新聞記者という仕事の激務に耐え切れず、あたしは辞表を提出した。
五年間の記者生活は、とても不規則な毎日だった。
スクープがあれば深夜にも駆り出されるし、大事件となれば徹夜が続く。
スポーツ新聞の記者であったため、記事の内容は真実性よりも娯楽性が重視されていた。
大事件の容疑者の経歴を洗い、アラを探し、タレント事務所からのクレームや差し止め工作はパワーハラスメントそのもの。
人気イケメン俳優の担当にされた時、初めは嬉しかったが、セクシャルハラスメントを受け、印象がガラリと変わってしまった。表に出される外見や内面は作られたもの。本性はロクでもない女たらしだった。しかしそんな暴露は許されない。
親会社がスポンサーに名を連ねている映画に出演しているため、提灯記事を書くことしかできなかった。
ストレスが溜まり続け、とうとう爆発して辞表を出したのが二ヶ月前のこと。
これでたっぷり睡眠時間がとれる。
そう思っていたあたしが甘かった。
崩れていた生活感覚を取り戻すのに時間がかかり、今でも不眠と戦っている。
それはある意味でPTSDと同じかもしれない。ごく一部の社会ではあるけれど、その裏側を覗いてしまったせいだろう。
布団に入り、眠ろうと思っても、その途端つまらないことが気になって眠れなくなってしまう。
それまでの眠気が吹き飛んじゃうのよね。
昼間に見たワイドショーのコメンテーターの放った、薄っぺらい発言を思い出す。それはエコロジーに対してのものだったけれど、要約すると「植物は太陽の光と水と空気だけで生きている。人間もそんなシンプルな生き方が良い」とか何とか。
でも、そんなの嘘だ。
確かに植物は光合成をして生きているが、微生物や昆虫や動物の死骸、それにフンの混じった堆肥から、根によって養分を吸収していることを忘れている。
それに、そのコメンテーターは弁護士だ。畑違いというものだろう。なのにぬけぬけと適当なことを発言して顔を売り、ギャランティーと顧客確保のために良識ぶっているだけなんじゃないのかな。
そこでハッと考えることをやめる。
いけない、いけない。眠らなきゃ。
眠ろう眠ろう、寝よう寝よう。
姿勢がいけないのかしら。
あれ? あたしって、いつもどんな姿勢で寝てたんだろう。
心臓を下にして横を向く。
どっくん、どっくん。
心臓の鼓動が心地よい。
でも、それは始めだけ。だんだん煩わしくなってくる。うるさくって眠れやしない。
今度は逆を向いて横になる。
うん。ちょっと、いい感じ。
でも、一人はちょっと寂しいな。ペットでも飼おうかしら。なんて思って体を丸める。
だけどペットは高いからな。
二十万とか三十万とかして――だけれどそれも仕方がないか。一つの命を買い取るわけなんだから。
あ、でも、何年か前に五万円で殺人を請け負って実行した犯人が捕まってたな。被害者はナイフで刺されて死んじゃって――
人の命が五万円。
ペットの値段が数十万円。
少子化の影響か、ペットのお墓に金をかけ、ペット事業は今が盛りとか。
子供の育て方が分からないで、ペットみたいに接する親が多いとか。
その一方で、保健所に預けられるペットたち――
ああ、また変なこと考えてる。
保健所からペットを譲ってもらえばタダみたいなもの。ワクチン代とかかかるのかしら。ま、それも安くて済むでしょ。
ペット飼うならペットショップより保健所にしよう。一つの命を助けることにもなるのだし。
それ以上は考えない。
もう寝るんだから。
もう寝るんだからね!
――って、気合を入れて眠れなくなるあたし。
はあ―。ちょっと水でも飲んで落ち着こう。
喉を潤すついでに時計を見たら、午前一時半になっている。
布団に仰向けて、溜息を吐く。
今夜も、また眠れそうにない。
ちょっとは落ち着いたような、でも時計を見たせいで焦ってもきたような気もする。
余計なことしちゃったな。馬鹿みたいだ、あたしって。
ああもう。忘れよう忘れよう。
時間なんてどうでもいいの。要は睡眠の質の問題。
今は仕事をしているわけじゃないし、少しくらい遅く起きたって大丈夫なんだから。
少しずつでいいの。
少しずつ、早く寝て、早く起きる。
そして規則正しい生活に戻す。
簡単よ、カンタン。
何も考えないこと。
呼吸に意識を集中して――吸って、吐く。吸って、吐く。吸って吐いて……そう。そんな感じ。おっと、また余計なこと考えちゃったかしら? ま、少しくらい良いでしょう。気にしない気にしない。吸って、吐く。吸って――
あ。
また妙なことを思い出しちゃった。
昔なにかで見たけれど、遺灰をフリカケにしてご飯にかけて食べてたって人がいたわね。
確か夫が妻の遺灰を……性欲と食欲に関連があるらしいけれど、この場合もそうなのかしら?
愛し忘れられなくて自分の一部にしようとして食べた、とか? カニバリズムと関係はあるのかしら。それとも――
いやいや、考えるのはやめましょう。
気になるけれど。
今は忘れて、後で考える。
そう、それがいいわ。
ま、後になれば忘れてしまうでしょうけど。
――忘れないうちに考えた方が……
いいえ。どうせ考えた結論も忘れちゃうに決まってるんだから、このこと全体を忘れましょ。
えーと、なんだったかな。
何か気を落ち着けさせるためにしていたような。
ああ、頭を空っぽにしなくっちゃ。
初めは呼吸に集中して、吸って、吐く。
ゆっくりと。
吸って――吐いて――吸って――吐いて――
ふう。ちょっとウトウトしてきたみた――外が明るくなってる!
えっ!もう五時!?
寝てたのかしら。
眠った気がしないけど。
ああ……寝たい。でも眠気は驚きで飛んでっちゃった。
なんだか疲れるな。
ホント、不眠症って厄介よね。
五年間の記者生活は、とても不規則な毎日だった。
スクープがあれば深夜にも駆り出されるし、大事件となれば徹夜が続く。
スポーツ新聞の記者であったため、記事の内容は真実性よりも娯楽性が重視されていた。
大事件の容疑者の経歴を洗い、アラを探し、タレント事務所からのクレームや差し止め工作はパワーハラスメントそのもの。
人気イケメン俳優の担当にされた時、初めは嬉しかったが、セクシャルハラスメントを受け、印象がガラリと変わってしまった。表に出される外見や内面は作られたもの。本性はロクでもない女たらしだった。しかしそんな暴露は許されない。
親会社がスポンサーに名を連ねている映画に出演しているため、提灯記事を書くことしかできなかった。
ストレスが溜まり続け、とうとう爆発して辞表を出したのが二ヶ月前のこと。
これでたっぷり睡眠時間がとれる。
そう思っていたあたしが甘かった。
崩れていた生活感覚を取り戻すのに時間がかかり、今でも不眠と戦っている。
それはある意味でPTSDと同じかもしれない。ごく一部の社会ではあるけれど、その裏側を覗いてしまったせいだろう。
布団に入り、眠ろうと思っても、その途端つまらないことが気になって眠れなくなってしまう。
それまでの眠気が吹き飛んじゃうのよね。
昼間に見たワイドショーのコメンテーターの放った、薄っぺらい発言を思い出す。それはエコロジーに対してのものだったけれど、要約すると「植物は太陽の光と水と空気だけで生きている。人間もそんなシンプルな生き方が良い」とか何とか。
でも、そんなの嘘だ。
確かに植物は光合成をして生きているが、微生物や昆虫や動物の死骸、それにフンの混じった堆肥から、根によって養分を吸収していることを忘れている。
それに、そのコメンテーターは弁護士だ。畑違いというものだろう。なのにぬけぬけと適当なことを発言して顔を売り、ギャランティーと顧客確保のために良識ぶっているだけなんじゃないのかな。
そこでハッと考えることをやめる。
いけない、いけない。眠らなきゃ。
眠ろう眠ろう、寝よう寝よう。
姿勢がいけないのかしら。
あれ? あたしって、いつもどんな姿勢で寝てたんだろう。
心臓を下にして横を向く。
どっくん、どっくん。
心臓の鼓動が心地よい。
でも、それは始めだけ。だんだん煩わしくなってくる。うるさくって眠れやしない。
今度は逆を向いて横になる。
うん。ちょっと、いい感じ。
でも、一人はちょっと寂しいな。ペットでも飼おうかしら。なんて思って体を丸める。
だけどペットは高いからな。
二十万とか三十万とかして――だけれどそれも仕方がないか。一つの命を買い取るわけなんだから。
あ、でも、何年か前に五万円で殺人を請け負って実行した犯人が捕まってたな。被害者はナイフで刺されて死んじゃって――
人の命が五万円。
ペットの値段が数十万円。
少子化の影響か、ペットのお墓に金をかけ、ペット事業は今が盛りとか。
子供の育て方が分からないで、ペットみたいに接する親が多いとか。
その一方で、保健所に預けられるペットたち――
ああ、また変なこと考えてる。
保健所からペットを譲ってもらえばタダみたいなもの。ワクチン代とかかかるのかしら。ま、それも安くて済むでしょ。
ペット飼うならペットショップより保健所にしよう。一つの命を助けることにもなるのだし。
それ以上は考えない。
もう寝るんだから。
もう寝るんだからね!
――って、気合を入れて眠れなくなるあたし。
はあ―。ちょっと水でも飲んで落ち着こう。
喉を潤すついでに時計を見たら、午前一時半になっている。
布団に仰向けて、溜息を吐く。
今夜も、また眠れそうにない。
ちょっとは落ち着いたような、でも時計を見たせいで焦ってもきたような気もする。
余計なことしちゃったな。馬鹿みたいだ、あたしって。
ああもう。忘れよう忘れよう。
時間なんてどうでもいいの。要は睡眠の質の問題。
今は仕事をしているわけじゃないし、少しくらい遅く起きたって大丈夫なんだから。
少しずつでいいの。
少しずつ、早く寝て、早く起きる。
そして規則正しい生活に戻す。
簡単よ、カンタン。
何も考えないこと。
呼吸に意識を集中して――吸って、吐く。吸って、吐く。吸って吐いて……そう。そんな感じ。おっと、また余計なこと考えちゃったかしら? ま、少しくらい良いでしょう。気にしない気にしない。吸って、吐く。吸って――
あ。
また妙なことを思い出しちゃった。
昔なにかで見たけれど、遺灰をフリカケにしてご飯にかけて食べてたって人がいたわね。
確か夫が妻の遺灰を……性欲と食欲に関連があるらしいけれど、この場合もそうなのかしら?
愛し忘れられなくて自分の一部にしようとして食べた、とか? カニバリズムと関係はあるのかしら。それとも――
いやいや、考えるのはやめましょう。
気になるけれど。
今は忘れて、後で考える。
そう、それがいいわ。
ま、後になれば忘れてしまうでしょうけど。
――忘れないうちに考えた方が……
いいえ。どうせ考えた結論も忘れちゃうに決まってるんだから、このこと全体を忘れましょ。
えーと、なんだったかな。
何か気を落ち着けさせるためにしていたような。
ああ、頭を空っぽにしなくっちゃ。
初めは呼吸に集中して、吸って、吐く。
ゆっくりと。
吸って――吐いて――吸って――吐いて――
ふう。ちょっとウトウトしてきたみた――外が明るくなってる!
えっ!もう五時!?
寝てたのかしら。
眠った気がしないけど。
ああ……寝たい。でも眠気は驚きで飛んでっちゃった。
なんだか疲れるな。
ホント、不眠症って厄介よね。
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