新聞記者という仕事の激務に耐え切れず、あたしは辞表を提出した。
五年間の記者生活は、とても不規則な毎日だった。
スクープがあれば深夜にも駆り出されるし、大事件となれば徹夜が続く。
スポーツ新聞の記者であったため、記事の内容は真実性よりも娯楽性が重視されていた。
大事件の容疑者の経歴を洗い、アラを探し、タレント事務所からのクレームや差し止め工作はパワーハラスメントそのもの。
人気イケメン俳優の担当にされた時、初めは嬉しかったが、セクシャルハラスメントを受け、印象がガラリと変わってしまった。表に出される外見や内面は作られたもの。本性はロクでもない女たらしだった。しかしそんな暴露は許されない。
親会社がスポンサーに名を連ねている映画に出演しているため、提灯記事を書くことしかできなかった。
ストレスが溜まり続け、とうとう爆発して辞表を出したのが二ヶ月前のこと。
これでたっぷり睡眠時間がとれる。
そう思っていたあたしが甘かった。
崩れていた生活感覚を取り戻すのに時間がかかり、今でも不眠と戦っている。
それはある意味でPTSDと同じかもしれない。ごく一部の社会ではあるけれど、その裏側を覗いてしまったせいだろう。
布団に入り、眠ろうと思っても、その途端つまらないことが気になって眠れなくなってしまう。
それまでの眠気が吹き飛んじゃうのよね。
昼間に見たワイドショーのコメンテーターの放った、薄っぺらい発言を思い出す。それはエコロジーに対してのものだったけれど、要約すると「植物は太陽の光と水と空気だけで生きている。人間もそんなシンプルな生き方が良い」とか何とか。
でも、そんなの嘘だ。
確かに植物は光合成をして生きているが、微生物や昆虫や動物の死骸、それにフンの混じった堆肥から、根によって養分を吸収していることを忘れている。
それに、そのコメンテーターは弁護士だ。畑違いというものだろう。なのにぬけぬけと適当なことを発言して顔を売り、ギャランティーと顧客確保のために良識ぶっているだけなんじゃないのかな。
そこでハッと考えることをやめる。
いけない、いけない。眠らなきゃ。
眠ろう眠ろう、寝よう寝よう。
姿勢がいけないのかしら。
あれ? あたしって、いつもどんな姿勢で寝てたんだろう。
心臓を下にして横を向く。
どっくん、どっくん。
心臓の鼓動が心地よい。
でも、それは始めだけ。だんだん煩わしくなってくる。うるさくって眠れやしない。
今度は逆を向いて横になる。
うん。ちょっと、いい感じ。
でも、一人はちょっと寂しいな。ペットでも飼おうかしら。なんて思って体を丸める。
だけどペットは高いからな。
二十万とか三十万とかして――だけれどそれも仕方がないか。一つの命を買い取るわけなんだから。
あ、でも、何年か前に五万円で殺人を請け負って実行した犯人が捕まってたな。被害者はナイフで刺されて死んじゃって――
人の命が五万円。
ペットの値段が数十万円。
少子化の影響か、ペットのお墓に金をかけ、ペット事業は今が盛りとか。
子供の育て方が分からないで、ペットみたいに接する親が多いとか。
その一方で、保健所に預けられるペットたち――
ああ、また変なこと考えてる。
保健所からペットを譲ってもらえばタダみたいなもの。ワクチン代とかかかるのかしら。ま、それも安くて済むでしょ。
ペット飼うならペットショップより保健所にしよう。一つの命を助けることにもなるのだし。
それ以上は考えない。
もう寝るんだから。
もう寝るんだからね!
――って、気合を入れて眠れなくなるあたし。
はあ―。ちょっと水でも飲んで落ち着こう。
喉を潤すついでに時計を見たら、午前一時半になっている。
布団に仰向けて、溜息を吐く。
今夜も、また眠れそうにない。
ちょっとは落ち着いたような、でも時計を見たせいで焦ってもきたような気もする。
余計なことしちゃったな。馬鹿みたいだ、あたしって。
ああもう。忘れよう忘れよう。
時間なんてどうでもいいの。要は睡眠の質の問題。
今は仕事をしているわけじゃないし、少しくらい遅く起きたって大丈夫なんだから。
少しずつでいいの。
少しずつ、早く寝て、早く起きる。
そして規則正しい生活に戻す。
簡単よ、カンタン。
何も考えないこと。
呼吸に意識を集中して――吸って、吐く。吸って、吐く。吸って吐いて……そう。そんな感じ。おっと、また余計なこと考えちゃったかしら? ま、少しくらい良いでしょう。気にしない気にしない。吸って、吐く。吸って――
あ。
また妙なことを思い出しちゃった。
昔なにかで見たけれど、遺灰をフリカケにしてご飯にかけて食べてたって人がいたわね。
確か夫が妻の遺灰を……性欲と食欲に関連があるらしいけれど、この場合もそうなのかしら?
愛し忘れられなくて自分の一部にしようとして食べた、とか? カニバリズムと関係はあるのかしら。それとも――
いやいや、考えるのはやめましょう。
気になるけれど。
今は忘れて、後で考える。
そう、それがいいわ。
ま、後になれば忘れてしまうでしょうけど。
――忘れないうちに考えた方が……
いいえ。どうせ考えた結論も忘れちゃうに決まってるんだから、このこと全体を忘れましょ。
えーと、なんだったかな。
何か気を落ち着けさせるためにしていたような。
ああ、頭を空っぽにしなくっちゃ。
初めは呼吸に集中して、吸って、吐く。
ゆっくりと。
吸って――吐いて――吸って――吐いて――
ふう。ちょっとウトウトしてきたみた――外が明るくなってる!
えっ!もう五時!?
寝てたのかしら。
眠った気がしないけど。
ああ……寝たい。でも眠気は驚きで飛んでっちゃった。
なんだか疲れるな。
ホント、不眠症って厄介よね。
五年間の記者生活は、とても不規則な毎日だった。
スクープがあれば深夜にも駆り出されるし、大事件となれば徹夜が続く。
スポーツ新聞の記者であったため、記事の内容は真実性よりも娯楽性が重視されていた。
大事件の容疑者の経歴を洗い、アラを探し、タレント事務所からのクレームや差し止め工作はパワーハラスメントそのもの。
人気イケメン俳優の担当にされた時、初めは嬉しかったが、セクシャルハラスメントを受け、印象がガラリと変わってしまった。表に出される外見や内面は作られたもの。本性はロクでもない女たらしだった。しかしそんな暴露は許されない。
親会社がスポンサーに名を連ねている映画に出演しているため、提灯記事を書くことしかできなかった。
ストレスが溜まり続け、とうとう爆発して辞表を出したのが二ヶ月前のこと。
これでたっぷり睡眠時間がとれる。
そう思っていたあたしが甘かった。
崩れていた生活感覚を取り戻すのに時間がかかり、今でも不眠と戦っている。
それはある意味でPTSDと同じかもしれない。ごく一部の社会ではあるけれど、その裏側を覗いてしまったせいだろう。
布団に入り、眠ろうと思っても、その途端つまらないことが気になって眠れなくなってしまう。
それまでの眠気が吹き飛んじゃうのよね。
昼間に見たワイドショーのコメンテーターの放った、薄っぺらい発言を思い出す。それはエコロジーに対してのものだったけれど、要約すると「植物は太陽の光と水と空気だけで生きている。人間もそんなシンプルな生き方が良い」とか何とか。
でも、そんなの嘘だ。
確かに植物は光合成をして生きているが、微生物や昆虫や動物の死骸、それにフンの混じった堆肥から、根によって養分を吸収していることを忘れている。
それに、そのコメンテーターは弁護士だ。畑違いというものだろう。なのにぬけぬけと適当なことを発言して顔を売り、ギャランティーと顧客確保のために良識ぶっているだけなんじゃないのかな。
そこでハッと考えることをやめる。
いけない、いけない。眠らなきゃ。
眠ろう眠ろう、寝よう寝よう。
姿勢がいけないのかしら。
あれ? あたしって、いつもどんな姿勢で寝てたんだろう。
心臓を下にして横を向く。
どっくん、どっくん。
心臓の鼓動が心地よい。
でも、それは始めだけ。だんだん煩わしくなってくる。うるさくって眠れやしない。
今度は逆を向いて横になる。
うん。ちょっと、いい感じ。
でも、一人はちょっと寂しいな。ペットでも飼おうかしら。なんて思って体を丸める。
だけどペットは高いからな。
二十万とか三十万とかして――だけれどそれも仕方がないか。一つの命を買い取るわけなんだから。
あ、でも、何年か前に五万円で殺人を請け負って実行した犯人が捕まってたな。被害者はナイフで刺されて死んじゃって――
人の命が五万円。
ペットの値段が数十万円。
少子化の影響か、ペットのお墓に金をかけ、ペット事業は今が盛りとか。
子供の育て方が分からないで、ペットみたいに接する親が多いとか。
その一方で、保健所に預けられるペットたち――
ああ、また変なこと考えてる。
保健所からペットを譲ってもらえばタダみたいなもの。ワクチン代とかかかるのかしら。ま、それも安くて済むでしょ。
ペット飼うならペットショップより保健所にしよう。一つの命を助けることにもなるのだし。
それ以上は考えない。
もう寝るんだから。
もう寝るんだからね!
――って、気合を入れて眠れなくなるあたし。
はあ―。ちょっと水でも飲んで落ち着こう。
喉を潤すついでに時計を見たら、午前一時半になっている。
布団に仰向けて、溜息を吐く。
今夜も、また眠れそうにない。
ちょっとは落ち着いたような、でも時計を見たせいで焦ってもきたような気もする。
余計なことしちゃったな。馬鹿みたいだ、あたしって。
ああもう。忘れよう忘れよう。
時間なんてどうでもいいの。要は睡眠の質の問題。
今は仕事をしているわけじゃないし、少しくらい遅く起きたって大丈夫なんだから。
少しずつでいいの。
少しずつ、早く寝て、早く起きる。
そして規則正しい生活に戻す。
簡単よ、カンタン。
何も考えないこと。
呼吸に意識を集中して――吸って、吐く。吸って、吐く。吸って吐いて……そう。そんな感じ。おっと、また余計なこと考えちゃったかしら? ま、少しくらい良いでしょう。気にしない気にしない。吸って、吐く。吸って――
あ。
また妙なことを思い出しちゃった。
昔なにかで見たけれど、遺灰をフリカケにしてご飯にかけて食べてたって人がいたわね。
確か夫が妻の遺灰を……性欲と食欲に関連があるらしいけれど、この場合もそうなのかしら?
愛し忘れられなくて自分の一部にしようとして食べた、とか? カニバリズムと関係はあるのかしら。それとも――
いやいや、考えるのはやめましょう。
気になるけれど。
今は忘れて、後で考える。
そう、それがいいわ。
ま、後になれば忘れてしまうでしょうけど。
――忘れないうちに考えた方が……
いいえ。どうせ考えた結論も忘れちゃうに決まってるんだから、このこと全体を忘れましょ。
えーと、なんだったかな。
何か気を落ち着けさせるためにしていたような。
ああ、頭を空っぽにしなくっちゃ。
初めは呼吸に集中して、吸って、吐く。
ゆっくりと。
吸って――吐いて――吸って――吐いて――
ふう。ちょっとウトウトしてきたみた――外が明るくなってる!
えっ!もう五時!?
寝てたのかしら。
眠った気がしないけど。
ああ……寝たい。でも眠気は驚きで飛んでっちゃった。
なんだか疲れるな。
ホント、不眠症って厄介よね。
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「角川文庫版『宇治拾遺物語』の三巻、十六話の註に書いてあったのだが」比較人類学教授である牛島は助手達に語りだした。「昔、あかがね、つまり銅は接骨の薬であったとされていたらしいのだ。だが現代においては銅の過剰摂取は害毒であると判明している。確かに人体、特に骨に含まれていることは事実だ。しかしそれはごく微量に過ぎない。今の医者が患者に、昔のように銅を処方していたら、その医者は間違いなく医師免許を剥奪されるだろう。君たちはこのことについて、どう考えるかね?」
つい先程まで雑談も交わしていた助手達は、勢いよく扉が開かれ、その場で突然話し始めた牛島への対応に戸惑った。
「それは、えーと、あれですね」一番年長の男性助手が、時間稼ぎに適当な意見をひねり出す。「過去と現代との違い、すなわち科学の進歩です」
「安易な考察だな」牛島は見下した。「問題はそこではない。過去に考えられていた常識――否。むしろ医術という高等な知識を持った人々の知恵が誤っていた。それは現代の科学についても言えることだ。新説が出て、今までの仮説が誤っていたなどということは日常茶飯事だろう」
「そうですね」年長の助手は額に汗をかいた。
「確かにその通りです。では、教授はそこから何に気付かれたのでしょうか」
「うむ。蟻の研究をしようと思いついたのだ」
助手一同はポカンと口を開けている。
「アリって、あの蟻ですか」赤縁眼鏡をかけた女性助手が尋ねた。「あの、虫の」
「そうだ。今すぐ研究キットを購入する準備をしたまえ」
「どのような研究キットを――」
「決まっているだろう」赤縁眼鏡の質問に苛立ったように牛島は言う。「蟻の巣観察キットだ。小学生用のものでも良い。蟻の生態を調べられればそれで良いのだ。ああ、それから」思い付いたように彼は続ける。「蜂の生態を調べるのも良いかもしらんな。同時に観察しよう。チームを二つに分ける」
助手達はわけの分からぬままに二つのチームに分けられた。
年長の助手や赤縁眼鏡の助手などは、こういった牛島教授の突飛な行動に慣れているため、とりあえず蟻や蜂の生態キットをインターネットで検索し始める。
しかし先月、牛島教授の下に就いたばかりの新人助手は、まだ混乱したままだ。
「あの……」おずおずと彼は尋ねる。「この一連のお話には、どのような関係性があるのでしょうか」
牛島教授は驚いた。
他の助手達も驚いた。
しかし二つの驚愕の種類は違っていた。
他の助手達は、教授に質問するなど、何て恐ろしいことをしてくれたのかと思っていたのだ。牛島が新人に叱責することは必定かと思われ、自分達にとばっちりが来ないことを願っていた。
それに対して牛島は、本当に、心の底から驚いていた。
「君には、この関連性が分からないのかね?」牛島は言う。
「――はい」室内の空気が変わったのを察し、新人助手は小声で答えた。
「本当に? 本当に分からないのかね」
「すみません」
呆然としていた牛島は、ハッと気付く。
「そうか、君は先月から私のところに来たばかりだから分からないのも仕方が無いかもしれないな。君への講義も私の仕事だろう。他の者達は理解していると思うが、ここはひとつ、君のために説明してやるか。皆は作業を続けていてくれたまえ」
年長の助手は思った。
ひとまずカミナリは落ちなかったようだ。けど、誰があんたの飛躍した思考を理解できるもんかよ。ただ言われたとおりに動けばいいんだろ。と。
赤縁眼鏡の助手は思った。
とりあえず、教授が怒らなくて助かったわ。それにしても牛島教授の考えなんて、他の皆も分かるわけないじゃない。わけも分からず動くだけっていうのも嫌なもんね。聞いておこうかしら。と。
「昔は薬でも今は毒」牛島は言う。「私はこれを法則の違いと捉えた。観念の違い、認識の違い、見解の違い。そういったものは人間の歴史上においても言えるのではないかと。基本的なことだが、政治、経済、その時々の常識などは、何度も入れ替わり、そのたびに前の物が否定される。次の物は必ず進歩しているのか?それ以前の物が滅びるのはどうしてなのか?それを調べることが私達の仕事だと思っていた。しかし、だよ。政治も経済の流れも、常識だって、すべて作られた物ではないか。そうだろ、君」
「は、はぁ」
「政治は時の権力者が造った法律の上に、経済流通は商人達の利益争いのためにルールの上にルールを造り、常識はその狭間によって左右されて造られる。対して蟻や蜂の場合はどうなのか。誰かが造ったわけでもないのに働き蟻は働き蟻として機能している。しかもエサを採りに行く蟻や幼虫を育てる蟻、さらには女王蟻と交接するための蟻などと分業されている。この秩序だった社会は何だ?誰が決めたわけでもない規則、その従順性。彼らは狂っているのか?皆が皆同じように狂っているのか? 本能の一言で済ませてしまって本当に良い物なのだろうか? 蟻の社会にも怠け者は一定の確率で存在すると言う。しかし緊急事態にはその怠け蟻も奮戦すると言う。蜂のダンスにも種類がある。ある種の会話だ。人間社会と似ている。ならば戦争や革命は他の巣を襲う本能とどこが違う? 人の持つ破壊衝動と、一体どこが違うのかね? 人間が皆、昆虫と同じように狂っていないなどと誰が言えるかね?彼らの生活基盤のシステムを調べようと思うのは当然のことだろう」
「はぁ」牛島の熱弁にたじろぎつつ、新人助手は返事をする。「そのお考えを、古典物語の中から見出したわけですか。ぼくには考えも及ばないことでした」そして皮肉気に付け足す。「他の皆さんも、先生のお考えを、良くそこまで理解できますね」
「当然だ。君もいずれは、そうなることだろう」
牛島教授はそう言うと、講義の出来に満足したのか部屋を出た。
教授の背中を見ながら、新人助手はこう思った。
なるほどなぁ。こうして社会は、強いられていくものなのか。と。
つい先程まで雑談も交わしていた助手達は、勢いよく扉が開かれ、その場で突然話し始めた牛島への対応に戸惑った。
「それは、えーと、あれですね」一番年長の男性助手が、時間稼ぎに適当な意見をひねり出す。「過去と現代との違い、すなわち科学の進歩です」
「安易な考察だな」牛島は見下した。「問題はそこではない。過去に考えられていた常識――否。むしろ医術という高等な知識を持った人々の知恵が誤っていた。それは現代の科学についても言えることだ。新説が出て、今までの仮説が誤っていたなどということは日常茶飯事だろう」
「そうですね」年長の助手は額に汗をかいた。
「確かにその通りです。では、教授はそこから何に気付かれたのでしょうか」
「うむ。蟻の研究をしようと思いついたのだ」
助手一同はポカンと口を開けている。
「アリって、あの蟻ですか」赤縁眼鏡をかけた女性助手が尋ねた。「あの、虫の」
「そうだ。今すぐ研究キットを購入する準備をしたまえ」
「どのような研究キットを――」
「決まっているだろう」赤縁眼鏡の質問に苛立ったように牛島は言う。「蟻の巣観察キットだ。小学生用のものでも良い。蟻の生態を調べられればそれで良いのだ。ああ、それから」思い付いたように彼は続ける。「蜂の生態を調べるのも良いかもしらんな。同時に観察しよう。チームを二つに分ける」
助手達はわけの分からぬままに二つのチームに分けられた。
年長の助手や赤縁眼鏡の助手などは、こういった牛島教授の突飛な行動に慣れているため、とりあえず蟻や蜂の生態キットをインターネットで検索し始める。
しかし先月、牛島教授の下に就いたばかりの新人助手は、まだ混乱したままだ。
「あの……」おずおずと彼は尋ねる。「この一連のお話には、どのような関係性があるのでしょうか」
牛島教授は驚いた。
他の助手達も驚いた。
しかし二つの驚愕の種類は違っていた。
他の助手達は、教授に質問するなど、何て恐ろしいことをしてくれたのかと思っていたのだ。牛島が新人に叱責することは必定かと思われ、自分達にとばっちりが来ないことを願っていた。
それに対して牛島は、本当に、心の底から驚いていた。
「君には、この関連性が分からないのかね?」牛島は言う。
「――はい」室内の空気が変わったのを察し、新人助手は小声で答えた。
「本当に? 本当に分からないのかね」
「すみません」
呆然としていた牛島は、ハッと気付く。
「そうか、君は先月から私のところに来たばかりだから分からないのも仕方が無いかもしれないな。君への講義も私の仕事だろう。他の者達は理解していると思うが、ここはひとつ、君のために説明してやるか。皆は作業を続けていてくれたまえ」
年長の助手は思った。
ひとまずカミナリは落ちなかったようだ。けど、誰があんたの飛躍した思考を理解できるもんかよ。ただ言われたとおりに動けばいいんだろ。と。
赤縁眼鏡の助手は思った。
とりあえず、教授が怒らなくて助かったわ。それにしても牛島教授の考えなんて、他の皆も分かるわけないじゃない。わけも分からず動くだけっていうのも嫌なもんね。聞いておこうかしら。と。
「昔は薬でも今は毒」牛島は言う。「私はこれを法則の違いと捉えた。観念の違い、認識の違い、見解の違い。そういったものは人間の歴史上においても言えるのではないかと。基本的なことだが、政治、経済、その時々の常識などは、何度も入れ替わり、そのたびに前の物が否定される。次の物は必ず進歩しているのか?それ以前の物が滅びるのはどうしてなのか?それを調べることが私達の仕事だと思っていた。しかし、だよ。政治も経済の流れも、常識だって、すべて作られた物ではないか。そうだろ、君」
「は、はぁ」
「政治は時の権力者が造った法律の上に、経済流通は商人達の利益争いのためにルールの上にルールを造り、常識はその狭間によって左右されて造られる。対して蟻や蜂の場合はどうなのか。誰かが造ったわけでもないのに働き蟻は働き蟻として機能している。しかもエサを採りに行く蟻や幼虫を育てる蟻、さらには女王蟻と交接するための蟻などと分業されている。この秩序だった社会は何だ?誰が決めたわけでもない規則、その従順性。彼らは狂っているのか?皆が皆同じように狂っているのか? 本能の一言で済ませてしまって本当に良い物なのだろうか? 蟻の社会にも怠け者は一定の確率で存在すると言う。しかし緊急事態にはその怠け蟻も奮戦すると言う。蜂のダンスにも種類がある。ある種の会話だ。人間社会と似ている。ならば戦争や革命は他の巣を襲う本能とどこが違う? 人の持つ破壊衝動と、一体どこが違うのかね? 人間が皆、昆虫と同じように狂っていないなどと誰が言えるかね?彼らの生活基盤のシステムを調べようと思うのは当然のことだろう」
「はぁ」牛島の熱弁にたじろぎつつ、新人助手は返事をする。「そのお考えを、古典物語の中から見出したわけですか。ぼくには考えも及ばないことでした」そして皮肉気に付け足す。「他の皆さんも、先生のお考えを、良くそこまで理解できますね」
「当然だ。君もいずれは、そうなることだろう」
牛島教授はそう言うと、講義の出来に満足したのか部屋を出た。
教授の背中を見ながら、新人助手はこう思った。
なるほどなぁ。こうして社会は、強いられていくものなのか。と。
むかしむかし、ある所で二人の少年が遊んでいました。
二人の少年は家が近く、仲も良かったのですが、年が五つ違っていました。
むしろ子供をあやすように、十二歳の少年が七歳の少年と遊んでいたのです。
ところがその時、年上の少年が転び、服が破れてしまったのです。
年下の少年は何を思ったのか一人で家に帰りました。
そしてお母さんに一本の針と長い糸をおねだりしました。
年下の少年は、年上の少年の服を縫ってやろうと思っていたのです。
お母さんに事情を話し、針と糸を持って家から駆け出しました。
ですがあまりに急いでいたせいでしょう。
少年は泉の近くて石につまずき、針を泉の中へ落としてしまったのです。
少年はとても困ってしまいました。
すると、どうでしょう。
不思議なことに泉の精が姿を現し、こう尋ねるのです。
「お前が落としたのは、この銀の針かえ?それともこちらの金の針かえ?」
「いいえ、違います」少年は正直に言いました。「ぼくが落としたのは、普通の鉄でできた針なのです」
「まあ、お前は感心な子供だこと。ごほうびに落とした鉄の針と銀の針と金の針をあげるとしよう」
「ありがとうございます」
少年はお礼を言うと、年上の少年の元へ走り出しました。
そして年上の少年の服を縫うとき、ためしにと金の針を使ってみたのでした。
しかし金というものは金属の中でも柔らかいものなので、うまく縫うことができません。
次に銀の針をためしてみると、こちらはきちんと縫うことができました。
「ありがとう」年上の少年は言いました。「しかしどうしてそんな針を持っているんだ?」
年下の少年は包み隠さず話しました。
すると年上の少年は驚いて言います。
「それは金の斧の話に出てくる泉じゃないか」
「金の斧の話って、なんのこと?」年下の少年は、そのおとぎ話を知らないようでした。
年上の少年は、おとぎ話を語り、教えてあげました。欲をかいて「金の斧を落としました」と言ってさんざんなめにあった男の話も。
「ふーん。でもぼく、この金の針なんて、いらないや。だってすぐ曲がっちゃうんだもの」
その言葉に、年上の少年の目が光ります。
金の斧の話は普通の鉄の斧を落としたくせに金の斧かと聞かれてそうだと言って失敗しました。では金の針を落として、正直に答えてみたらどうなるだろう?
「君がいらないんだったら、それをぼくにくれないかな」年上の少年は言います。
「うーん。どうしよう。きれいだからお母さんにあげたい気もするんだよな」
「だったら銀の針のほうがいいんじゃないのかい?こっちも充分きれいだし、それに丈夫だ」
年下の少年は少し考えました。
そして言います。
「そうだね。丈夫な方がお母さんも喜ぶだろうし、金の針はあげるよ」
こうして金の針を手に入れた年上の少年は、次の日にこっそりと泉の中へ金の針を投げ入れました。
少年は、わくわくしています。ダイヤモンドの針とかプラチナの針とか聞かれるのかな。そしたら金の針って言うんだ。そういえばきっと、全部の針をもらえるはずさ。
はたして、泉の精が現れ、少年に問いかけました。
「お前が落としたのは、このプラチナの針かえ?それとも不思議な力を持った石でできた、この針かえ?」
「いいえ、違います」少年は答えます。「ぼくが落としたのは金の針です」
「まあ、お前は感心な子供だこと。ごほうびに落とした金の針とプラチナの針と不思議な力を持った石の針をあげるとしよう」
そうして少年は三つの針を受け取りました。
プラチナの針は予想通りでうれしかったのですが、問題は不思議な力を持つ針のほうです。
少年はその不思議な力とは何のことなのか、いろいろ試してみたけれど分かりません。
それどころか、日に日に少年の体力は衰え、数ヵ月後に死んでしまいました。
この話を年下の少年から聞いた人たちは口をそろえてこう言いました。
「やっぱり、欲をかいちゃあ、いけないね」
不思議な力を持った石でできた針は封印され、教会に預けることになりました。
ですが泉の精は罰としてその針を少年にあげたわけではありません。
その不思議な力というのは放射線のことなのです。
キュリー夫人がその鉱石、ラジウムを発見したのはそれから数百年後のことでした。
二人の少年は家が近く、仲も良かったのですが、年が五つ違っていました。
むしろ子供をあやすように、十二歳の少年が七歳の少年と遊んでいたのです。
ところがその時、年上の少年が転び、服が破れてしまったのです。
年下の少年は何を思ったのか一人で家に帰りました。
そしてお母さんに一本の針と長い糸をおねだりしました。
年下の少年は、年上の少年の服を縫ってやろうと思っていたのです。
お母さんに事情を話し、針と糸を持って家から駆け出しました。
ですがあまりに急いでいたせいでしょう。
少年は泉の近くて石につまずき、針を泉の中へ落としてしまったのです。
少年はとても困ってしまいました。
すると、どうでしょう。
不思議なことに泉の精が姿を現し、こう尋ねるのです。
「お前が落としたのは、この銀の針かえ?それともこちらの金の針かえ?」
「いいえ、違います」少年は正直に言いました。「ぼくが落としたのは、普通の鉄でできた針なのです」
「まあ、お前は感心な子供だこと。ごほうびに落とした鉄の針と銀の針と金の針をあげるとしよう」
「ありがとうございます」
少年はお礼を言うと、年上の少年の元へ走り出しました。
そして年上の少年の服を縫うとき、ためしにと金の針を使ってみたのでした。
しかし金というものは金属の中でも柔らかいものなので、うまく縫うことができません。
次に銀の針をためしてみると、こちらはきちんと縫うことができました。
「ありがとう」年上の少年は言いました。「しかしどうしてそんな針を持っているんだ?」
年下の少年は包み隠さず話しました。
すると年上の少年は驚いて言います。
「それは金の斧の話に出てくる泉じゃないか」
「金の斧の話って、なんのこと?」年下の少年は、そのおとぎ話を知らないようでした。
年上の少年は、おとぎ話を語り、教えてあげました。欲をかいて「金の斧を落としました」と言ってさんざんなめにあった男の話も。
「ふーん。でもぼく、この金の針なんて、いらないや。だってすぐ曲がっちゃうんだもの」
その言葉に、年上の少年の目が光ります。
金の斧の話は普通の鉄の斧を落としたくせに金の斧かと聞かれてそうだと言って失敗しました。では金の針を落として、正直に答えてみたらどうなるだろう?
「君がいらないんだったら、それをぼくにくれないかな」年上の少年は言います。
「うーん。どうしよう。きれいだからお母さんにあげたい気もするんだよな」
「だったら銀の針のほうがいいんじゃないのかい?こっちも充分きれいだし、それに丈夫だ」
年下の少年は少し考えました。
そして言います。
「そうだね。丈夫な方がお母さんも喜ぶだろうし、金の針はあげるよ」
こうして金の針を手に入れた年上の少年は、次の日にこっそりと泉の中へ金の針を投げ入れました。
少年は、わくわくしています。ダイヤモンドの針とかプラチナの針とか聞かれるのかな。そしたら金の針って言うんだ。そういえばきっと、全部の針をもらえるはずさ。
はたして、泉の精が現れ、少年に問いかけました。
「お前が落としたのは、このプラチナの針かえ?それとも不思議な力を持った石でできた、この針かえ?」
「いいえ、違います」少年は答えます。「ぼくが落としたのは金の針です」
「まあ、お前は感心な子供だこと。ごほうびに落とした金の針とプラチナの針と不思議な力を持った石の針をあげるとしよう」
そうして少年は三つの針を受け取りました。
プラチナの針は予想通りでうれしかったのですが、問題は不思議な力を持つ針のほうです。
少年はその不思議な力とは何のことなのか、いろいろ試してみたけれど分かりません。
それどころか、日に日に少年の体力は衰え、数ヵ月後に死んでしまいました。
この話を年下の少年から聞いた人たちは口をそろえてこう言いました。
「やっぱり、欲をかいちゃあ、いけないね」
不思議な力を持った石でできた針は封印され、教会に預けることになりました。
ですが泉の精は罰としてその針を少年にあげたわけではありません。
その不思議な力というのは放射線のことなのです。
キュリー夫人がその鉱石、ラジウムを発見したのはそれから数百年後のことでした。
太陽は、すでに西へ傾いている。
小学校近くにある古い建物のベンチには、一人の老婆が座っていた。
その木造の建物の板壁は、長い年月のために黒く変色していた。ガラス戸は開かれており、中には駄菓子や文房具の類が見える。中には人影がない。どうやらこの老婆こそが、この店の店主らしい。
彼女はぼんやりと見慣れた風景を見つめている。
ここ数年の間に辺りの雰囲気は、すっかり変わってしまっているが、この店だけが時代から取り残されたように昔の空気を漂わせている。
テコテコと、ゆっくりした足取りで、一匹の三毛猫がベンチへ近付いてくる。この猫も充分に年を経ているようだ。
ゆっくりとベンチへ昇り、それから老婆の膝の上に乗って丸くなる。
深い皺の刻まれた指先で喉元を撫でられ、猫はのんびりとゴロゴロ喉を鳴らした。
老婆は猫に視線を落とし、柔らかな表情を見せる。それからまた路上に目を戻し、悠然と猫を撫で続けている。
その光景は、まるで一枚の写真のように見える。題名は『過ぎ去りし日々の思い出に浸る老女』とでも名付けられるかもしれない。
しかし彼女は過去のことなど考えてもいなかったし、ただぼんやりとその場に座り続けているだけでもなかったのだ。
「では彼女は何をしているのか」と読者の方方は思うだろう。
彼女は『幸せの青い鳥』について考えていたのだ。
チルチルとミチルの訪れたお菓子の家、それはもしかしたら、自分の営むような店のメタファー(暗喩)ではないのかと。だとすればお菓子の家の魔女とは自分と置換可能な存在だと思われる。
ならばもし、見知らぬ二人の子供が、自分の留守中、勝手に店の商品であるお菓子を食べられるとしたら、自分はどんな態度を執るだろう?
おとぎ話の中では、二人は魔女に囚われて、こき使われたはず。それは彼女の若い頃のことを鑑みるに、皿を洗うから食事を只で食べさせてくれと言ったものに近いのではないかと思われる。
しかし相手は子供であり、長い年月を小間使いするのは理不尽な話だ。
尤も、おとぎ話は昔話であり、現代と比較するのも野暮なことかもしれないけれど、こうした知的遊びは楽しいものだ。
自分だったら――彼女は再び自らを魔女の立ち場と重ねてみる――子供は現代の法律で守られているため、魔女と同じ真似はしないだろう。両親から訴えられてしまう。しかし彼らはその法律のうちの刑法を違反したのだ。万引き犯、或いは無銭飲食として警察に通報することができる。
けれども相手は幼い兄妹。自分は通報などしないだろう。両親に連絡し、しかるべき料金を受け取ると共に、きつく叱るように言い渡すだけだ。
一つの結論を見出した後に、老婆は猫の背中をひと撫でする。
猫は甘えるように鳴くと目を閉じた。
おとぎ話と言えば――彼女はすぐに別の題材を思い浮かべたようだ――白雪姫が食べたのは毒リンゴ。アダムとイヴが食べた知恵の実もリンゴのことだ。しかも食べさせたのは魔女と蛇。蛇は悪魔サタンと同一視される向きもあるようだが、魔女は悪魔に仕える存在。そして七人の小人に七つの大罪。
この関連性はなんだろう?
白雪姫とキリスト教とは他にも相似性がある。
リンゴを食べたアダムとイヴはエデンの楽園を追われたのに対し、毒リンゴを食べさせられた姫君は永く深い眠りに堕ちた。姫を眠りから覚醒させた王子と、人類を救済するために産声を上げたキリスト。
不思議な符合に気付いた老婆は驚いた。
白雪姫の話は、もしかしたら聖書を意識して作られたのかもしれない。見目麗しい白雪姫が眠る前、その国は栄えていた。そして王子が姫の存在を知る頃には国は無いも同然で、城も荒れ果てた状態だった。これこそ先程思い浮かべた旧約聖書にあるエデンからの追放とそっくりそのままではないだろうか。豊かな地から荒れ果てた地へ。
なかなか面白い視点かもしれないなと彼女が微笑んだ時、膝の上で寝ていたらしい猫が立ち上がり、伸びをした。 猫は膝から飛び降りると、ベンチの足で爪を磨ぐ。
老婆と猫の約束事なのか、猫の頭を優しくポンポンと叩くと、猫は別れの挨拶をするかのように一言鳴いて、ゆっくりと遠ざかって行く。
彼女は三毛猫の後姿を見送る。
猫は夕焼けの中で赤味を帯び、尻尾をピンと立てて機嫌良さそうに歩いている。やがて角を曲がり、見えなくなってしまった。
もうこんな時間かと老婆は思い、夕日を見つめる。
考え事に没頭していたためか、いつの間にやら太陽は沈みかけている。
確か――彼女は思い出す――太陽の光が地球に届く時間は八分半弱。ということは、本当はもう太陽は沈んでいるはず。今見えているあの太陽は光の残滓。
沈んでいるはずのものが見えているなんて、まるで幻か蜃気楼のよう。なのに誰も不思議とは思わず、普通のこととして捕らえている。そんな事実もまた不思議。
太陽と地球の距離は約一億五千万キロメートル。その間を八分半くらいで進む光のスピードもまた神秘的。
八分半。では一光年とはどのくらいの長さなのだろう?
正確な数字を出すためには『約』一億五千万キロとか、八分半『弱』といった計算をしたところで分かるわけがない。しかし彼女は光が一秒間に地球を七週半することは知っていたし、地球の直径が四万キロだということも知っていた。とすると、四万×七・五=三十万キロということになる。さらに一分間では×六十で千八百万キロということになり、再び×六十で光の時速が分かることになる。×二十四で一日分、×三百六十五で『約』一光年。
一日は正確には二十四時間ではない。そのために四年に一度、四十年に十度、四百年に九十七度の三百六十六日で一年となる、閏年が設けられているのだ。
とりあえず彼女の計算した結果は九兆四千六百八億キロであり、大体の修正を加えると九兆五千億から十兆キロの間だろう。まさに天文学的な数字。それ以上の計算は面倒だ。
日も暮れてきたことだし、店を閉めようと立ち上がり、彼女は店内へ入る。
けれどすぐに鍵を掛けはしない。
電気を点け、ガラス戸を閉めて、半分だけカーテンを開けておく。
奥の座敷に上がり、茶を飲みながらテレビを見る。
落ち着いた気分になってきたせいか、トイレに行って用を済ます。
するとガラス戸を開く音が聞こえてきた。
「よう、婆さん」三十代半ばの男が声をかける。「今日も客は俺、一人だけかい?」
「そうだったかもしれないねぇ」のんびりした口調で彼女は答える。
「そうだったかもって、今日のことすら覚えてないのかよ」男は苦笑する。
「そういや、十五くらいの女の子がさっきまで居たねぇ」
「へえ」男は意外そうな顔をする。「中学か高校か……消しゴムくらいは買ってってくれたのかい?」
「いんや」彼女は首を振った。「膝に乗ってきたから撫でてやったら、ゴロゴロと喉を鳴らしていたよ」
「なんだよ」男は駄菓子をいくつか手にして苦笑する。「いつもの三毛猫のことか。まったく、のんきな婆さんだよ。結局、人間の客は俺だけなんだろう?たまには感謝してもらいたいね」
「鼻ったれた小僧が、良く言うよ。昔はズルしてクジ引きしていた癖に」
「おいおい、二十年以上前の話を持ち出されても困るよ」男は手にした商品を老婆に渡す。
「それにしてもあの猫、まだ元気だったんだな。しばらく残業続きで会えなかったからさ、元気そうな様子聞いて安心したよ」
「あの子は良い子だよ。いつも同じ時間に散歩に来て、同じ時間に帰って行く。本当に頭の良い子」彼女は眼鏡を掛けてソロバンを弾く。「はい、九兆四千五百億円ね」
「今日はやけにケタが高いじゃないか」男は千円札を出し、お釣りを受け取った。「毎日退屈だから、たまには変化でもってわけかい?」
「そんなんじゃないけどね。まあ退屈は退屈だけれども、それなりに楽しいもんなんだよ」
「そんなもんかねぇ。俺も年を取ってくりゃ、分かるようになるのかな」
「さぁねぇ。あんたの性分じゃどうなるか分からないよ」
「人それぞれってわけか。俺もなるべくなら婆さんみたいにイキな老人になりたいよ」
「何だい急に、気持ちの悪い」
「まあそう言うなって。じゃ、また明日な」
男は笑いながら店を出る。
老女は彼の子供だった頃から大人になるまでの姿を思い出し、しばらくその余韻に浸る。
それからガラス戸の鍵を掛けてカーテンを閉めると、店内の電気を消す。
彼女は座敷に戻ると一息つき、茶を啜った。
小学校近くにある古い建物のベンチには、一人の老婆が座っていた。
その木造の建物の板壁は、長い年月のために黒く変色していた。ガラス戸は開かれており、中には駄菓子や文房具の類が見える。中には人影がない。どうやらこの老婆こそが、この店の店主らしい。
彼女はぼんやりと見慣れた風景を見つめている。
ここ数年の間に辺りの雰囲気は、すっかり変わってしまっているが、この店だけが時代から取り残されたように昔の空気を漂わせている。
テコテコと、ゆっくりした足取りで、一匹の三毛猫がベンチへ近付いてくる。この猫も充分に年を経ているようだ。
ゆっくりとベンチへ昇り、それから老婆の膝の上に乗って丸くなる。
深い皺の刻まれた指先で喉元を撫でられ、猫はのんびりとゴロゴロ喉を鳴らした。
老婆は猫に視線を落とし、柔らかな表情を見せる。それからまた路上に目を戻し、悠然と猫を撫で続けている。
その光景は、まるで一枚の写真のように見える。題名は『過ぎ去りし日々の思い出に浸る老女』とでも名付けられるかもしれない。
しかし彼女は過去のことなど考えてもいなかったし、ただぼんやりとその場に座り続けているだけでもなかったのだ。
「では彼女は何をしているのか」と読者の方方は思うだろう。
彼女は『幸せの青い鳥』について考えていたのだ。
チルチルとミチルの訪れたお菓子の家、それはもしかしたら、自分の営むような店のメタファー(暗喩)ではないのかと。だとすればお菓子の家の魔女とは自分と置換可能な存在だと思われる。
ならばもし、見知らぬ二人の子供が、自分の留守中、勝手に店の商品であるお菓子を食べられるとしたら、自分はどんな態度を執るだろう?
おとぎ話の中では、二人は魔女に囚われて、こき使われたはず。それは彼女の若い頃のことを鑑みるに、皿を洗うから食事を只で食べさせてくれと言ったものに近いのではないかと思われる。
しかし相手は子供であり、長い年月を小間使いするのは理不尽な話だ。
尤も、おとぎ話は昔話であり、現代と比較するのも野暮なことかもしれないけれど、こうした知的遊びは楽しいものだ。
自分だったら――彼女は再び自らを魔女の立ち場と重ねてみる――子供は現代の法律で守られているため、魔女と同じ真似はしないだろう。両親から訴えられてしまう。しかし彼らはその法律のうちの刑法を違反したのだ。万引き犯、或いは無銭飲食として警察に通報することができる。
けれども相手は幼い兄妹。自分は通報などしないだろう。両親に連絡し、しかるべき料金を受け取ると共に、きつく叱るように言い渡すだけだ。
一つの結論を見出した後に、老婆は猫の背中をひと撫でする。
猫は甘えるように鳴くと目を閉じた。
おとぎ話と言えば――彼女はすぐに別の題材を思い浮かべたようだ――白雪姫が食べたのは毒リンゴ。アダムとイヴが食べた知恵の実もリンゴのことだ。しかも食べさせたのは魔女と蛇。蛇は悪魔サタンと同一視される向きもあるようだが、魔女は悪魔に仕える存在。そして七人の小人に七つの大罪。
この関連性はなんだろう?
白雪姫とキリスト教とは他にも相似性がある。
リンゴを食べたアダムとイヴはエデンの楽園を追われたのに対し、毒リンゴを食べさせられた姫君は永く深い眠りに堕ちた。姫を眠りから覚醒させた王子と、人類を救済するために産声を上げたキリスト。
不思議な符合に気付いた老婆は驚いた。
白雪姫の話は、もしかしたら聖書を意識して作られたのかもしれない。見目麗しい白雪姫が眠る前、その国は栄えていた。そして王子が姫の存在を知る頃には国は無いも同然で、城も荒れ果てた状態だった。これこそ先程思い浮かべた旧約聖書にあるエデンからの追放とそっくりそのままではないだろうか。豊かな地から荒れ果てた地へ。
なかなか面白い視点かもしれないなと彼女が微笑んだ時、膝の上で寝ていたらしい猫が立ち上がり、伸びをした。 猫は膝から飛び降りると、ベンチの足で爪を磨ぐ。
老婆と猫の約束事なのか、猫の頭を優しくポンポンと叩くと、猫は別れの挨拶をするかのように一言鳴いて、ゆっくりと遠ざかって行く。
彼女は三毛猫の後姿を見送る。
猫は夕焼けの中で赤味を帯び、尻尾をピンと立てて機嫌良さそうに歩いている。やがて角を曲がり、見えなくなってしまった。
もうこんな時間かと老婆は思い、夕日を見つめる。
考え事に没頭していたためか、いつの間にやら太陽は沈みかけている。
確か――彼女は思い出す――太陽の光が地球に届く時間は八分半弱。ということは、本当はもう太陽は沈んでいるはず。今見えているあの太陽は光の残滓。
沈んでいるはずのものが見えているなんて、まるで幻か蜃気楼のよう。なのに誰も不思議とは思わず、普通のこととして捕らえている。そんな事実もまた不思議。
太陽と地球の距離は約一億五千万キロメートル。その間を八分半くらいで進む光のスピードもまた神秘的。
八分半。では一光年とはどのくらいの長さなのだろう?
正確な数字を出すためには『約』一億五千万キロとか、八分半『弱』といった計算をしたところで分かるわけがない。しかし彼女は光が一秒間に地球を七週半することは知っていたし、地球の直径が四万キロだということも知っていた。とすると、四万×七・五=三十万キロということになる。さらに一分間では×六十で千八百万キロということになり、再び×六十で光の時速が分かることになる。×二十四で一日分、×三百六十五で『約』一光年。
一日は正確には二十四時間ではない。そのために四年に一度、四十年に十度、四百年に九十七度の三百六十六日で一年となる、閏年が設けられているのだ。
とりあえず彼女の計算した結果は九兆四千六百八億キロであり、大体の修正を加えると九兆五千億から十兆キロの間だろう。まさに天文学的な数字。それ以上の計算は面倒だ。
日も暮れてきたことだし、店を閉めようと立ち上がり、彼女は店内へ入る。
けれどすぐに鍵を掛けはしない。
電気を点け、ガラス戸を閉めて、半分だけカーテンを開けておく。
奥の座敷に上がり、茶を飲みながらテレビを見る。
落ち着いた気分になってきたせいか、トイレに行って用を済ます。
するとガラス戸を開く音が聞こえてきた。
「よう、婆さん」三十代半ばの男が声をかける。「今日も客は俺、一人だけかい?」
「そうだったかもしれないねぇ」のんびりした口調で彼女は答える。
「そうだったかもって、今日のことすら覚えてないのかよ」男は苦笑する。
「そういや、十五くらいの女の子がさっきまで居たねぇ」
「へえ」男は意外そうな顔をする。「中学か高校か……消しゴムくらいは買ってってくれたのかい?」
「いんや」彼女は首を振った。「膝に乗ってきたから撫でてやったら、ゴロゴロと喉を鳴らしていたよ」
「なんだよ」男は駄菓子をいくつか手にして苦笑する。「いつもの三毛猫のことか。まったく、のんきな婆さんだよ。結局、人間の客は俺だけなんだろう?たまには感謝してもらいたいね」
「鼻ったれた小僧が、良く言うよ。昔はズルしてクジ引きしていた癖に」
「おいおい、二十年以上前の話を持ち出されても困るよ」男は手にした商品を老婆に渡す。
「それにしてもあの猫、まだ元気だったんだな。しばらく残業続きで会えなかったからさ、元気そうな様子聞いて安心したよ」
「あの子は良い子だよ。いつも同じ時間に散歩に来て、同じ時間に帰って行く。本当に頭の良い子」彼女は眼鏡を掛けてソロバンを弾く。「はい、九兆四千五百億円ね」
「今日はやけにケタが高いじゃないか」男は千円札を出し、お釣りを受け取った。「毎日退屈だから、たまには変化でもってわけかい?」
「そんなんじゃないけどね。まあ退屈は退屈だけれども、それなりに楽しいもんなんだよ」
「そんなもんかねぇ。俺も年を取ってくりゃ、分かるようになるのかな」
「さぁねぇ。あんたの性分じゃどうなるか分からないよ」
「人それぞれってわけか。俺もなるべくなら婆さんみたいにイキな老人になりたいよ」
「何だい急に、気持ちの悪い」
「まあそう言うなって。じゃ、また明日な」
男は笑いながら店を出る。
老女は彼の子供だった頃から大人になるまでの姿を思い出し、しばらくその余韻に浸る。
それからガラス戸の鍵を掛けてカーテンを閉めると、店内の電気を消す。
彼女は座敷に戻ると一息つき、茶を啜った。
夏休みが始まって少し経った頃だった。
男女十人の大学生が集まり、河原で花火を楽しんでいた。
夜にも関わらず、ロケット花火を打ち上げ、誰かに火花を向けるという危険行為までしている。どうやら、アルコールが作用しているらしい。
歓声を上げ、近所迷惑もお構いなしといった感じ。
ひと騒ぎが収まると、一群は花火を片付けもせずに輪になって座り込んだ。
何々教授の悪口、誰々講師の気弱さについてなど、内輪だけに通じる話をしては声を張り上げ笑っている。
男性の数は六人。女性は四人。
男は自分に興味を持たせようとして、様々な話題を振り撒ける。
そんな中、一人の女性が思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、この中でお化け屋敷に行ったことある人っている?」
突然の話題転換に戸惑いはしたが、男達はすぐに考えを巡らし、いかに自分が男らしいかをアピールするチャンスだと次々に言い合う。
「お化け屋敷なんて子供だましだろ。人を驚かす装置でしかないじゃないか」
「そうだよな。お化け役なんてやってる奴も、中身はバイトの連中だろ」
「まあね、本当に幽霊なんているわけないし」
「そうそう。結局は人間が一番怖いってことだよ」
「違うのよ」初めにこの話を持ち出した女が言う。「遊園地とかのお化け屋敷じゃなくて、本物よ。この近くに幽霊の出るって噂の学校があるらしいわ。今はもう廃校になっててボロボロらしいけど、本物の心霊スポットに行ったことはあるかって意味で聞いたのよ」
「俺は、無いけどな」
「ぼくも無いね。でも幽霊なんて居ないだろ」
「俺はお化けトンネルに入ったことあるよ」
「あの時はオレと一緒だったな。でも結局は何も起きなかった」
男達はハハハと笑い合った。
「じゃあ、恐くないの?」女は続けて問う。
「当たり前だろ」男たちは強がって見せた。
「――なら、みんなで肝試しする?」髪の短い女が悪ノリして言った。
「あたし怖いわ」一番年下の女が拒否をする。
「あたしも嫌よ、幽霊とか関係無く、夜の学校って雰囲気だけでダメ」眼鏡を掛けた女もそう言った。
「じゃあさ」髪の短い女が手を上げた。「これで調度四対四になるわけだし、ペア組んで入らない?順番ずつに入って出てきて、それから次のペアが入ってくの。そしたらあなたたち二人も他のペアと外で待ってられるから怖くないでしょ」
「待ってるだけなら」年下の女は弱い口調で答える。
「みんなと一緒なら、まあいいかな」眼鏡の女も答えた。
ノリや場の空気のせいとはいえ、不法侵入という言葉は彼らの頭に思い浮かばなかったようだった。
十人は移動しながら適当にペアと順番を決める。
廃校の校門は風化したのか崩れており、既に門の役割を果たしてはいない。
校庭も寒々しく、先には校舎と樹木の影が見えるのみ。雑草が生い茂り、空気の抜けたバレーボールが一つ、闇の隙間に見えているだけだ。
明かりは月光のみ。
突然のことなので、懐中電灯の類は持っていない。
建物の手前、数メートルの場所に立って、やっと校舎の外観が分かる。
ガラスは破れ、窓枠は外れ、一階建ての屋根は不自然に傾斜している。おそらくは重要な柱のうちのどこかが折れて潰れてしまったのだろう。木造の校舎の板と板の間から、何かの植物が生え出している。
「本当に入るの?」眼鏡をかけた女が言う。
「こんな所、昼間入ったって危険だよ。いつ崩れてもおかしくないんじゃない」
「何言ってるの」初めにこの話を持ち出した女が言った。「スリルがあって面白そうじゃない。さあ、入りましょう」
自分が言い出しただけあって、彼女の組が初めに入ることになっていたのだ。ペアになった男は、俺と言う一人称を使い、心霊スポットに行ったことのない男だった。
二人は、ひしゃげた扉の隙間をくぐって中へ入る。
天井に開いた穴からは月の光が射し込み、腐って見る影も無いゲタ箱を照らし出していた。
慎重に間を抜け、二人は敗れた廊下を前にして、まずどこから見ようかと思案していた。
「右の方が潰れてるみたいだけど、ちょっと興味があるわね」女が言った。
「でもライトが無いからね。あっちは光が射さないから何も見えないと思うぜ」男は言う。
「ライターとか持ってないの?」
「タバコ吸わないからね」男は肩をすくめる。
話しているうちに夜目に少し慣れてきた。
二人は入って左側の方へ足を向ける。
「ん?」男は立ち止まる。「何か言った?」
「何も」女は首を振る。「外の人たちの声でも聞こえたのかしら? あたしは気付かなかったけど」
「ああ、そうかもしれないな」
二人は歩みを進める。
左側には職員室があった。
「あんまり面白そうじゃないわね」
そう言いつつも女は戸を開き、覗き込む。
机は乱雑に放置されており、床には何かの用紙が散らばっている。椅子は倒れ、或いはなぜか逆さまになっているものもあった。
反対の部屋には五年一組の表示が、かろうじて読み取れた。
戸は開いており、二人は中に入る。
部屋の荒れ具合は職員室と同様。黒板が傾いており、暴走族の落書きがある点くらいの違いしかない。
女は不満そうに溜息を吐いた。
男はというと、顔に脂汗が浮かんでおり、表情も強張っている。
「どこか面白そうなところはないかしら」女は男の変化に気付かず、好奇心を露にしている。
「理科室のガイコツとかが見たいわ」
二人は廊下へ出る。
「ソクラテスという人はさ」男は不意に言った。「アポロンの託宣によって、最も知恵のある人物とされていたんだ」
「何よ急に」男を見るが暗さのためか、彼の変化は分からない。
「知ってるだろう、ソクラテス。古代ギリシアの哲学者だよ」
「知ってるわよそんなの」女は構わず先に進む。
「ソクラテスは」彼女を追いながらも男は話し続けている。「智を装う他の学者たちに対して、他の人は知っているというが私は何も知らないという有名な言葉を残したよね」
「そうね」女は腐った廊下に気を付けつつ、気の無い返事をする。
「自分は何も知らないということを自覚していて、そのために無自覚な人々と比べて優れているってことだけどさ。確かにその通りだよね。だってその頃の学者たちは現代の学問、たとえば量子力学とか相対性理論なんて知らなかったわけなんだから」
女はもはや男を相手にせず、トイレを見付けてドアを叩き、片っ端から花子さんを呼び続けている。
「今の我々にしてもそうだ」男は懸命に話し続ける。「未来にはどんな発見があるのかなんて知らない。今知っていることなんて、ほんのちっぽけなものかもしれないんだからね。しかし俺は別の見方もあると気付いたんだ。ソクラテスは問答によって他人を真理へと近づけようとした。それはつまり、彼は宗教的な悟りの境地へ辿り着こうとして、できなかった。そのことをして私は何も知らないと言ったのかもしれないってね」
「何それ。次の論文のテーマにでもしようって言うの?」女はすっかり興を削がれた。「もういいわ。出ましょう」
校舎から出てきた二人を、残りのメンバーは質問責めにした。
「何も無かったわ」出てきた女は言う。「ただ荒れているだけ。しかもつまんない話を聞かされて興ざめよ」
「じゃあ、次は俺たちの番だな」お化けトンネルに入ったことのあるといった男が言った。
「いや――」ソクラテスの話をした男がそれを止める。「もうやめようぜ」
「どうしたんだよ急に。怖くなったのか?」止められた男は当てこするように言う。
「実は俺、さ。こいつを襲おうという感情を止めるために必死で理性を保とうと話していたんだよ」
「何それ、最低」ペアを組んでいた女が批難した。
「本当、何考えてんの」「お前、自分の言ってることわかってんのか」「そんな人だと思わなかった」
「違う!そういう意味じゃないんだ」男は必死に説明する。「校舎に入ってから声が聞こえたんだよ。初めは外の声だと思ってたけど、耳元でずっと囁き続けるんだ。校舎を出てからは聞こえなくなったけど、ずっと『殺せ殺せ女を殺せ。柔らかな脳を食らい、骨をしゃぶらせろ。一番うまい心臓を傷付けないよう、首を絞めて殺すんだ。殺せ殺せ殺せ、女を殺せ。肝臓を味わい軟骨のコリコリした感触を楽しみたい。殺せ殺せ殺せ』ってな。頭が変になりそうだったよ!」
話を聞くと、皆は慌てて駆け出し、その場を離れた。
男女十人の大学生が集まり、河原で花火を楽しんでいた。
夜にも関わらず、ロケット花火を打ち上げ、誰かに火花を向けるという危険行為までしている。どうやら、アルコールが作用しているらしい。
歓声を上げ、近所迷惑もお構いなしといった感じ。
ひと騒ぎが収まると、一群は花火を片付けもせずに輪になって座り込んだ。
何々教授の悪口、誰々講師の気弱さについてなど、内輪だけに通じる話をしては声を張り上げ笑っている。
男性の数は六人。女性は四人。
男は自分に興味を持たせようとして、様々な話題を振り撒ける。
そんな中、一人の女性が思い出したように口を開いた。
「そういえばさ、この中でお化け屋敷に行ったことある人っている?」
突然の話題転換に戸惑いはしたが、男達はすぐに考えを巡らし、いかに自分が男らしいかをアピールするチャンスだと次々に言い合う。
「お化け屋敷なんて子供だましだろ。人を驚かす装置でしかないじゃないか」
「そうだよな。お化け役なんてやってる奴も、中身はバイトの連中だろ」
「まあね、本当に幽霊なんているわけないし」
「そうそう。結局は人間が一番怖いってことだよ」
「違うのよ」初めにこの話を持ち出した女が言う。「遊園地とかのお化け屋敷じゃなくて、本物よ。この近くに幽霊の出るって噂の学校があるらしいわ。今はもう廃校になっててボロボロらしいけど、本物の心霊スポットに行ったことはあるかって意味で聞いたのよ」
「俺は、無いけどな」
「ぼくも無いね。でも幽霊なんて居ないだろ」
「俺はお化けトンネルに入ったことあるよ」
「あの時はオレと一緒だったな。でも結局は何も起きなかった」
男達はハハハと笑い合った。
「じゃあ、恐くないの?」女は続けて問う。
「当たり前だろ」男たちは強がって見せた。
「――なら、みんなで肝試しする?」髪の短い女が悪ノリして言った。
「あたし怖いわ」一番年下の女が拒否をする。
「あたしも嫌よ、幽霊とか関係無く、夜の学校って雰囲気だけでダメ」眼鏡を掛けた女もそう言った。
「じゃあさ」髪の短い女が手を上げた。「これで調度四対四になるわけだし、ペア組んで入らない?順番ずつに入って出てきて、それから次のペアが入ってくの。そしたらあなたたち二人も他のペアと外で待ってられるから怖くないでしょ」
「待ってるだけなら」年下の女は弱い口調で答える。
「みんなと一緒なら、まあいいかな」眼鏡の女も答えた。
ノリや場の空気のせいとはいえ、不法侵入という言葉は彼らの頭に思い浮かばなかったようだった。
十人は移動しながら適当にペアと順番を決める。
廃校の校門は風化したのか崩れており、既に門の役割を果たしてはいない。
校庭も寒々しく、先には校舎と樹木の影が見えるのみ。雑草が生い茂り、空気の抜けたバレーボールが一つ、闇の隙間に見えているだけだ。
明かりは月光のみ。
突然のことなので、懐中電灯の類は持っていない。
建物の手前、数メートルの場所に立って、やっと校舎の外観が分かる。
ガラスは破れ、窓枠は外れ、一階建ての屋根は不自然に傾斜している。おそらくは重要な柱のうちのどこかが折れて潰れてしまったのだろう。木造の校舎の板と板の間から、何かの植物が生え出している。
「本当に入るの?」眼鏡をかけた女が言う。
「こんな所、昼間入ったって危険だよ。いつ崩れてもおかしくないんじゃない」
「何言ってるの」初めにこの話を持ち出した女が言った。「スリルがあって面白そうじゃない。さあ、入りましょう」
自分が言い出しただけあって、彼女の組が初めに入ることになっていたのだ。ペアになった男は、俺と言う一人称を使い、心霊スポットに行ったことのない男だった。
二人は、ひしゃげた扉の隙間をくぐって中へ入る。
天井に開いた穴からは月の光が射し込み、腐って見る影も無いゲタ箱を照らし出していた。
慎重に間を抜け、二人は敗れた廊下を前にして、まずどこから見ようかと思案していた。
「右の方が潰れてるみたいだけど、ちょっと興味があるわね」女が言った。
「でもライトが無いからね。あっちは光が射さないから何も見えないと思うぜ」男は言う。
「ライターとか持ってないの?」
「タバコ吸わないからね」男は肩をすくめる。
話しているうちに夜目に少し慣れてきた。
二人は入って左側の方へ足を向ける。
「ん?」男は立ち止まる。「何か言った?」
「何も」女は首を振る。「外の人たちの声でも聞こえたのかしら? あたしは気付かなかったけど」
「ああ、そうかもしれないな」
二人は歩みを進める。
左側には職員室があった。
「あんまり面白そうじゃないわね」
そう言いつつも女は戸を開き、覗き込む。
机は乱雑に放置されており、床には何かの用紙が散らばっている。椅子は倒れ、或いはなぜか逆さまになっているものもあった。
反対の部屋には五年一組の表示が、かろうじて読み取れた。
戸は開いており、二人は中に入る。
部屋の荒れ具合は職員室と同様。黒板が傾いており、暴走族の落書きがある点くらいの違いしかない。
女は不満そうに溜息を吐いた。
男はというと、顔に脂汗が浮かんでおり、表情も強張っている。
「どこか面白そうなところはないかしら」女は男の変化に気付かず、好奇心を露にしている。
「理科室のガイコツとかが見たいわ」
二人は廊下へ出る。
「ソクラテスという人はさ」男は不意に言った。「アポロンの託宣によって、最も知恵のある人物とされていたんだ」
「何よ急に」男を見るが暗さのためか、彼の変化は分からない。
「知ってるだろう、ソクラテス。古代ギリシアの哲学者だよ」
「知ってるわよそんなの」女は構わず先に進む。
「ソクラテスは」彼女を追いながらも男は話し続けている。「智を装う他の学者たちに対して、他の人は知っているというが私は何も知らないという有名な言葉を残したよね」
「そうね」女は腐った廊下に気を付けつつ、気の無い返事をする。
「自分は何も知らないということを自覚していて、そのために無自覚な人々と比べて優れているってことだけどさ。確かにその通りだよね。だってその頃の学者たちは現代の学問、たとえば量子力学とか相対性理論なんて知らなかったわけなんだから」
女はもはや男を相手にせず、トイレを見付けてドアを叩き、片っ端から花子さんを呼び続けている。
「今の我々にしてもそうだ」男は懸命に話し続ける。「未来にはどんな発見があるのかなんて知らない。今知っていることなんて、ほんのちっぽけなものかもしれないんだからね。しかし俺は別の見方もあると気付いたんだ。ソクラテスは問答によって他人を真理へと近づけようとした。それはつまり、彼は宗教的な悟りの境地へ辿り着こうとして、できなかった。そのことをして私は何も知らないと言ったのかもしれないってね」
「何それ。次の論文のテーマにでもしようって言うの?」女はすっかり興を削がれた。「もういいわ。出ましょう」
校舎から出てきた二人を、残りのメンバーは質問責めにした。
「何も無かったわ」出てきた女は言う。「ただ荒れているだけ。しかもつまんない話を聞かされて興ざめよ」
「じゃあ、次は俺たちの番だな」お化けトンネルに入ったことのあるといった男が言った。
「いや――」ソクラテスの話をした男がそれを止める。「もうやめようぜ」
「どうしたんだよ急に。怖くなったのか?」止められた男は当てこするように言う。
「実は俺、さ。こいつを襲おうという感情を止めるために必死で理性を保とうと話していたんだよ」
「何それ、最低」ペアを組んでいた女が批難した。
「本当、何考えてんの」「お前、自分の言ってることわかってんのか」「そんな人だと思わなかった」
「違う!そういう意味じゃないんだ」男は必死に説明する。「校舎に入ってから声が聞こえたんだよ。初めは外の声だと思ってたけど、耳元でずっと囁き続けるんだ。校舎を出てからは聞こえなくなったけど、ずっと『殺せ殺せ女を殺せ。柔らかな脳を食らい、骨をしゃぶらせろ。一番うまい心臓を傷付けないよう、首を絞めて殺すんだ。殺せ殺せ殺せ、女を殺せ。肝臓を味わい軟骨のコリコリした感触を楽しみたい。殺せ殺せ殺せ』ってな。頭が変になりそうだったよ!」
話を聞くと、皆は慌てて駆け出し、その場を離れた。