えてる。
この後は厄介なトイレの掃除か。
久し振りにカクテルを作りたくなってきた。――いや、単に酒が飲みたくなってきただけか。
営業中にオレが酒を飲むことは、まったくない。下戸だからだ。年に数回飲む程度。
酒が好きだが飲めないから、カクテルを作る側に回った。
オレはマティーニを作った。
「動機が不純だったのかな」久々に味わう酒の味。「――そんなこともないだろう」
動機はむしろ純粋。子供がケーキ屋さんやおもちゃ屋さんになりたがるようなものだろう。
二杯目のマティーニ。
ちょっと強すぎたか、まあいいさ。時間はたっぷりあるんだから。
カクテルグラスを軽く洗い、トイレに向かう。
ハードゲイの二人がトイレに長時間入っていたから、今日のトイレは酷く汚れていた。
「クソッタレ!」
便器の周囲をブラシでこする。
壁にもべとついたものが張り付いていた。
ティッシュペーパーを何重にも重ねて、汚物を拭き、消毒スプレーを丹念に撒く。
頭がくらくらしてきた。
酒が効いてきやがった。
直前に薬も飲んでたっけな。
熱い。
トイレの中が熱い。
狭いせいだ。
消臭しなくちゃ、レズビアンの汗の臭いがこびりついている。
スプレーシュシュ、いつか五万で舐めさせろと誘ってきたヤツがいやがった。十万ならいいぜと冗談だと思って返したら、アイツ本気にしやがった。しつこい値段交渉。血走った目、目、眼。赤ら顔、赤い赤い、酒臭い息。
――白いトイレ。
便座を抱えて、オレは思い切り吐いた。
マティーニ、アルコール、精神安定剤、抗うつ剤、胃液、胆汁。
水で流して、もう一回。
世界は回って、オレの頭はくらくらだけど、ともかく立ち上がって洗面台へ足を運ぶ。
久し振りに酔っている。
トイレ掃除も、あんなもんでいいだろう。どうせ今夜になったら誰かがまた汚すんだ。不毛の努力、諦める。
顔を洗う、手を洗う、頭を洗う。
水の冷たさに心臓がキュッとなる。
このまま川にダイブしたなら即心臓麻痺でおさらばだろうな。
「だからどうした」鏡の中の自分に言う。「どうでもいいのさ」鏡の中の自分が口を動かす。「真似すんな」
鏡に唾を吐き出し、トイレを出る。
「――なんだこりゃあ」店内を見て思わずつぶやく。
全然掃除したようになんて見えないぜ。
ここが世界の果てだというつもりはサラサラないけれど、
ここが世界の終わりだなんていうつもりも全然ないけれど、
確かにこの店は置いてきぼりにされている。
オレと一緒に、どこかに捨てられているんじゃないだろうかな。
だって、
オレには分かっちまったんだもんよ。
だって、
だってだって、
確かにこの世界の一隅に追いやられているこの店は、
オレと同様腐ってる。
まるで腐って半分潰れた野苺みたいに。
真っ赤なハラワタぶち撒かして。
真っ赤な血まみれダルマになって。
真っ赤に汚れて穢れた空気みたいに息苦しくって臭ってる。
ハードロック。
激しいシャウト。
うなるノイズ。
ヘッドバンキング。
踏み潰されたガム。
トイレの汚物。
ソイツは何だ?
誰なんだ?
ヘッ! 決まっているさ。
オレの心臓。
踏みにじられたオレの夢。
だけど、どうってことはないぜ。
世界に未練なんかない。
勝手に腐っていくなら腐るに任せろ。
トコトンまでオレとこの店は腐っていくぜ。
だって、
腐った野苺だって、無意味じゃないんだからな。
新たな土壌の一部となって――中には花咲く種もある。
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Re:いやはや
>読みおわった後にぬけがらのようになってしまう私がいます。
>
今回のテーマは「それでも生きなくてはならない」というものですので、ちょっと重かったかもしれませんね。
>
今回のテーマは「それでも生きなくてはならない」というものですので、ちょっと重かったかもしれませんね。
Re:無題
ありがとうございます。
アップした後に、冬の5時には太陽でないと気付いたのは内緒です(^_^;)
アップした後に、冬の5時には太陽でないと気付いたのは内緒です(^_^;)