「角川文庫版『宇治拾遺物語』の三巻、十六話の註に書いてあったのだが」比較人類学教授である牛島は助手達に語りだした。「昔、あかがね、つまり銅は接骨の薬であったとされていたらしいのだ。だが現代においては銅の過剰摂取は害毒であると判明している。確かに人体、特に骨に含まれていることは事実だ。しかしそれはごく微量に過ぎない。今の医者が患者に、昔のように銅を処方していたら、その医者は間違いなく医師免許を剥奪されるだろう。君たちはこのことについて、どう考えるかね?」
つい先程まで雑談も交わしていた助手達は、勢いよく扉が開かれ、その場で突然話し始めた牛島への対応に戸惑った。
「それは、えーと、あれですね」一番年長の男性助手が、時間稼ぎに適当な意見をひねり出す。「過去と現代との違い、すなわち科学の進歩です」
「安易な考察だな」牛島は見下した。「問題はそこではない。過去に考えられていた常識――否。むしろ医術という高等な知識を持った人々の知恵が誤っていた。それは現代の科学についても言えることだ。新説が出て、今までの仮説が誤っていたなどということは日常茶飯事だろう」
「そうですね」年長の助手は額に汗をかいた。
「確かにその通りです。では、教授はそこから何に気付かれたのでしょうか」
「うむ。蟻の研究をしようと思いついたのだ」
助手一同はポカンと口を開けている。
「アリって、あの蟻ですか」赤縁眼鏡をかけた女性助手が尋ねた。「あの、虫の」
「そうだ。今すぐ研究キットを購入する準備をしたまえ」
「どのような研究キットを――」
「決まっているだろう」赤縁眼鏡の質問に苛立ったように牛島は言う。「蟻の巣観察キットだ。小学生用のものでも良い。蟻の生態を調べられればそれで良いのだ。ああ、それから」思い付いたように彼は続ける。「蜂の生態を調べるのも良いかもしらんな。同時に観察しよう。チームを二つに分ける」
助手達はわけの分からぬままに二つのチームに分けられた。
年長の助手や赤縁眼鏡の助手などは、こういった牛島教授の突飛な行動に慣れているため、とりあえず蟻や蜂の生態キットをインターネットで検索し始める。
しかし先月、牛島教授の下に就いたばかりの新人助手は、まだ混乱したままだ。
「あの……」おずおずと彼は尋ねる。「この一連のお話には、どのような関係性があるのでしょうか」
牛島教授は驚いた。
他の助手達も驚いた。
しかし二つの驚愕の種類は違っていた。
他の助手達は、教授に質問するなど、何て恐ろしいことをしてくれたのかと思っていたのだ。牛島が新人に叱責することは必定かと思われ、自分達にとばっちりが来ないことを願っていた。
それに対して牛島は、本当に、心の底から驚いていた。
「君には、この関連性が分からないのかね?」牛島は言う。
「――はい」室内の空気が変わったのを察し、新人助手は小声で答えた。
「本当に? 本当に分からないのかね」
「すみません」
呆然としていた牛島は、ハッと気付く。
「そうか、君は先月から私のところに来たばかりだから分からないのも仕方が無いかもしれないな。君への講義も私の仕事だろう。他の者達は理解していると思うが、ここはひとつ、君のために説明してやるか。皆は作業を続けていてくれたまえ」
年長の助手は思った。
ひとまずカミナリは落ちなかったようだ。けど、誰があんたの飛躍した思考を理解できるもんかよ。ただ言われたとおりに動けばいいんだろ。と。
赤縁眼鏡の助手は思った。
とりあえず、教授が怒らなくて助かったわ。それにしても牛島教授の考えなんて、他の皆も分かるわけないじゃない。わけも分からず動くだけっていうのも嫌なもんね。聞いておこうかしら。と。
「昔は薬でも今は毒」牛島は言う。「私はこれを法則の違いと捉えた。観念の違い、認識の違い、見解の違い。そういったものは人間の歴史上においても言えるのではないかと。基本的なことだが、政治、経済、その時々の常識などは、何度も入れ替わり、そのたびに前の物が否定される。次の物は必ず進歩しているのか?それ以前の物が滅びるのはどうしてなのか?それを調べることが私達の仕事だと思っていた。しかし、だよ。政治も経済の流れも、常識だって、すべて作られた物ではないか。そうだろ、君」
「は、はぁ」
「政治は時の権力者が造った法律の上に、経済流通は商人達の利益争いのためにルールの上にルールを造り、常識はその狭間によって左右されて造られる。対して蟻や蜂の場合はどうなのか。誰かが造ったわけでもないのに働き蟻は働き蟻として機能している。しかもエサを採りに行く蟻や幼虫を育てる蟻、さらには女王蟻と交接するための蟻などと分業されている。この秩序だった社会は何だ?誰が決めたわけでもない規則、その従順性。彼らは狂っているのか?皆が皆同じように狂っているのか? 本能の一言で済ませてしまって本当に良い物なのだろうか? 蟻の社会にも怠け者は一定の確率で存在すると言う。しかし緊急事態にはその怠け蟻も奮戦すると言う。蜂のダンスにも種類がある。ある種の会話だ。人間社会と似ている。ならば戦争や革命は他の巣を襲う本能とどこが違う? 人の持つ破壊衝動と、一体どこが違うのかね? 人間が皆、昆虫と同じように狂っていないなどと誰が言えるかね?彼らの生活基盤のシステムを調べようと思うのは当然のことだろう」
「はぁ」牛島の熱弁にたじろぎつつ、新人助手は返事をする。「そのお考えを、古典物語の中から見出したわけですか。ぼくには考えも及ばないことでした」そして皮肉気に付け足す。「他の皆さんも、先生のお考えを、良くそこまで理解できますね」
「当然だ。君もいずれは、そうなることだろう」
牛島教授はそう言うと、講義の出来に満足したのか部屋を出た。
教授の背中を見ながら、新人助手はこう思った。
なるほどなぁ。こうして社会は、強いられていくものなのか。と。
つい先程まで雑談も交わしていた助手達は、勢いよく扉が開かれ、その場で突然話し始めた牛島への対応に戸惑った。
「それは、えーと、あれですね」一番年長の男性助手が、時間稼ぎに適当な意見をひねり出す。「過去と現代との違い、すなわち科学の進歩です」
「安易な考察だな」牛島は見下した。「問題はそこではない。過去に考えられていた常識――否。むしろ医術という高等な知識を持った人々の知恵が誤っていた。それは現代の科学についても言えることだ。新説が出て、今までの仮説が誤っていたなどということは日常茶飯事だろう」
「そうですね」年長の助手は額に汗をかいた。
「確かにその通りです。では、教授はそこから何に気付かれたのでしょうか」
「うむ。蟻の研究をしようと思いついたのだ」
助手一同はポカンと口を開けている。
「アリって、あの蟻ですか」赤縁眼鏡をかけた女性助手が尋ねた。「あの、虫の」
「そうだ。今すぐ研究キットを購入する準備をしたまえ」
「どのような研究キットを――」
「決まっているだろう」赤縁眼鏡の質問に苛立ったように牛島は言う。「蟻の巣観察キットだ。小学生用のものでも良い。蟻の生態を調べられればそれで良いのだ。ああ、それから」思い付いたように彼は続ける。「蜂の生態を調べるのも良いかもしらんな。同時に観察しよう。チームを二つに分ける」
助手達はわけの分からぬままに二つのチームに分けられた。
年長の助手や赤縁眼鏡の助手などは、こういった牛島教授の突飛な行動に慣れているため、とりあえず蟻や蜂の生態キットをインターネットで検索し始める。
しかし先月、牛島教授の下に就いたばかりの新人助手は、まだ混乱したままだ。
「あの……」おずおずと彼は尋ねる。「この一連のお話には、どのような関係性があるのでしょうか」
牛島教授は驚いた。
他の助手達も驚いた。
しかし二つの驚愕の種類は違っていた。
他の助手達は、教授に質問するなど、何て恐ろしいことをしてくれたのかと思っていたのだ。牛島が新人に叱責することは必定かと思われ、自分達にとばっちりが来ないことを願っていた。
それに対して牛島は、本当に、心の底から驚いていた。
「君には、この関連性が分からないのかね?」牛島は言う。
「――はい」室内の空気が変わったのを察し、新人助手は小声で答えた。
「本当に? 本当に分からないのかね」
「すみません」
呆然としていた牛島は、ハッと気付く。
「そうか、君は先月から私のところに来たばかりだから分からないのも仕方が無いかもしれないな。君への講義も私の仕事だろう。他の者達は理解していると思うが、ここはひとつ、君のために説明してやるか。皆は作業を続けていてくれたまえ」
年長の助手は思った。
ひとまずカミナリは落ちなかったようだ。けど、誰があんたの飛躍した思考を理解できるもんかよ。ただ言われたとおりに動けばいいんだろ。と。
赤縁眼鏡の助手は思った。
とりあえず、教授が怒らなくて助かったわ。それにしても牛島教授の考えなんて、他の皆も分かるわけないじゃない。わけも分からず動くだけっていうのも嫌なもんね。聞いておこうかしら。と。
「昔は薬でも今は毒」牛島は言う。「私はこれを法則の違いと捉えた。観念の違い、認識の違い、見解の違い。そういったものは人間の歴史上においても言えるのではないかと。基本的なことだが、政治、経済、その時々の常識などは、何度も入れ替わり、そのたびに前の物が否定される。次の物は必ず進歩しているのか?それ以前の物が滅びるのはどうしてなのか?それを調べることが私達の仕事だと思っていた。しかし、だよ。政治も経済の流れも、常識だって、すべて作られた物ではないか。そうだろ、君」
「は、はぁ」
「政治は時の権力者が造った法律の上に、経済流通は商人達の利益争いのためにルールの上にルールを造り、常識はその狭間によって左右されて造られる。対して蟻や蜂の場合はどうなのか。誰かが造ったわけでもないのに働き蟻は働き蟻として機能している。しかもエサを採りに行く蟻や幼虫を育てる蟻、さらには女王蟻と交接するための蟻などと分業されている。この秩序だった社会は何だ?誰が決めたわけでもない規則、その従順性。彼らは狂っているのか?皆が皆同じように狂っているのか? 本能の一言で済ませてしまって本当に良い物なのだろうか? 蟻の社会にも怠け者は一定の確率で存在すると言う。しかし緊急事態にはその怠け蟻も奮戦すると言う。蜂のダンスにも種類がある。ある種の会話だ。人間社会と似ている。ならば戦争や革命は他の巣を襲う本能とどこが違う? 人の持つ破壊衝動と、一体どこが違うのかね? 人間が皆、昆虫と同じように狂っていないなどと誰が言えるかね?彼らの生活基盤のシステムを調べようと思うのは当然のことだろう」
「はぁ」牛島の熱弁にたじろぎつつ、新人助手は返事をする。「そのお考えを、古典物語の中から見出したわけですか。ぼくには考えも及ばないことでした」そして皮肉気に付け足す。「他の皆さんも、先生のお考えを、良くそこまで理解できますね」
「当然だ。君もいずれは、そうなることだろう」
牛島教授はそう言うと、講義の出来に満足したのか部屋を出た。
教授の背中を見ながら、新人助手はこう思った。
なるほどなぁ。こうして社会は、強いられていくものなのか。と。
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Re:あぁ
学者の非常識と横暴さは良く耳にしますからね。
ちょっとシニカルに仕上げてみました。
ちょっとシニカルに仕上げてみました。