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空の青さが、やけにムカツク

『揺れるココロ、と高鳴るドウキ』__完全自作の小説・詩・散文サイト。携帯からもどうぞ。
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「ほー。これが伝説の剣か」
 壇上に据え付けられた岩からは、一本の剣が伸びている。
 ぼくはそれを見上げ、思わず先ほどのセリフを口にしたのだ。
 そこはコーンウォールの田舎町で、今夜は見世物の催しが行われるということだった。
 ぼくは昨日、小さなレストランの店主からこの話を聞き、好奇心を抱いて、この会場へとやってきた。
 入口で入場料を払い、つたない英語で係員に今回の目玉は何かと尋ねたところ、伝説の剣がおもしろいようだという答えを得た。
 伝説の剣とは、アーサー王の物語の導入部である。「この剣を抜いた者こそこの国の王とならん」との宣託とともに遣わされた、岩に刺された剣。どんな力自慢でも、それを引き抜くことは出来ず、後に王となるアーサーによって、その白刃は太陽の下に曝されることになるのだ。その剣こそエクスカリバー。この呪術性と独特のアイデアは衝撃的であり、今でもファンタジックな物語の中で使用されている。
 しかし、それはそれ。
 壇上には説明文があり、そこにはこう書かれていた。
「この剣は一定の確率で持ち上げることが出来ます。持ち上げることの出来た幸運な方には素敵なプレゼントを差し上げます」と。
 どのくらいの確率なのだろうかと思っていると、レストランの店主に「よお」と背後から肩を叩かれた。
「こんにちは」ぼくは下手な英語で返事をする。「お店の方はどうしたんですか」
「今日は見世物のせいで客が来ねぇ」店主は肩をすくめてみせる。「だから、今日はさっさと店じまいさ。まぁ、毎年、同じようなものだからな。良い休暇さ」
「そうなのですか」ぼくは言った。
「ところでお前さん、アーサー王の剣を試してみるつもりなのかい?」
「はい」ぼくは係員の言ったことを店主に伝えた。
「リチャードの奴」くっくっくっと店主は笑った。「あいつもなかなかひどい奴だよ」
「どうしてでしょうか?」とぼくは訊いた。
「あの剣はな」この地方独特のイントネーションで店主は話す。「俺も小さい頃から何度も見てきたし、挑戦してもみた。でも、一回も引き抜いた奴なんていないのさ」
「それはもしかして――」
「インチキなんて言うつもりはないけどな」店主はぼくの機先を制した。「子供の遊びとしては充分に良心的な値段だし、残念賞のアメ玉やらガムやらくれる。剣の両脇に立ってる爺さんを見てみろよ。何十年もイギリス中を、これでドサ回りしてるんだ。結構、しんどいと思うぜ。ああいう生き方もな」
 ぼくは言われて、二人の老人を観察した。
 一人は一本も髪の毛がなく、柔和な表情で伝説の剣に挑戦しているブロンドの女の子を見ている。
 女の子の背丈は、剣の柄と同じくらい。引き抜くというより、持ち上げるようにして、柄と刃の間にある――左右の出っ張りを手にして、顔が赤くなるくらいに力を入れていた。
 彼女が諦めると、もう一人の老人が残念賞としてアメ玉を手渡していた。彼の髪の毛は赤く、赤毛連盟が本当にあったら、その会員としてこれ以上、相応しい人はいないのではないかと思うくらいだった。
 彼は女の子の頭をポンポンと優しくなでると、エスコートをする紳士の身振りで送り出し、次の客を迎え入れる。
 その仕草と彼らの雰囲気は、確かに店主の言う通り、人生の大半をこの仕事に費やした者としてのプライドが見て取れた。
「お前さんも、記念に試してみるといい」店主はそう言うと、ポップコーンを売っている店に行って、なにやら話をし始めた。
 実はあのポップコーンのオーナーは、あの店主なのではないかな等と思いながらも、ぼくはひとつ、伝説の剣とやらに挑戦してみようという気持ちになっていた。
 ぼくは階段を上がり、茶色い髪をした男の子の後ろに並んだ。ぼくの順番は三番目だ。
 財布からコインを一枚取り出す。
 回転率が早いのか、すぐに茶色い髪の男の子の番になる。
 男の子はコインを赤毛の老人に渡し、髪のない老人から説明を受ける。
「両足でペダルを踏んで。そうそう。そして引っ張るんだよ」
 男の子はその通りにしたが、剣は引き抜けず、アメ玉をもらって向こうの階段から降りていく。
 ぼくも、さっきの男の子にならって、赤毛の老人にコインを渡し、髪のない老人の説明を受け、ペダルを踏んで剣を引き抜いた。
 そう。引き抜いたのだ。
「あれ?」ぼくは気まずい気分になった。
 思わず剣を岩に刺し戻し、もう一度引っ張ると、剣は抵抗なく引き抜けた。
 恐る恐る二人の老人を見る。
 彼らの顔は真っ赤になっていた。
 相当怒っているのだろう。ぼくは何度もスポスポと刺しては引き抜き、刺しては引き抜いた。
「お……おお」赤毛の老人がぼくに言う。「異国人のあんたが――しかし本物の勇者様とは」
「もしや」髪のない老人が言った。「もしや英国人の血が混じっているのでは?」
「あ、あの」ぼくは言い訳する子供の心境になっていた。「ひいじーちゃんがこの地方の出身らしくてですね、それでこちらを訪れてみようと――」
「なんと」赤毛の老人の目が輝く。「それは本当ですな!?」
「本当です。ごめんなさい」ぼくは謝った。「大切な商売道具を壊してしまって――」
「滅相もない」髪のない老人は平身低頭して言う。「これはまことの伝説の剣なのです。私達はドルイドの末裔。プロテスタントどもに迫害を受け、弾圧されてきたのです。そこで伝説の勇者を再び見出すために、この様な偽装をし、勇者様を探していたのです」
「あの、その、えーと、でも、ぼくが勇者なんて信じられないわけで。確率なんでしょ?ああ、それで、このドッキリが景品の代わりなんですか?驚いたなぁ」
「いえ」ぼくの意見は髪のない老人にキッパリと否定された。「ずっと引き抜かれなかった剣が、確率で、そう何度もスポスポと引き抜けるものでしょうか」
「じゃあ、ペダルの意味は――」
「ですから偽装です」赤毛の老人の目は血走っていた。「処刑されぬよう、中世の先祖達が作った物。案外と、こんな子供だましの方が、凝った偽装よりも見抜かれにくい物のようでして。試しにペダルを踏まずに引き抜いてくださいませ」
 ぼくはペダルから足を離し、柄を指で軽くつまみ、極力持ち上がらないよう注意したが、剣はあっさりと引き抜けた。
「やはり!」「あなたこそ!」
 二人の老人は同時に叫んだ。
 そして何がなんだか分からぬままに壇上から下ろされ、強引に車へ乗せられた。
「あのー、どこへ行くんですか」弱気で尋ねる。
「戦いに」髪のない老人は運転しながら言う。
「誰と戦うんでしょうか」
「もちろん、我々を迫害した者どもへです」赤毛の老人は、老人と思えぬ力でぼくを抑え込んでいる。
「迫害って」ぼくは思い出す。「プロテスタントって言ったら英国正教じゃないですか!」
「そうです」赤毛の老人は言う。「我々は英国軍と戦うのです」
「こんな剣一本で!?」
「勇者の証です」「恐れることはありません」
 理屈は通用しないみたいだった。
 ああ――まったく。この二人は、本気で軍の施設に殴り込むつもりらしい。何てことだ。その時には、首謀者としてではなく、人質として見てくれれば助かるのだけれど。でも、この二人はきっと主張し続けるのだ。「あの方こそが我々を導いて下さる方なのだ」とか。まったく。これから一体どうなってしまうんだろう。
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「何だよテメェ」
 金髪の男、ケンジが短髪で筋肉質な男、タカにそう言うと、上目で睨んだ。
「お前こそ何者だ」タカは動じない。「俺はユミと三年以上付き合ってる。浮気なんだろ、ユミ。魔が刺すってこともあるんだろう。今回だけは許してやってもいい」
 彼の悠然とした態度に、ケンジがキレた。
「こっちはユミと五年以上も付き合ってんだ! 三年だと!? ユミ、どういうことだ」
 ユミは長い髪をくしゃくしゃにしながら、自室のソファで言い訳を考えている。
 まさかケンジがこんな時間にくるなんて、ユミは思ってもいなかった。
 タカは文武両道の理想的な男で、とある大企業で働いている。一方、ケンジは昔から不良の仲間とツルでおり、夜は歓楽街で飲み歩いているはずなのだ。
 昼間はケンジと会い、夜は真面目なタカと会う。これがパターンになっていたのだ。さらに悪いことには、タカは空手の有段者であり、ケンジも不良仲間の間では、腕っぷしが強いと評判なのだ。
 油断大敵とはまさにこのこと。ケンジに今夜は用事があるとメールをしておけばよかった。
「五年だって、それがどうした」タカが言う。「愛の深さは付き合った年月とは関係ないだろう。本当にお前を愛しているなら、俺と付き合うことはなかっただろうよ」
「ふざけるな」ケンジが怒鳴る。「ユミは俺を愛してるんだ。そこにテメェが割って入ってきただけだろうが!今までユミとの間で、別れ話なんて一回も出たこともない」
「お前がキレるのが恐かっただけだろうよ」それからタカはユミに優しい笑顔を見せた。「さあ、今なら俺がいる。恐がらなくていい。こいつと別れるって言ってくれ」
「んだとコラッ」憤りも隠さずにケンジが反発する。「調子に乗ってんじゃねーぞ」
 ケンジはタカの襟元を掴んだ。
 反射的にタカはケンジの腕を捕まえる。
「やめて!」ユミは叫ぶ。少しの恍惚とともに。男二人が自分のために争っているのだ。この私を求めて。「私のためにケンかはしないで」
 静電気が帯電しているような沈黙。
 掴み合う二人の影が、カーテンに映っている。
 一触即発な雰囲気。
「――ユミ」タカが静かに言った。ケンジの腕を離す。「どっちをお前が愛しているのか、それが一番大切なんだ。正直に言ってくれ」
 ケンジもタカから手を離し、真剣な目をしてユミを見つめる。
「正直に……」そんなこと、言えるはずがない。ユミはそう思い、悩んだ。
 タカは質実剛健、会社でもエリートコースを進んでいる。客観的に見て、こちらに付く方が将来性もある。しかし二股がバレてしまった後、今まではわがままを聞いてくれていたが、その態度は変わるだろう。立場が逆転し、束縛されるかもしれない。エリートにありがちなプライドを彼も持っているため、しこりを残してしまうのは確実だ。
 対してケンジの方はというと、こちらには長年付き合ってきた愛着がある。見ていてハラハラする行動も起こすが、そこが逆に魅力的でもあるのだ。彼自身がそもそも何度も浮気をしており、今回の事だって大目に見てくれるかもしれない。さらにいえば、エリートより自分を選んでくれたという事実が、彼の屈折したコンプレックスを満たし、女遊びも少なくなるかもしれないと思える。
「選べないわ」絶叫するようにユミは言った。「どっちも同じくらい愛してるんだもの」
「何言ってんだ!決めろ!」タカの激昂。初めてみる彼の威圧にユミは戸惑うが、彼は気にせず感情に任せた。「諸悪の根源はユミ、お前なんだよ!」
「諸悪の根源……」ケンジがつぶやく。「そうだな、全部ユミのせいだ。こんな女、ボロボロになるまでヤッちまって、捨てればいーんじゃねーの?」
 タカはその言葉にビクリと反応する。が、少し冷静になり、考える。
「え、ちょっと待って、どういうことよ」ユミは時間を稼ぐのに必死だ。「だってケンジにも不満があって、安定性のあるタカと付き合いだしたんだし――」
 ユミが口を滑らせたと気づいた時には遅かった。
「じゃあ、俺は安全牌の代用品ってわけか」タカが言う。
「俺に対して不満があるんだな」ケンジも言った。
「この際だ」タカがケンジに言う。「その話、乗った。未練が残らないよう、二人で思い切りヤろうぜ」
「ああ」
 タカがユミを押し倒し、ケンジがそこに躍り掛かった。

 ――数時間後。
「――失神するなんて初めて」ユミは言う。「凄く、凄く良かったわ」
「うむ」タカは頷く。「こんなに興奮したのは初めてだ」
「俺も俺も」ケンジが同意する。「この際さぁ、三人で付き合うって、どうよ。なんかそれでもいいような気がしてきた」
 タカは一瞬驚くが、少し考えて言う。
「いいかもしれない」
「私も」
 三人は合意し、三人で付き合うようになった。

 ※ これは犯罪です。真似しないで下さい。
   同様に不倫や浮気、二股も人を傷付けます。くれぐれも自制してくださりますように。
  

<続き>
 ぼくたちは命令に従って、一定の時間引き金を引き、一定の時間銃身を冷やす行為を行っていた。
 数を少なく見せ、こちらにおびき寄せるために。
 ぼくは兵士としては新米の部類に入る。さらには一斉射撃であるために、誰の弾が誰に当たったなんてことは、まだ分からない。もちろん、ぼく自身の発射した弾丸の運命も。
 でも、少しだけ手応えというものが分かりかけてきた気がする。
 壁や練習用の的とは違う、明らかな感覚。
 初めて手応えらしきものを感じた時、ぼくはそれを好む人たちと嫌う人たちの二種類の人たちを生み出すものだと、本能的に思った。ぼくは、多分、後者の方だろう。
 指先から腕を伝って背筋を震わすその反応は、無意識の深い部分を刺激する。
 けれどもぼくは、ライフルを射ち続ける。今のぼくは一人の人間ではなく、軍という組織の一部だからだ。でも、敵が逃げてくる頃には、ぼくはぼくのために射つだろう。殺されないために殺す。数千万年前の人類。いや、数億年前の恐竜時代、もしかすると、そのずっと前から続いてきた、戦場ではありふれた出来事だ。
 作戦通り、武装勢力は追い詰められ、拠点から逃げ出し始めた。その人数は増えていく。
 ぼくたちの本格的な出番。
 バックパックからサブマシンガンを手にして装備を変える。
 逃げてくる敵に、銃弾を浴びせた。
 彼らは倒れ傷付き死に、時に迷って後退するも本隊から攻められこちらへ逃げる。
 背丈ほどの草葉が舞い、飛び散り、炎に燻り焦げていく。
 緑の匂いが一層濃くなり、そこへ硝煙と、迫り来る血の匂いが混じる。高揚と恐怖とのバランスが入り乱れ、草地だった空間が瞬く間に戦場へと化す。
 小道を逸れ、草葉の中に逃げ込む敵も現れた。
 しかしそう簡単には逃げられない。葉先の揺れは人の位置を知らせてくれるし、ぼくたちは小道と垂直に隊列を展開しているのだから。
 道の反対に逃げても同じこと。
 反対で待ち伏せているぼくたちの仲間が、順調に敵を要撃しているようだった。
 それでもやはり、射ち漏らしは出てくる。
 ぼくたちの分隊は、射ち漏らした敵を追撃する指令を受けた。
 ぼくたちの分隊は、分隊長を始めとして、ぼく、それから相部屋の彼、日に焼けて浅黒い肌をした男の四人のメンバーだ。
 慎重に慎重を重ね、ぼくたちは戦線から別れて草地を歩く。
 スコールのせいか、元から湿地帯だったのか分からないけれど、とにかく歩きにくい土の上を、大きな葉を掻き分けながら進んで行く。
 草葉が不自然に倒れ、細々と続く逃走者の跡を見つける。ぼくたちは腰だめに構えたサブマシンガンを掃射した。
 注意深く進むと、全身から血を流した男の死体を見つけた。
「なんだ、同じじゃないか」ぼくは相部屋の彼に囁いた。「結局敵の死体を見ることになる」
「当たり前だろ、戦争なんだ」彼は言った。「奇襲した部隊なんて、それこそ昔よりも悲惨な光景を見たかもしれないぜ」
 ぼくは振り返り、拠点のあった方角を見た。
 確かにそうかもしれない。
 槍や刀で斬られるよりも、火力の強い銃で手足を千切られミンチになる、そんな敵を何人も踏みつけ押し進まなければ殺されるのはこっちなんだ。
「おい」分隊長の声が聞こえた。「何をぼんやり突っ立ってんだ。危ないぜ」
 慌てて体制を低くしようとしたぼくの頭に、強く大きな衝撃が走った。思わず死んでしまったのではないかと感じるくらいに。
 分隊のメンバーが駆け寄ってくるのが分かった。
 見えたのではない。でも、ぼくには分かったのだ。
「畜生! あの野郎!」誰かが叫び、銃を射つ。
「大丈夫か」分隊長の声が聞こえる。
 ええ。大丈夫ですよ。そう答えたはずなのに、分隊長は何度も問いかけてくる。
 起き上がろうとして、体が動かないことに気が付いた。
「ヘルメットに穴が」「外せ外せ」「これは――」「貫通してない、盲管銃創だ」「おい、衛生兵を呼べ! 衛生兵だ!」「大丈夫か、返事をしろ」「喋れないなら合図をしてくれ!」「心臓は動いてるんだ」「おい――おい――」「脳の傷は厄介だぞ、回復しても障害が残るかもしれない」「開頭手術をしなくては――」「なら、してくれよ」「こんな場所で、できるわけがないでしょうが!」「どれくらいの後遺症が残るかも分かりません」「だったら早く病院へ」「意識はあるのか」「脳波チェックをしてみなければ――」

 すべての会話が、ぼくには聞こえている。単語も分かる。でも文章として何を言っているのかは分からなかった。まるで森で射たれた少年兵の異言語のように。
 ぼくは十字架に手を伸ばそうとしていたけれど、とうとう諦めた。

「おい、死ぬな!」「生きてメダルをもらうんだ、名誉の負傷だぞ」「そうだ、勲章がもらえるぞ」「生きて、また俺たちに見せてくれ」

 夢も見ずに眠っていたようだ。
 いつの間にか、銃声のしない、静かな場所に移されている。
 それにしても、ぼくに声をかけるのは誰なのだろう。何を言っているのだろう?
 聞き覚えのある声がするけれど、単語の意味も、もう少しゆっくり話してくれれば分かるような気がするけれど。
 それにしても、ぼくは思った。なんて真っ白い場所なんだろう。
 いや、違う。
 真っ白いのはダンスなんだ。彼女は美しく真っ白なダンスを踊りながら、氷った運河を渡って行く。彼女の足元からは長いコンパスのような影が伸びている。
「ここは誰?」ぼくは訊いた。「君は誰?」「ここも私もあなたなのよ」彼女は笑って答えてくれた。「あなたは行かなくちゃならないわ。太陽の沈む、その前に」
「どこに行くって?」ぼくは思い出した。「大学を辞める前に、日本へ留学しに行ったことがあったな」
 留学先の東京で知り合った日本人の友達は、ぼくにいろんな日本のことわざを教えてくれた。
 ぼくは今、その時のお寺の前に居る。
 思い出? いや。これは現実だろう。
「日本のことわざの一つに『仏の顔も三度まで』っていうのがあるんだよ」彼はそう言って笑った。「同じ間違いを二回までは許してくれるけど、三回間違えると、お釈迦様でも怒っちゃうって意味だったかな? ま、何にせよお釈迦様も悟りを開いた割には短気だよね。二回までしか許してくれないんだからさ」
「二回も許してくれるんですか」ぼくは驚いた。
「二回“も”ってのはどういうことだい?キリスト教の神様はなんでも許してくれるんだろう?」
「キリスト教の神様は一度の間違いすら許してくれないこともあります。間違い――いいえ、罪深いことを思っただけでも懺悔しなくてはなりません。実行していなくてもです。代わりにすべてを告白し、赦しを求めると、神様は赦して下さいます」
「神様も仏様も懐が深いんだか浅いんだか分かりゃしないね」
 友達がそう言った時、一人の僧侶が声を掛けてきた。
「失礼ですが、その解釈は間違っていると言わせて頂きたい所ですね」
「どう違うのですか」ぼくは尋ねた。
「私的な意見なのですが」僧侶はそう断わってから話を始めた。「人は間違いを犯す生き物です。だから仏様も二度までの間違いは許す。しかし三度目となれば、それは心の弛みが原因です。人が悟りに至るためには、心が弛んでいたりしてはいけません。そこで仏様もお叱りになる。ということだと思いますよ」

「おお、我が息子よ。突然に大学を辞め、どうしているのかと思っていたら、軍に入隊などして、こんな目に」「脳波のチェックによりますと、わずかながらに意識のようなものがあるようでして」「隊長、十字架を知りませんか。私は相部屋だったので、彼が毎晩十字架を握り締め、祈りを続けていたことを知っているのです。せめて本国に帰る前に、その十字架を探し出して頂けませんか」「早く衛生兵を呼ぶんだ!」「この角度ですと、右脳と左脳とを結ぶ脳梁を中心にして、ダメージを受けていると思われます」「そんなはずはない! どこかに十字架が置いてあるはずだ!」「えー、このような形での叙勲式は、ご両親のみならず我々にとっても大変に心苦しいものなのですが」「どうしてこんなことになってしまったの――ああ!」「生きて帰れただけでも良かったと考えるしかなさそうだな」

「外がうるさいよ。なんだか懐かしい気もするけど、同時にめちゃくちゃな感じがするんだ」
 透明な部屋で、ぼくは言った。
 中も外も透明。
 すべてが透明。
 もちろん、僕自身も透明だ。
 相手も透明だから、本当に、そこへ誰かが居るかも分からない。
「ぼくには目的があったような気がするんだ」もしかしたら誰も居ないのかもしれないけれど、ぼくは語り続ける。「そう。目的。目的なんだよ。それが思い出せればな。そしたらどんなに幸せな気分になるだろう」ぼくは不意に、目的とは関係のない想い出を思い出した。透明な顔だけど、透明な笑顔を作ることはできる。「幼稚園の時にさ、教室の中に大きな蟻が飛んできたんだ。ひらひらと舞って、皆大騒ぎさ。先生の話もおもちゃも放っておいて、皆で蝶を掴まえようとしたんだ。だけど誰も捕まえることができなかったんだよ。ほら、蝶の動きっていうのは不規則だからね。皆一生懸命だった。でも掴まえられなかったのさ。誰にも捕まえることはできなかったんだ。こんな話は退屈かい? でもね、ぼくにとっては大切な想い出の一つなんだ。他愛のない話だけれどね。本当に、大切な想い出の一つなんだよ」
 透明な涙が、透明な瞳から溢れ、透明な頬を伝って、透明な空間を流れ、透明な床に落ちる。
 まぶしすぎて、すべてが透明に見えているのかもしれないな。
 そんなふうに思い、ぼくは目的のことを思い出した。
「そうだ。ぼくは行かなくっちゃならなかったんだよ。そうだ。うん。そうなんだ」どこへ行くべきなのかは分からなかったが、その衝動は、ぼくの中で大きく膨らみ続けた。「行かなくちゃ。太陽が雲に隠れる、その前に」
 ぼくは立ち上がり、透明な壁をすり抜け歩き出した。
 いや。本当は歩いているのか走っているのか分からない。
 それどころか本当に立ち上がったのか、本当に移動しているのかすらも分からない。
 すべてが透明すぎて、何も分からない世界だから。
 けれども行かなくちゃ。
 その先に、きっとぼくの求める透明な何かがあるはずなのだから。
 どこまでも、この世界の。
 いつまでも、この世界と。
 果てしない、この世界で。
 求め続ける、この世界へ。
 なにもない、この世界を。
 滅びるまで、この世界に。


  

 戦闘前夜。
 与えられた兵舎の一室で、ぼくは一人、考えていた。
 不意に室内の明かりが瞬き、黒々とした闇を追い出していく。しかし重たい空気は変わらない。
「どうした、こんな暗いところで考え込んでちゃ、体にも心にも良くないぜ」
 電気を点けた、相部屋の兵士が言う。
「それは分かってるつもりなんだけれどもね」ぼくは十字架を握り締めていた手を開き、手汗にまみれたそれを首にかけた。胸元で、銀色の十字架が鈍く光る。「どうしても考えずにはいられないんだ」
「何を考えてる」彼は自分のベッドに腰掛けた。「話して楽になるようなものだったら聞いてやるぜ」
「うん」ぼくは躊躇いながらも話せずにはいられない気持ちだった。そういう気分だったのだ。「帰還兵が、ある種のPTSDになるっていわれだしたのは、湾岸戦争の辺りだったよな」
「ああ」彼はちょっと嫌そうな顔をした。当然だ。これは不吉な話なのだから。「だけどさ、ベトナム戦争の帰還兵だって、色々問題あったじゃないか。あれだって同じようなもんだぜ」
「うん」不吉な話にもかかわらず、相手をしてくれる彼の優しさが、心に染みた。「でも、そのずっと昔はどうだったんだろうって思ってたんだ。古代ギリシャローマから中世までの戦士たちってのは、ほとんどが農民や一般市民だったわけだろ。彼らも同じように心に傷を受けたのか、それとも戦争は生活の一部みたいに平気で受け止められたのかなってね」
「中世には傭兵がいたから事情は違うかもしれない。彼らは金のために働いてたんだからな。ある戦いでは傭兵が皆手抜きして、両方の死者が合わせて一人しか出なかったって話もあるくらいさ」彼は肩をすくめて見せる。しかしぼくの表情が変わらないことに気付くと、咳払いをして付け加えた。「ま、命を張ってるっていうプライドもあっただろうしな。それで騎士道精神なんてのも生まれたわけだ。でも、古代になると話は別かな。皆の生活がかかってる。守る方も必死だし、攻める方も必要に責められてのことだろう。外交の最後の手段。今も昔も同じことさ。だが今との違いは、生活が貧しくて、そんなことに悩む暇もなかったってことじゃないかな」
「だけど、昔は槍で刺し、刀で叩き殺していたんだぜ。目の前の敵の顔を見ながら血を流し合って、殺して殺されて傷を受ける。目の前でだ。今ではそんな生々しい戦いなんてない。相手の顔も見えず、仲間の血や負傷や――」ぼくは口を噤んだ。
 これ以上言うべきではない。
 胸元の十字架を握り締める。
「あ、それが答えなんじゃないのかな」彼は気にせず話し続ける。
「え」ぼくは思わず問い返す。
「だからさ、戦争の仕方が変わったことも、PTSDの引き金になってるんじゃないのかってことさ。それは戦略や戦術の違いもあるだろうけど、一番大きいのは仲間の惨劇だけを見つづけさせられてしまうってことだ。近接戦闘なら敵の血や死も見られる。そこで精神のバランスが取れてたのかもしれないな」
「なるほど」意外な言葉に、ぼくは納得させられた。
「ま、一概には言えんがな」彼はベッドに横たわった。「ナーバスになりすぎるなよ」
「ああ」
 強風が窓ガラスに吹き付ける。
 アルミのサッシは振動して音をたてる。
 外を見ようとするが、そこにはぼくの顔が映っていた。厳しい表情。
 ぼくは自分の影を追いやるように目を凝らす。
 月も、星も出ていない。
「ナーバスになりすぎるなよ」もう一度、彼は言った。
 ぼくは振り向く。
 彼は背中をこちらに向けていたため、その表情を見ることは出来なかった。
 けれど。
「大切なことなんだよ」背中越しの声。
 けれどぼくには、彼の真剣さを感じ取ることが出来た。
「ありがとう」
 礼を言うと、ぼくは再び外を見る。
 黒い砂丘は黒い雲と同化してしまっているのか、空と地平の区別が出来ない。
「明日は雨かな」ぼくはつぶやく。
 答えの代わりに、寝息が聞こえてきた。
 今、この地域は雨季に入っている。天候を気にしても仕方がない。一日に最低一回はスコールが降るのだ。
 彼と話して、少しはリラックスできたようだ。掌に痛みを感じ、握っていた十字架を離す。指先に、角張った十字架の跡がついていた。
 ゆっくりと消えていく、その跡を見ながら、彼の忠告を心にしまう。
 ぼくは彼を起こさぬように注意してカーテンを閉め、彼の点けた電気を消した。
 そして静かにベッドへ戻って潜りこみ、深い眠りの中へと落ちていった。

 翌日早朝。
 ぼくたちの分隊は、一個大隊の中に混じり、岩盤の多い地方へ向かって進軍していた。
 今回の作戦は武装勢力の拠点を三方から攻め込むために、一個連隊を三つの大隊に分け、制圧することになっている。
 四十キロのバックパックを背負い、肩からライフルを下げ、ベルトにも拳銃や水筒を吊り下げている。若い女性を背負っているようなものだ。
 ぼくたちは指揮官の下、黙々と指示された地点へと歩いていく。正面から攻める大隊を斜め後方から援護攻撃をすると共に、退路を断つ役割も担っている。残りの一個大隊は、途中まで一緒だったが、Bポイントで別れた。彼らも斜め後ろから攻撃するが、その隊こそが本隊の精鋭たちだ。
 正面から攻める大隊は陽動。その隙に本隊が奇襲をかけ、ぼくたちの隊が止めを刺すということになる。
 ぼくたちの隊は、武装勢力の拠点を中心にして、反時計回りに移動している。正面から攻める隊を十二時の方向にしたとすると、本隊は八時の方向、ぼくたちは四時の方向ということになる。ぼくたちの基地から最も遠いポイントだ。
 ポツリポツリと降り始めた雨は、時間を早送りしたみたいに、いきなりの豪雨となる。
 雨はヘルメットから滴り視界を狭め、軍服を濡らして襟元から体を這い伝い体温を急速に奪っていく。
 さらに厄介なことには、雨のせいで砂は泥濘化して足に絡みつき、岩石の表面はつるつるとして滑りやすくなってしまう。
 予想されていたこととはいえ、これだから嫌になってしまう。
 まったく、何度経験してもスコールに慣れる気なんて、少しも起きない。
 それでもぼくたちは岩陰を歩き、どろどろした土を踏む。
 陽動も奇襲も危険で大事な仕事だが、退路を断つことほど危険で重要な任務はない。
 相手は、それこそ死に物狂いに必死で逃げてくるのだ。
 生き残るために。
 生き延びて家族と手を取り、再びぼくたちを殺そうとするために。
 ぼくたちは敵の逃走をなんとしてでも阻止しなければならない。そのためにはタイミングも大切だ。遅れるのはもちろんのことだが早すぎてもいけない。奇襲の妨げになってしまうからだ。
 陽動→奇襲→止め。
 この順番が肝要なのだ。
 ちょうどベースボールで、二→四→六とゲッツーを取るみたいに。
 不意に、そして必然的に、スコールはピタリと止んだ。あまりにも突然すぎて、ぼくに子供の頃の記憶を想起させた。
 デパートで、迷子になったと知った瞬間の、置いてきぼりにされたような初めての孤独。
 だから、ぼくはスコールが嫌いなんだ。
 とても車では進めないような岩場と砂の混じった道なき道を抜けると、二百メートルほど先に森が見えた。
 森と、ぼくたちの大隊の間には障害物など一切ない。
 こういう場所が、一番危険なのだ。
 敵からはこちらが丸見えで、こちらからは森に隠れた敵が見えない。それは皆が心得ている。指揮官は、どこかの一小隊を斥候に行かせることにした。
 彼ら八人の小隊は、ゆっくりと慎重にマシンガンを構えて進む。
 二十メートルほど進むと、タタタタタと旧式型のライフル銃の音が響いた。
 八人は一斉に、パッと倒れる。
 いや、違う。
 弾丸は地面に、まだらな穴を開けただけだ。
 彼らは反射的に身を伏せ、銃声のした方へバララララッとマシンガンを射ち放った。
 悲鳴が聞こえ、森は沈黙したように静かになった。
 小隊はもう一度掃射すると、注意深く森へ近付き、入って行く。
 大事の前の小事も疎かにはできない。敵がこちらの動きを探し、拠点へ情報を流してしまっては制圧が難しくなってしまう。
 森の中の草葉が揺れている。
 無線から小隊長の声が聞こえてくる。
「大丈夫です。歩哨ではないようです。敵は子供一人。この辺をうろついていただけのようです。問題はありません」
 武装勢力の少年兵たちは、功を焦り通信機器を持たずに徘徊しているのだ。
 射たれたのが子供だと聞き、ホッとした自分に、ぼくは吐き気を催した。胃からせり上げてくる胃液を、ぼくは強引に押しとどめる。食道まで上がってきた胃酸が、胸焼けとなって体に広がる。
 けれど、これは仕方の無いことなのだ。ぼくは自分に言い聞かせる。この相手が大人で、遊撃隊だった場合にはさらに酷い状況に陥ることになってしまうのだ。彼らは仲間を呼び寄せ、木立に隠れ、ゲリラ戦を仕掛けてくることになっただろう。そうなっていたら、物量でこちらが勝ってるとはいえ、時間をロスし、情報が流され作戦にも影響が出てくるのだから。そして、
 そしてゲリラ戦自体が恐ろしいのだ。ぼくたちの精神を消耗させ、疲弊されてしまう。一番怖いのはこの部分。ゲリラ戦での精神的疲労は並大抵のものではない。先行する隊列をやりすごし、挟撃を仕掛ける。そうして部隊は分断され、散り散りになってしまう。もちろん対応するべき訓練は受けているけれど、実践と訓練とでは恐怖感も孤独感も虚無感も段違いのレベルなのだから。
「了解。では本隊も進行を再開する」大隊長の声が無線を通して全員に伝えられた。
「しかし大尉殿」斥候した小隊長の声だ。「この子供は息があります。いかが致しましょうか」
「傷の具合はどうだ」大隊長は冷静に尋ねる。
「はい。命に別状はない様子ですが腹部からの出血が治まりません」
「分かった。衛生兵を一人送ろう。君たち小隊は分隊に別け、一チームを衛生兵の護衛として基地まで帰還しろ。残りは衛生兵が到着次第、本隊に合流するように」
「了解しました」
 そうしてぼくたちは、森へ向けての進軍を開始した。
 スコールの残した水たまりを踏みにじり、ぼくたちは樹々の中へと入って行く。
 少年兵が死んでいなかったことは、ぼくにとって一種の救いであったような気がしていた。隊は少年兵の脇を通っていく。少年兵は衛生兵の処置を受けまいと、この地方独特の異言語で語気を荒げている。罵声だか怒号だか意味は分からなかったけれど、それは異教徒の呪いの文句のように聞こえた。
 ぼくはネックレスを、そっと触った。そこにちゃんと十字架があるかどうか確かめるみたいに。
 銀の十字架は硬質で、存在感を主張するように、しっかりと胸元にあった。
 森の奥の小道が見えてくる。
 ぼくは時計を見た。
 Cポイント。予定より早く、ぼくたちは待機地点に辿り着いた。
 大隊長は中隊長や小隊長を集め、細々とした打ち合わせをした。
 大隊は二つに別けられ、小道を挟んで森のこちら側とあちら側に配置されるみたいだった。
 その間、ぼくたち兵卒は、しばしの休憩を味わっていた。
「よ、疲れたか」相部屋の男はぼくの顔を見つけて声をかけてきた。
「ああ。疲れたよ。だけどそんなの、いつものことじゃないか」
「確かにな」彼は苦笑した。「俺たちの分隊は、森の向こう側になるらしい」
「了解」ぼくは言って、水を飲んだ。
 休憩が終わり、ぼくたちは小道を横切り、そこからさらに移動した。これは道を挟んで攻撃するため、見方同士、相打ちにならないよう角度を付けるための移動。ぼくたちの方が武装勢力の拠点に近く、ぼくたちの射ち逃した敵を後方の部分がカバーするという役割としても機能する。
 ぼくたちは背丈より高い草に紛れ込んでいる。敵の拠点が、その隙間から下方向に朧に見えた。
 スコールの影響が残っているせいか、匂いたつ草いきれは、まるでぶ厚いベールのようで息苦しい。
 亜熱帯の森林特有の息苦しさの中で待機をし続けていると、ロケット砲の炸裂する音が聞こえてきた。
 よく見ると、戦闘はすでに始まり、陽動部隊の姿が見える。
 音速の限界。
 準備のために目を閉じる。
 続いて銃声が激しく轟く。
 それからしばらくして、ぼくには分からない例の異言語の叫び声が聞こえてきた。
 きっと、奇襲作戦が成功したのだろう。
 次は、ぼくたちの番だ。
 攻撃の指令。
 ぼくは目を開いてライフルを構えると、窓ガラスやカーテンの隙間から見える敵に向けて狙撃した。

<続く>
  

 青年はふと、人間が何日も寝ないと幻覚を見たり死んだりするとかいう話を思い出した。
 けれどもそれは本当だろうか。詳しくは知らないけれど、ギネスの記録もあったはず。
 長い大学の夏休み。バイトをするわけでもなく、郷里へ帰る金もなく、青年はぼんやりとした毎日をアパートの一室で過していた。
 ギネスに挑戦するつもりはないが、眠らないと、どんな幻覚が見えるのだろうかと青年は好奇心を抱いた。
「ひとつ試してみるか」
 青年はつぶやき、時計を見る。
 時間は午後の四時。
 今日は十二時くらいに目が覚めたから、まだ四時間しか経っていないことになる。
 丸々五日間も起きていられたら、幻覚も見られるんじゃないだろうか。
 青年は勝手にそう思い、少しわくわくしてきた。
 しかし睡魔と戦うのは困難だ。何か方策を考えなければならないだろう。
 しかし考えすぎて、脳を疲労させては眠気に負ける。
 青年は一夜漬けに失敗して、第一志望の大学を落ちたことを思い出す。
 今から思えば、あの時から青年の目標というか、やる気を失ってしまったように感じられる。夏休みをダラダラと過しているのはそのせいだろう。
 いやいや、そんなことを考えていたって、どうしようもない。過去は取り戻すことなんて出来ないのだ。
 青年は、頭の中から嫌な問題を追い払うように頭を振る。
「幻覚って、どんなものなのだろう」青年は後悔を期待へ変えようとして、そう言った。
「寝ている間に見る夢のようなものだろうか。でも、それだけじゃあ、ちょっとつまらないかな。何か意外性が欲しいところだ」
 とりあえず、青年はテレビを点けることにした。
 笑い声の騒がしいバラエティ番組を選んで、時間を潰す。
 テレビ局も、いろいろな仕掛けを作るものだな、などと感心しているうちに腹が減り、ピザのデリバリーを注文する。
 ピザが届き、青年はその中の一切れを手にして、ハタと気付く。
 満腹してはいけない。眠気を引き起こしてしまう。
 このピザ一枚で二日保たせよう。
 青年は決断した。
 夕は夜となり深夜となる。
 深夜番組でも、芸人たちは元気に笑いをとっている。収録番組だから当たり前だが、青年にはとてもありがたかった。もっとも、最近の生活は夜型になっていたので、眠気はまだ少ないのだが。
 そして夜は明ける。
 睡魔は五時に牙を剥いた。
 青年は側頭部を叩いたり、冷たいシャワーを浴びて凌ぐ。腹が減ったので、ピザを少し食べた。
 まだ二十四時間経っていないのに、この眠気。テレビはニュースの時間に入り、睡魔を誘発する敵へと変貌している。
 このままでは駄目だ。
 青年はテレビを消し、何か睡魔を追い払う道具はないかと部屋中を探す。そして、安全ピンを見つけた。
 眠りそうになるたびに、これでチクリとすれば良いだろう。
 そう考えたのだ。
 午前の間をそれで乗り切り、やっと二十四時間が経過する。
 ピザを食べ、昼食を済ます。
 時間は緩慢に流れ、あくびが増え、ピンを刺す回数も増える。
 午後となり、夕方、夜、深夜、早朝、午前、昼。
 とうとう三日目に突入し、ピザもなくなるが、幻の見える気配は一つもない。
 青年は、自分の行為を馬鹿らしく思いつつも、意固地になっていた。
 ズボンの太股やシャツの肩が、安全ピンで刺した傷からの出血で、まだらに赤黒くなっている。
 まるで農耕機のようにプスプスと腕を刺すが、痛みに慣れてきたのか、感覚が麻痺している。鈍った頭は、それでも起き続ける対策を練り始める。
「そういや何かで見たな」濁った目をして青年はつぶやく。「爪と指の間に針を刺す拷問。――試してみるかな」
 青年は、それを実行した。
 眠気のため、力の加減が分からない。
 いきなり人差し指と爪の間に、ピンの根元まで差し込んだ。
 爪を通り抜けて、指の肉から顔を出すピンの針。
 青年は悲鳴を上げた。
 痛みというより、炎に炙られたような熱さ。
 汗腺が開き、全身をべっとりとした汗が包む。
 けれど睡魔は一気に吹き飛んだ。
 これはいけると青年は思い、睡魔に襲われるたびに、指の肉から見えるピン先を支点にして、左右に安全なはずのピンを動かす。
 痛みと眠気に耐えながら動かしている間に、人差し指の爪が剥がれた。
 青年はためらいなく中指にピンを突き刺し、眠気を遠ざけるために左右に動かし、爪と指の隙間を広げる。
 安全ピンは、滴る血液でぬらぬらと滑り、必要以上に傷を広げた。
 やがて中指の爪もポトリと落ち、次に薬指の爪が餌食とされた。
 時間は六時を指しているが、朝方なのか夕方なのか青年には区別ができない。今日で何日目なのかすら分からなくなっている。
 薬指と小指の爪が取れ、親指の爪も七分ほど取れかけた時、青年はやっと、念願の幻覚を見ることができた。爪を失った指先から、小さな花が咲いている。
 でも――青年は思う――今見ている幻覚は寝ていないせいなのか、それとも痛みのせいなのだろうか? もしかしたら、その両方かもしれない――いや、違う。
「なんてことだ」青年は笑顔で、落ちている爪を拾いながら落涙する。「俺は気が狂っちまったらしいや」
  

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