戦闘前夜。
与えられた兵舎の一室で、ぼくは一人、考えていた。
不意に室内の明かりが瞬き、黒々とした闇を追い出していく。しかし重たい空気は変わらない。
「どうした、こんな暗いところで考え込んでちゃ、体にも心にも良くないぜ」
電気を点けた、相部屋の兵士が言う。
「それは分かってるつもりなんだけれどもね」ぼくは十字架を握り締めていた手を開き、手汗にまみれたそれを首にかけた。胸元で、銀色の十字架が鈍く光る。「どうしても考えずにはいられないんだ」
「何を考えてる」彼は自分のベッドに腰掛けた。「話して楽になるようなものだったら聞いてやるぜ」
「うん」ぼくは躊躇いながらも話せずにはいられない気持ちだった。そういう気分だったのだ。「帰還兵が、ある種のPTSDになるっていわれだしたのは、湾岸戦争の辺りだったよな」
「ああ」彼はちょっと嫌そうな顔をした。当然だ。これは不吉な話なのだから。「だけどさ、ベトナム戦争の帰還兵だって、色々問題あったじゃないか。あれだって同じようなもんだぜ」
「うん」不吉な話にもかかわらず、相手をしてくれる彼の優しさが、心に染みた。「でも、そのずっと昔はどうだったんだろうって思ってたんだ。古代ギリシャローマから中世までの戦士たちってのは、ほとんどが農民や一般市民だったわけだろ。彼らも同じように心に傷を受けたのか、それとも戦争は生活の一部みたいに平気で受け止められたのかなってね」
「中世には傭兵がいたから事情は違うかもしれない。彼らは金のために働いてたんだからな。ある戦いでは傭兵が皆手抜きして、両方の死者が合わせて一人しか出なかったって話もあるくらいさ」彼は肩をすくめて見せる。しかしぼくの表情が変わらないことに気付くと、咳払いをして付け加えた。「ま、命を張ってるっていうプライドもあっただろうしな。それで騎士道精神なんてのも生まれたわけだ。でも、古代になると話は別かな。皆の生活がかかってる。守る方も必死だし、攻める方も必要に責められてのことだろう。外交の最後の手段。今も昔も同じことさ。だが今との違いは、生活が貧しくて、そんなことに悩む暇もなかったってことじゃないかな」
「だけど、昔は槍で刺し、刀で叩き殺していたんだぜ。目の前の敵の顔を見ながら血を流し合って、殺して殺されて傷を受ける。目の前でだ。今ではそんな生々しい戦いなんてない。相手の顔も見えず、仲間の血や負傷や――」ぼくは口を噤んだ。
これ以上言うべきではない。
胸元の十字架を握り締める。
「あ、それが答えなんじゃないのかな」彼は気にせず話し続ける。
「え」ぼくは思わず問い返す。
「だからさ、戦争の仕方が変わったことも、PTSDの引き金になってるんじゃないのかってことさ。それは戦略や戦術の違いもあるだろうけど、一番大きいのは仲間の惨劇だけを見つづけさせられてしまうってことだ。近接戦闘なら敵の血や死も見られる。そこで精神のバランスが取れてたのかもしれないな」
「なるほど」意外な言葉に、ぼくは納得させられた。
「ま、一概には言えんがな」彼はベッドに横たわった。「ナーバスになりすぎるなよ」
「ああ」
強風が窓ガラスに吹き付ける。
アルミのサッシは振動して音をたてる。
外を見ようとするが、そこにはぼくの顔が映っていた。厳しい表情。
ぼくは自分の影を追いやるように目を凝らす。
月も、星も出ていない。
「ナーバスになりすぎるなよ」もう一度、彼は言った。
ぼくは振り向く。
彼は背中をこちらに向けていたため、その表情を見ることは出来なかった。
けれど。
「大切なことなんだよ」背中越しの声。
けれどぼくには、彼の真剣さを感じ取ることが出来た。
「ありがとう」
礼を言うと、ぼくは再び外を見る。
黒い砂丘は黒い雲と同化してしまっているのか、空と地平の区別が出来ない。
「明日は雨かな」ぼくはつぶやく。
答えの代わりに、寝息が聞こえてきた。
今、この地域は雨季に入っている。天候を気にしても仕方がない。一日に最低一回はスコールが降るのだ。
彼と話して、少しはリラックスできたようだ。掌に痛みを感じ、握っていた十字架を離す。指先に、角張った十字架の跡がついていた。
ゆっくりと消えていく、その跡を見ながら、彼の忠告を心にしまう。
ぼくは彼を起こさぬように注意してカーテンを閉め、彼の点けた電気を消した。
そして静かにベッドへ戻って潜りこみ、深い眠りの中へと落ちていった。
翌日早朝。
ぼくたちの分隊は、一個大隊の中に混じり、岩盤の多い地方へ向かって進軍していた。
今回の作戦は武装勢力の拠点を三方から攻め込むために、一個連隊を三つの大隊に分け、制圧することになっている。
四十キロのバックパックを背負い、肩からライフルを下げ、ベルトにも拳銃や水筒を吊り下げている。若い女性を背負っているようなものだ。
ぼくたちは指揮官の下、黙々と指示された地点へと歩いていく。正面から攻める大隊を斜め後方から援護攻撃をすると共に、退路を断つ役割も担っている。残りの一個大隊は、途中まで一緒だったが、Bポイントで別れた。彼らも斜め後ろから攻撃するが、その隊こそが本隊の精鋭たちだ。
正面から攻める大隊は陽動。その隙に本隊が奇襲をかけ、ぼくたちの隊が止めを刺すということになる。
ぼくたちの隊は、武装勢力の拠点を中心にして、反時計回りに移動している。正面から攻める隊を十二時の方向にしたとすると、本隊は八時の方向、ぼくたちは四時の方向ということになる。ぼくたちの基地から最も遠いポイントだ。
ポツリポツリと降り始めた雨は、時間を早送りしたみたいに、いきなりの豪雨となる。
雨はヘルメットから滴り視界を狭め、軍服を濡らして襟元から体を這い伝い体温を急速に奪っていく。
さらに厄介なことには、雨のせいで砂は泥濘化して足に絡みつき、岩石の表面はつるつるとして滑りやすくなってしまう。
予想されていたこととはいえ、これだから嫌になってしまう。
まったく、何度経験してもスコールに慣れる気なんて、少しも起きない。
それでもぼくたちは岩陰を歩き、どろどろした土を踏む。
陽動も奇襲も危険で大事な仕事だが、退路を断つことほど危険で重要な任務はない。
相手は、それこそ死に物狂いに必死で逃げてくるのだ。
生き残るために。
生き延びて家族と手を取り、再びぼくたちを殺そうとするために。
ぼくたちは敵の逃走をなんとしてでも阻止しなければならない。そのためにはタイミングも大切だ。遅れるのはもちろんのことだが早すぎてもいけない。奇襲の妨げになってしまうからだ。
陽動→奇襲→止め。
この順番が肝要なのだ。
ちょうどベースボールで、二→四→六とゲッツーを取るみたいに。
不意に、そして必然的に、スコールはピタリと止んだ。あまりにも突然すぎて、ぼくに子供の頃の記憶を想起させた。
デパートで、迷子になったと知った瞬間の、置いてきぼりにされたような初めての孤独。
だから、ぼくはスコールが嫌いなんだ。
とても車では進めないような岩場と砂の混じった道なき道を抜けると、二百メートルほど先に森が見えた。
森と、ぼくたちの大隊の間には障害物など一切ない。
こういう場所が、一番危険なのだ。
敵からはこちらが丸見えで、こちらからは森に隠れた敵が見えない。それは皆が心得ている。指揮官は、どこかの一小隊を斥候に行かせることにした。
彼ら八人の小隊は、ゆっくりと慎重にマシンガンを構えて進む。
二十メートルほど進むと、タタタタタと旧式型のライフル銃の音が響いた。
八人は一斉に、パッと倒れる。
いや、違う。
弾丸は地面に、まだらな穴を開けただけだ。
彼らは反射的に身を伏せ、銃声のした方へバララララッとマシンガンを射ち放った。
悲鳴が聞こえ、森は沈黙したように静かになった。
小隊はもう一度掃射すると、注意深く森へ近付き、入って行く。
大事の前の小事も疎かにはできない。敵がこちらの動きを探し、拠点へ情報を流してしまっては制圧が難しくなってしまう。
森の中の草葉が揺れている。
無線から小隊長の声が聞こえてくる。
「大丈夫です。歩哨ではないようです。敵は子供一人。この辺をうろついていただけのようです。問題はありません」
武装勢力の少年兵たちは、功を焦り通信機器を持たずに徘徊しているのだ。
射たれたのが子供だと聞き、ホッとした自分に、ぼくは吐き気を催した。胃からせり上げてくる胃液を、ぼくは強引に押しとどめる。食道まで上がってきた胃酸が、胸焼けとなって体に広がる。
けれど、これは仕方の無いことなのだ。ぼくは自分に言い聞かせる。この相手が大人で、遊撃隊だった場合にはさらに酷い状況に陥ることになってしまうのだ。彼らは仲間を呼び寄せ、木立に隠れ、ゲリラ戦を仕掛けてくることになっただろう。そうなっていたら、物量でこちらが勝ってるとはいえ、時間をロスし、情報が流され作戦にも影響が出てくるのだから。そして、
そしてゲリラ戦自体が恐ろしいのだ。ぼくたちの精神を消耗させ、疲弊されてしまう。一番怖いのはこの部分。ゲリラ戦での精神的疲労は並大抵のものではない。先行する隊列をやりすごし、挟撃を仕掛ける。そうして部隊は分断され、散り散りになってしまう。もちろん対応するべき訓練は受けているけれど、実践と訓練とでは恐怖感も孤独感も虚無感も段違いのレベルなのだから。
「了解。では本隊も進行を再開する」大隊長の声が無線を通して全員に伝えられた。
「しかし大尉殿」斥候した小隊長の声だ。「この子供は息があります。いかが致しましょうか」
「傷の具合はどうだ」大隊長は冷静に尋ねる。
「はい。命に別状はない様子ですが腹部からの出血が治まりません」
「分かった。衛生兵を一人送ろう。君たち小隊は分隊に別け、一チームを衛生兵の護衛として基地まで帰還しろ。残りは衛生兵が到着次第、本隊に合流するように」
「了解しました」
そうしてぼくたちは、森へ向けての進軍を開始した。
スコールの残した水たまりを踏みにじり、ぼくたちは樹々の中へと入って行く。
少年兵が死んでいなかったことは、ぼくにとって一種の救いであったような気がしていた。隊は少年兵の脇を通っていく。少年兵は衛生兵の処置を受けまいと、この地方独特の異言語で語気を荒げている。罵声だか怒号だか意味は分からなかったけれど、それは異教徒の呪いの文句のように聞こえた。
ぼくはネックレスを、そっと触った。そこにちゃんと十字架があるかどうか確かめるみたいに。
銀の十字架は硬質で、存在感を主張するように、しっかりと胸元にあった。
森の奥の小道が見えてくる。
ぼくは時計を見た。
Cポイント。予定より早く、ぼくたちは待機地点に辿り着いた。
大隊長は中隊長や小隊長を集め、細々とした打ち合わせをした。
大隊は二つに別けられ、小道を挟んで森のこちら側とあちら側に配置されるみたいだった。
その間、ぼくたち兵卒は、しばしの休憩を味わっていた。
「よ、疲れたか」相部屋の男はぼくの顔を見つけて声をかけてきた。
「ああ。疲れたよ。だけどそんなの、いつものことじゃないか」
「確かにな」彼は苦笑した。「俺たちの分隊は、森の向こう側になるらしい」
「了解」ぼくは言って、水を飲んだ。
休憩が終わり、ぼくたちは小道を横切り、そこからさらに移動した。これは道を挟んで攻撃するため、見方同士、相打ちにならないよう角度を付けるための移動。ぼくたちの方が武装勢力の拠点に近く、ぼくたちの射ち逃した敵を後方の部分がカバーするという役割としても機能する。
ぼくたちは背丈より高い草に紛れ込んでいる。敵の拠点が、その隙間から下方向に朧に見えた。
スコールの影響が残っているせいか、匂いたつ草いきれは、まるでぶ厚いベールのようで息苦しい。
亜熱帯の森林特有の息苦しさの中で待機をし続けていると、ロケット砲の炸裂する音が聞こえてきた。
よく見ると、戦闘はすでに始まり、陽動部隊の姿が見える。
音速の限界。
準備のために目を閉じる。
続いて銃声が激しく轟く。
それからしばらくして、ぼくには分からない例の異言語の叫び声が聞こえてきた。
きっと、奇襲作戦が成功したのだろう。
次は、ぼくたちの番だ。
攻撃の指令。
ぼくは目を開いてライフルを構えると、窓ガラスやカーテンの隙間から見える敵に向けて狙撃した。
<続く>
与えられた兵舎の一室で、ぼくは一人、考えていた。
不意に室内の明かりが瞬き、黒々とした闇を追い出していく。しかし重たい空気は変わらない。
「どうした、こんな暗いところで考え込んでちゃ、体にも心にも良くないぜ」
電気を点けた、相部屋の兵士が言う。
「それは分かってるつもりなんだけれどもね」ぼくは十字架を握り締めていた手を開き、手汗にまみれたそれを首にかけた。胸元で、銀色の十字架が鈍く光る。「どうしても考えずにはいられないんだ」
「何を考えてる」彼は自分のベッドに腰掛けた。「話して楽になるようなものだったら聞いてやるぜ」
「うん」ぼくは躊躇いながらも話せずにはいられない気持ちだった。そういう気分だったのだ。「帰還兵が、ある種のPTSDになるっていわれだしたのは、湾岸戦争の辺りだったよな」
「ああ」彼はちょっと嫌そうな顔をした。当然だ。これは不吉な話なのだから。「だけどさ、ベトナム戦争の帰還兵だって、色々問題あったじゃないか。あれだって同じようなもんだぜ」
「うん」不吉な話にもかかわらず、相手をしてくれる彼の優しさが、心に染みた。「でも、そのずっと昔はどうだったんだろうって思ってたんだ。古代ギリシャローマから中世までの戦士たちってのは、ほとんどが農民や一般市民だったわけだろ。彼らも同じように心に傷を受けたのか、それとも戦争は生活の一部みたいに平気で受け止められたのかなってね」
「中世には傭兵がいたから事情は違うかもしれない。彼らは金のために働いてたんだからな。ある戦いでは傭兵が皆手抜きして、両方の死者が合わせて一人しか出なかったって話もあるくらいさ」彼は肩をすくめて見せる。しかしぼくの表情が変わらないことに気付くと、咳払いをして付け加えた。「ま、命を張ってるっていうプライドもあっただろうしな。それで騎士道精神なんてのも生まれたわけだ。でも、古代になると話は別かな。皆の生活がかかってる。守る方も必死だし、攻める方も必要に責められてのことだろう。外交の最後の手段。今も昔も同じことさ。だが今との違いは、生活が貧しくて、そんなことに悩む暇もなかったってことじゃないかな」
「だけど、昔は槍で刺し、刀で叩き殺していたんだぜ。目の前の敵の顔を見ながら血を流し合って、殺して殺されて傷を受ける。目の前でだ。今ではそんな生々しい戦いなんてない。相手の顔も見えず、仲間の血や負傷や――」ぼくは口を噤んだ。
これ以上言うべきではない。
胸元の十字架を握り締める。
「あ、それが答えなんじゃないのかな」彼は気にせず話し続ける。
「え」ぼくは思わず問い返す。
「だからさ、戦争の仕方が変わったことも、PTSDの引き金になってるんじゃないのかってことさ。それは戦略や戦術の違いもあるだろうけど、一番大きいのは仲間の惨劇だけを見つづけさせられてしまうってことだ。近接戦闘なら敵の血や死も見られる。そこで精神のバランスが取れてたのかもしれないな」
「なるほど」意外な言葉に、ぼくは納得させられた。
「ま、一概には言えんがな」彼はベッドに横たわった。「ナーバスになりすぎるなよ」
「ああ」
強風が窓ガラスに吹き付ける。
アルミのサッシは振動して音をたてる。
外を見ようとするが、そこにはぼくの顔が映っていた。厳しい表情。
ぼくは自分の影を追いやるように目を凝らす。
月も、星も出ていない。
「ナーバスになりすぎるなよ」もう一度、彼は言った。
ぼくは振り向く。
彼は背中をこちらに向けていたため、その表情を見ることは出来なかった。
けれど。
「大切なことなんだよ」背中越しの声。
けれどぼくには、彼の真剣さを感じ取ることが出来た。
「ありがとう」
礼を言うと、ぼくは再び外を見る。
黒い砂丘は黒い雲と同化してしまっているのか、空と地平の区別が出来ない。
「明日は雨かな」ぼくはつぶやく。
答えの代わりに、寝息が聞こえてきた。
今、この地域は雨季に入っている。天候を気にしても仕方がない。一日に最低一回はスコールが降るのだ。
彼と話して、少しはリラックスできたようだ。掌に痛みを感じ、握っていた十字架を離す。指先に、角張った十字架の跡がついていた。
ゆっくりと消えていく、その跡を見ながら、彼の忠告を心にしまう。
ぼくは彼を起こさぬように注意してカーテンを閉め、彼の点けた電気を消した。
そして静かにベッドへ戻って潜りこみ、深い眠りの中へと落ちていった。
翌日早朝。
ぼくたちの分隊は、一個大隊の中に混じり、岩盤の多い地方へ向かって進軍していた。
今回の作戦は武装勢力の拠点を三方から攻め込むために、一個連隊を三つの大隊に分け、制圧することになっている。
四十キロのバックパックを背負い、肩からライフルを下げ、ベルトにも拳銃や水筒を吊り下げている。若い女性を背負っているようなものだ。
ぼくたちは指揮官の下、黙々と指示された地点へと歩いていく。正面から攻める大隊を斜め後方から援護攻撃をすると共に、退路を断つ役割も担っている。残りの一個大隊は、途中まで一緒だったが、Bポイントで別れた。彼らも斜め後ろから攻撃するが、その隊こそが本隊の精鋭たちだ。
正面から攻める大隊は陽動。その隙に本隊が奇襲をかけ、ぼくたちの隊が止めを刺すということになる。
ぼくたちの隊は、武装勢力の拠点を中心にして、反時計回りに移動している。正面から攻める隊を十二時の方向にしたとすると、本隊は八時の方向、ぼくたちは四時の方向ということになる。ぼくたちの基地から最も遠いポイントだ。
ポツリポツリと降り始めた雨は、時間を早送りしたみたいに、いきなりの豪雨となる。
雨はヘルメットから滴り視界を狭め、軍服を濡らして襟元から体を這い伝い体温を急速に奪っていく。
さらに厄介なことには、雨のせいで砂は泥濘化して足に絡みつき、岩石の表面はつるつるとして滑りやすくなってしまう。
予想されていたこととはいえ、これだから嫌になってしまう。
まったく、何度経験してもスコールに慣れる気なんて、少しも起きない。
それでもぼくたちは岩陰を歩き、どろどろした土を踏む。
陽動も奇襲も危険で大事な仕事だが、退路を断つことほど危険で重要な任務はない。
相手は、それこそ死に物狂いに必死で逃げてくるのだ。
生き残るために。
生き延びて家族と手を取り、再びぼくたちを殺そうとするために。
ぼくたちは敵の逃走をなんとしてでも阻止しなければならない。そのためにはタイミングも大切だ。遅れるのはもちろんのことだが早すぎてもいけない。奇襲の妨げになってしまうからだ。
陽動→奇襲→止め。
この順番が肝要なのだ。
ちょうどベースボールで、二→四→六とゲッツーを取るみたいに。
不意に、そして必然的に、スコールはピタリと止んだ。あまりにも突然すぎて、ぼくに子供の頃の記憶を想起させた。
デパートで、迷子になったと知った瞬間の、置いてきぼりにされたような初めての孤独。
だから、ぼくはスコールが嫌いなんだ。
とても車では進めないような岩場と砂の混じった道なき道を抜けると、二百メートルほど先に森が見えた。
森と、ぼくたちの大隊の間には障害物など一切ない。
こういう場所が、一番危険なのだ。
敵からはこちらが丸見えで、こちらからは森に隠れた敵が見えない。それは皆が心得ている。指揮官は、どこかの一小隊を斥候に行かせることにした。
彼ら八人の小隊は、ゆっくりと慎重にマシンガンを構えて進む。
二十メートルほど進むと、タタタタタと旧式型のライフル銃の音が響いた。
八人は一斉に、パッと倒れる。
いや、違う。
弾丸は地面に、まだらな穴を開けただけだ。
彼らは反射的に身を伏せ、銃声のした方へバララララッとマシンガンを射ち放った。
悲鳴が聞こえ、森は沈黙したように静かになった。
小隊はもう一度掃射すると、注意深く森へ近付き、入って行く。
大事の前の小事も疎かにはできない。敵がこちらの動きを探し、拠点へ情報を流してしまっては制圧が難しくなってしまう。
森の中の草葉が揺れている。
無線から小隊長の声が聞こえてくる。
「大丈夫です。歩哨ではないようです。敵は子供一人。この辺をうろついていただけのようです。問題はありません」
武装勢力の少年兵たちは、功を焦り通信機器を持たずに徘徊しているのだ。
射たれたのが子供だと聞き、ホッとした自分に、ぼくは吐き気を催した。胃からせり上げてくる胃液を、ぼくは強引に押しとどめる。食道まで上がってきた胃酸が、胸焼けとなって体に広がる。
けれど、これは仕方の無いことなのだ。ぼくは自分に言い聞かせる。この相手が大人で、遊撃隊だった場合にはさらに酷い状況に陥ることになってしまうのだ。彼らは仲間を呼び寄せ、木立に隠れ、ゲリラ戦を仕掛けてくることになっただろう。そうなっていたら、物量でこちらが勝ってるとはいえ、時間をロスし、情報が流され作戦にも影響が出てくるのだから。そして、
そしてゲリラ戦自体が恐ろしいのだ。ぼくたちの精神を消耗させ、疲弊されてしまう。一番怖いのはこの部分。ゲリラ戦での精神的疲労は並大抵のものではない。先行する隊列をやりすごし、挟撃を仕掛ける。そうして部隊は分断され、散り散りになってしまう。もちろん対応するべき訓練は受けているけれど、実践と訓練とでは恐怖感も孤独感も虚無感も段違いのレベルなのだから。
「了解。では本隊も進行を再開する」大隊長の声が無線を通して全員に伝えられた。
「しかし大尉殿」斥候した小隊長の声だ。「この子供は息があります。いかが致しましょうか」
「傷の具合はどうだ」大隊長は冷静に尋ねる。
「はい。命に別状はない様子ですが腹部からの出血が治まりません」
「分かった。衛生兵を一人送ろう。君たち小隊は分隊に別け、一チームを衛生兵の護衛として基地まで帰還しろ。残りは衛生兵が到着次第、本隊に合流するように」
「了解しました」
そうしてぼくたちは、森へ向けての進軍を開始した。
スコールの残した水たまりを踏みにじり、ぼくたちは樹々の中へと入って行く。
少年兵が死んでいなかったことは、ぼくにとって一種の救いであったような気がしていた。隊は少年兵の脇を通っていく。少年兵は衛生兵の処置を受けまいと、この地方独特の異言語で語気を荒げている。罵声だか怒号だか意味は分からなかったけれど、それは異教徒の呪いの文句のように聞こえた。
ぼくはネックレスを、そっと触った。そこにちゃんと十字架があるかどうか確かめるみたいに。
銀の十字架は硬質で、存在感を主張するように、しっかりと胸元にあった。
森の奥の小道が見えてくる。
ぼくは時計を見た。
Cポイント。予定より早く、ぼくたちは待機地点に辿り着いた。
大隊長は中隊長や小隊長を集め、細々とした打ち合わせをした。
大隊は二つに別けられ、小道を挟んで森のこちら側とあちら側に配置されるみたいだった。
その間、ぼくたち兵卒は、しばしの休憩を味わっていた。
「よ、疲れたか」相部屋の男はぼくの顔を見つけて声をかけてきた。
「ああ。疲れたよ。だけどそんなの、いつものことじゃないか」
「確かにな」彼は苦笑した。「俺たちの分隊は、森の向こう側になるらしい」
「了解」ぼくは言って、水を飲んだ。
休憩が終わり、ぼくたちは小道を横切り、そこからさらに移動した。これは道を挟んで攻撃するため、見方同士、相打ちにならないよう角度を付けるための移動。ぼくたちの方が武装勢力の拠点に近く、ぼくたちの射ち逃した敵を後方の部分がカバーするという役割としても機能する。
ぼくたちは背丈より高い草に紛れ込んでいる。敵の拠点が、その隙間から下方向に朧に見えた。
スコールの影響が残っているせいか、匂いたつ草いきれは、まるでぶ厚いベールのようで息苦しい。
亜熱帯の森林特有の息苦しさの中で待機をし続けていると、ロケット砲の炸裂する音が聞こえてきた。
よく見ると、戦闘はすでに始まり、陽動部隊の姿が見える。
音速の限界。
準備のために目を閉じる。
続いて銃声が激しく轟く。
それからしばらくして、ぼくには分からない例の異言語の叫び声が聞こえてきた。
きっと、奇襲作戦が成功したのだろう。
次は、ぼくたちの番だ。
攻撃の指令。
ぼくは目を開いてライフルを構えると、窓ガラスやカーテンの隙間から見える敵に向けて狙撃した。
<続く>
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