医者から禁煙を指示された男は、仕方なしにタバコをやめることにした。
日頃から「タバコなんて、いつでもやめられるよ」と口にしていた彼は、禁煙グッズに頼ることもなく、自分の意思の力のみで禁煙に挑むことにした。
元から、あまり吸う方ではなかったのだ。
三日に一箱くらいのペース。二日続けて吸わなくても全然平気だったこともある。
しかし体質なのか先天的なものなのか、男は呼吸器系統の病にかかった。
ぜんそくである。
始めはむせただけだと思って放っておいたせいか、かなり厄介な状態になっていたらしい。
大人でもぜんそくになるなんてと半信半疑ではあったが、医者によると、最近は大人になってから患う人も珍しくないと言う。
そんなものなのかなと思いながらも、男はタバコをやめることにしたのだった。
禁煙は順調に進み、問題なく一週間が過ぎた。
「禁煙なんて簡単なものだよ」男は笑いながら、妻にそう豪語していた。
だが、それから程なくして、男は自分がタバコを吸っている人に目が行くことに気付いた。
ちょっと前ならば「禁煙できない奴だな」などと見下した考え方をしていたかもしれない。が、今は違う。彼は自らの意識の変化に気付いていた。
「吸いたい……」男は半ば羨望の目付きで喫煙者を見つめている。
タバコを扱っているコンビニのレジでも、自然と手が伸びそうになり、ハッとする。それから店員の後ろに並んでいるパッケージを恨めしそうに眺めるのだ。
そして二週間が過ぎようとしたその日に、彼はタバコの誘惑に負けてしまった。
包装を破り、取り出した一本のタバコ。
思わずコンビニで買ってしまった物だ。
しばらく吸っていなかったので、百円ライターもついでに購入した。
口にくわえ、火を点ける。
深く吸い込み、肺を煙で満たし、満足そうに吐き出した。
途端、彼はぜんそくに襲われ、苦しんだ。
目に涙が浮かぶ。
男は灰皿にタバコを投げ捨てると、まだ十九本残っているタバコの箱をゴミ箱に捨てる。
「二度と吸うもんか」ぜんそくが治まると、男はそう吐き捨てた。
けれども。
また一週間が過ぎようとしている頃には、タバコが吸いたくなってくる。
己の意思はここまで弱かったのかと凹んだが、そのうちに「そうではない、ニコチンこそが悪なのだ」と考えるようになり、次第にイライラしてきはじめた。
仕事の能率も下がり、家では怒りやすくなる。
子供がいたら、もっと面倒になっていただろう。だが彼ら夫婦は結婚して三年目。まだ子供はいないし、新婚と言える範囲にもあるので、妻は夫に逆らうよりも不憫に思う方が強かった。
「ねえ、あなた」妻は言う。「気分転換にでも、二人で旅行に行きましょうか」
男は少し考え、その提案に賛同することにした。
突然なことなので旅費も安い所にしようと話し合い、カタログを二人で見る。
そんな時は男もリラックスでき、次の休日を楽しみに選びながら、日々を過すことができた。
二人で話し合った結果、旅先は栃木県の日光に行こうということになった。都内から近い世界遺産でもあるし、鬼怒川や川治温泉などで一泊して帰ることに決めたのだ。
当日、二人は電車で日光に入り、車をレンタルする。
まずは東照宮へ行き、三猿を見付けようとしたり、眠り猫の小ささに少しがっかりしたり、鳴竜の間で音の響き具合を楽しんだりする。次に竜頭の滝を見て、どこが竜頭なのか分からなかったりもしたが、中禅寺湖を一周して、お土産売り場に立ち寄り、ショッピングを楽しんだ。
そして名所中の名所、華厳の滝に辿り着く。
一番勢いの激しく見える場所を案内係に教えてもらい、入場料を払って施設に入る。
建物の中を歩いていると、次第にドドドドドと音が聞こえ出す。
見学所は高みになっていて、病院か何かの屋上の様な雰囲気だ。
一本の筋となって流れ落ちる莫大な水の質量。
晴れているせいか虹が架かり、見ている方を呑み尽くさん勢いで迸る。
飛沫がこちらまで飛んできているように湿度が高い。実際、辺りには靄がかかり、服が水分を含んでいくのが分かる。
二人はしばらく見入った後、車に戻って予約していたホテルに着いた。
川魚や山菜をメインにした料理を食べた後、温泉に浸かる。
風呂を出た二人は、部屋でくつろぎつつ、デジカメで撮影した画像を見る。互いに印象や感想を口にし、酒を飲んでいるうちに夜となる。
男は妻に感謝した。こんな気分になれたのは久々のことだったと。
妻は喜んだ。そして余計な一言「禁煙がんばってね」などという言葉は口にしなかった。彼女は夫の久し振りの笑顔が見られただけで嬉しかったのだ。彼の気持ちを台無しにしたくはない。
酒のせいか、二人はいつしかまどろみ始める。
まどろみとは言え、この場合は少しウトウトしてきて、本格的に眠るために布団へ横になろうかな。くらいの程度のものであった。
しかし、ふと気付くと辺りは明るい。
電気の明るさではない。これは太陽の光だ。
男は布団の上に立っていた。浴衣姿で。
隣を見る。
妻も浴衣を着たまま、眠そうな目をし、不思議そうに口を歪めて布団の上に立っている。
「お前、なんでぼんやり立ってんだ?」男は聞いた。
「あなたこそ」間伸びした声で妻が言う。
「分からない」男はぼんやりとした頭を働かせるべく努力する。「ちゃんと眠れたのか?」
妻は無言で首を振る。
「と、言うことはつまり、お前は俺と同じ状況にいるわけだな?」
「どんな状況よ」妻は返す。「わけが分からないわ」
「まず整理するとだな、二人でデジカメの画像を見ながら酒を飲んでたわけだ」
「ええ。覚えてるわ」
「うん。そこまでは良い。そして、俺は眠くなって、そろそろ布団に入るかと言おうと思ってたんだよ」
「あたしもそんな感じだったわ」
「そうか。まあいろいろ回って疲れてたしな」
「そうね、それもあったでしょうね」
「ああ。で、寝るかと言おうとした所で、気付いたら、ここに立ってる」
「あたしも大体そんな感じね」
「で、朝になってるってわけだ」男は窓を指差す。
「朝になってるわね」妻は窓外を見てから夫に視線を戻す。「まさしく同じ状況だわ」
「やはり同じ状況なわけだな」男は考えようとするが眠気が邪魔をする。
「そう言うことになるわけよね」
「ああ」
「でも、どうして――」
「おっと、もうこんな時間なのか」妻への言葉を制して夫が言う。「チェックアウトしなきゃ」
二人はホテルを出、慎重に車を運転する。
帰りの電車の中で、二人はやっと眠ることができた。
家に着いてからも、不思議な思いは消えるわけもない。
男はあくびを噛み締めながら、デジカメの画像を見続けている。そこに、時間断絶のヒントがあるような気がしてならなかったからだ。
注意深く観察しながら、ボタンを操作しデータを送っていく。
すると、妙な画像が最後に現れた。
夜中の華厳の滝。そこに浴衣姿の二人が写っている。
しかも夫婦の間には半透明な人影の輪郭。
「おい!おいおい!」男は眠っている妻を起こした。「何だこれは!何だこの写真は!?」
夫に起こされ、不機嫌そうにしていた妻も、その画像を見て凍り付いた。
「何……これ……」彼女は口に手を当てる。
「なんで夜中に滝の前で。俺たちは眠りながら写真を撮ったって言うのか?」夫は取り乱している。「いや、正確には眠ってもいないわけだが――じゃあ、どう言ったらいいんだろう、ますます頭が混乱する」
「でも、私たち二人とも写ってるわよね」
「他になんだか分からないものもな」
「ちょっと落ち着いて。私たち二人が写ってるなら、この写真、誰が撮ったの?」
夫は恐怖の叫びを上げた。何かに取り憑かれたのかもしれない。
以来、彼はタバコを吸うどころではなく、怯えに怯えながら毎日を暮らしている。
華厳の滝は名所中の名所。
自然美あふれる名所であり、自殺の名所でもある。心癒される名所であり、心霊写真の名所でもある。皆さん、是非来て下さい。
日頃から「タバコなんて、いつでもやめられるよ」と口にしていた彼は、禁煙グッズに頼ることもなく、自分の意思の力のみで禁煙に挑むことにした。
元から、あまり吸う方ではなかったのだ。
三日に一箱くらいのペース。二日続けて吸わなくても全然平気だったこともある。
しかし体質なのか先天的なものなのか、男は呼吸器系統の病にかかった。
ぜんそくである。
始めはむせただけだと思って放っておいたせいか、かなり厄介な状態になっていたらしい。
大人でもぜんそくになるなんてと半信半疑ではあったが、医者によると、最近は大人になってから患う人も珍しくないと言う。
そんなものなのかなと思いながらも、男はタバコをやめることにしたのだった。
禁煙は順調に進み、問題なく一週間が過ぎた。
「禁煙なんて簡単なものだよ」男は笑いながら、妻にそう豪語していた。
だが、それから程なくして、男は自分がタバコを吸っている人に目が行くことに気付いた。
ちょっと前ならば「禁煙できない奴だな」などと見下した考え方をしていたかもしれない。が、今は違う。彼は自らの意識の変化に気付いていた。
「吸いたい……」男は半ば羨望の目付きで喫煙者を見つめている。
タバコを扱っているコンビニのレジでも、自然と手が伸びそうになり、ハッとする。それから店員の後ろに並んでいるパッケージを恨めしそうに眺めるのだ。
そして二週間が過ぎようとしたその日に、彼はタバコの誘惑に負けてしまった。
包装を破り、取り出した一本のタバコ。
思わずコンビニで買ってしまった物だ。
しばらく吸っていなかったので、百円ライターもついでに購入した。
口にくわえ、火を点ける。
深く吸い込み、肺を煙で満たし、満足そうに吐き出した。
途端、彼はぜんそくに襲われ、苦しんだ。
目に涙が浮かぶ。
男は灰皿にタバコを投げ捨てると、まだ十九本残っているタバコの箱をゴミ箱に捨てる。
「二度と吸うもんか」ぜんそくが治まると、男はそう吐き捨てた。
けれども。
また一週間が過ぎようとしている頃には、タバコが吸いたくなってくる。
己の意思はここまで弱かったのかと凹んだが、そのうちに「そうではない、ニコチンこそが悪なのだ」と考えるようになり、次第にイライラしてきはじめた。
仕事の能率も下がり、家では怒りやすくなる。
子供がいたら、もっと面倒になっていただろう。だが彼ら夫婦は結婚して三年目。まだ子供はいないし、新婚と言える範囲にもあるので、妻は夫に逆らうよりも不憫に思う方が強かった。
「ねえ、あなた」妻は言う。「気分転換にでも、二人で旅行に行きましょうか」
男は少し考え、その提案に賛同することにした。
突然なことなので旅費も安い所にしようと話し合い、カタログを二人で見る。
そんな時は男もリラックスでき、次の休日を楽しみに選びながら、日々を過すことができた。
二人で話し合った結果、旅先は栃木県の日光に行こうということになった。都内から近い世界遺産でもあるし、鬼怒川や川治温泉などで一泊して帰ることに決めたのだ。
当日、二人は電車で日光に入り、車をレンタルする。
まずは東照宮へ行き、三猿を見付けようとしたり、眠り猫の小ささに少しがっかりしたり、鳴竜の間で音の響き具合を楽しんだりする。次に竜頭の滝を見て、どこが竜頭なのか分からなかったりもしたが、中禅寺湖を一周して、お土産売り場に立ち寄り、ショッピングを楽しんだ。
そして名所中の名所、華厳の滝に辿り着く。
一番勢いの激しく見える場所を案内係に教えてもらい、入場料を払って施設に入る。
建物の中を歩いていると、次第にドドドドドと音が聞こえ出す。
見学所は高みになっていて、病院か何かの屋上の様な雰囲気だ。
一本の筋となって流れ落ちる莫大な水の質量。
晴れているせいか虹が架かり、見ている方を呑み尽くさん勢いで迸る。
飛沫がこちらまで飛んできているように湿度が高い。実際、辺りには靄がかかり、服が水分を含んでいくのが分かる。
二人はしばらく見入った後、車に戻って予約していたホテルに着いた。
川魚や山菜をメインにした料理を食べた後、温泉に浸かる。
風呂を出た二人は、部屋でくつろぎつつ、デジカメで撮影した画像を見る。互いに印象や感想を口にし、酒を飲んでいるうちに夜となる。
男は妻に感謝した。こんな気分になれたのは久々のことだったと。
妻は喜んだ。そして余計な一言「禁煙がんばってね」などという言葉は口にしなかった。彼女は夫の久し振りの笑顔が見られただけで嬉しかったのだ。彼の気持ちを台無しにしたくはない。
酒のせいか、二人はいつしかまどろみ始める。
まどろみとは言え、この場合は少しウトウトしてきて、本格的に眠るために布団へ横になろうかな。くらいの程度のものであった。
しかし、ふと気付くと辺りは明るい。
電気の明るさではない。これは太陽の光だ。
男は布団の上に立っていた。浴衣姿で。
隣を見る。
妻も浴衣を着たまま、眠そうな目をし、不思議そうに口を歪めて布団の上に立っている。
「お前、なんでぼんやり立ってんだ?」男は聞いた。
「あなたこそ」間伸びした声で妻が言う。
「分からない」男はぼんやりとした頭を働かせるべく努力する。「ちゃんと眠れたのか?」
妻は無言で首を振る。
「と、言うことはつまり、お前は俺と同じ状況にいるわけだな?」
「どんな状況よ」妻は返す。「わけが分からないわ」
「まず整理するとだな、二人でデジカメの画像を見ながら酒を飲んでたわけだ」
「ええ。覚えてるわ」
「うん。そこまでは良い。そして、俺は眠くなって、そろそろ布団に入るかと言おうと思ってたんだよ」
「あたしもそんな感じだったわ」
「そうか。まあいろいろ回って疲れてたしな」
「そうね、それもあったでしょうね」
「ああ。で、寝るかと言おうとした所で、気付いたら、ここに立ってる」
「あたしも大体そんな感じね」
「で、朝になってるってわけだ」男は窓を指差す。
「朝になってるわね」妻は窓外を見てから夫に視線を戻す。「まさしく同じ状況だわ」
「やはり同じ状況なわけだな」男は考えようとするが眠気が邪魔をする。
「そう言うことになるわけよね」
「ああ」
「でも、どうして――」
「おっと、もうこんな時間なのか」妻への言葉を制して夫が言う。「チェックアウトしなきゃ」
二人はホテルを出、慎重に車を運転する。
帰りの電車の中で、二人はやっと眠ることができた。
家に着いてからも、不思議な思いは消えるわけもない。
男はあくびを噛み締めながら、デジカメの画像を見続けている。そこに、時間断絶のヒントがあるような気がしてならなかったからだ。
注意深く観察しながら、ボタンを操作しデータを送っていく。
すると、妙な画像が最後に現れた。
夜中の華厳の滝。そこに浴衣姿の二人が写っている。
しかも夫婦の間には半透明な人影の輪郭。
「おい!おいおい!」男は眠っている妻を起こした。「何だこれは!何だこの写真は!?」
夫に起こされ、不機嫌そうにしていた妻も、その画像を見て凍り付いた。
「何……これ……」彼女は口に手を当てる。
「なんで夜中に滝の前で。俺たちは眠りながら写真を撮ったって言うのか?」夫は取り乱している。「いや、正確には眠ってもいないわけだが――じゃあ、どう言ったらいいんだろう、ますます頭が混乱する」
「でも、私たち二人とも写ってるわよね」
「他になんだか分からないものもな」
「ちょっと落ち着いて。私たち二人が写ってるなら、この写真、誰が撮ったの?」
夫は恐怖の叫びを上げた。何かに取り憑かれたのかもしれない。
以来、彼はタバコを吸うどころではなく、怯えに怯えながら毎日を暮らしている。
華厳の滝は名所中の名所。
自然美あふれる名所であり、自殺の名所でもある。心癒される名所であり、心霊写真の名所でもある。皆さん、是非来て下さい。
PR
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愛煙家としては…
最近は禁煙スペースが増えて、愛煙家としては生き難い世の中になりました。その分、日々の生活の中で、禁煙のチャンスは山のようにありますが… こんな恐ろしい目に合うくらいなら、禁煙なんて絶対しないぞー!!
Re:愛煙家としては…
漫画「ブラックジャックによろしく」では初期の頃、煙草の有効性に触れてる部分もありましたよ。
愛煙家で長生きしている人だって沢山いるのです。
やめるやめないは自分の自由意思で決めるのが一番かも、です。
愛煙家で長生きしている人だって沢山いるのです。
やめるやめないは自分の自由意思で決めるのが一番かも、です。
無題
例の投稿は残念でしたね。頑張っておられるようで良かったです。
私は残念ながら、DoCoMoの規制に巻き込まれてしまい、あっちに書き込めませんのでこちらに来ました。噂によるとあと1ヶ月は規制らしいので、やっと書き込む気力が出てきたのに残念無念です。石巻も異動で忙しいですが皆様によろしくお伝え下さい。
暑いけど気をつけて下さいね。
私は残念ながら、DoCoMoの規制に巻き込まれてしまい、あっちに書き込めませんのでこちらに来ました。噂によるとあと1ヶ月は規制らしいので、やっと書き込む気力が出てきたのに残念無念です。石巻も異動で忙しいですが皆様によろしくお伝え下さい。
暑いけど気をつけて下さいね。
Re:無題
了解しました、報告しておきますよ。
Re:ごめんなさい
まぁ、無理はしないようにして下さいませ。