夏毛の生える季節、私はゴールデンレトリバーの体にクシを入れた。
トリマーという職業を選んだのは、動物が好きだから、なんて理由ではない。これからはペット産業の時代だと気づいたから。
金に茶色の混じったこの犬は、少し毛並みが悪い。けれど私は飼い主に向かって「良い毛並みの犬ですね」なんて、適当なことを言う。
所詮、接客業。犬よりも飼い主のご機嫌窺い。
足下に犬の冬毛が溜まる。
犬は呑気そうに舌を出し、こちらを見ている。
ショウウィンドウから見えるウェディングドレス。
あたしは足を止め、思わず魅入られた。
このレイアウトは、あの人のやり方。
━━裏切り者。
あたしはハイヒールを脱いでガラスに叩きつけたい衝動に襲われた。
けれど、我慢する。
あたしはきちんとした社会人なのだ。
あいつとは違う。
ショウウィンドウに背を向けて、あたしは待ち合わせ場所へと足を運んだ。
雨。
道路の両脇に規則正しく樹樹が並んでいる。
黒く濡れたアスファルト。
ところどころにできる水溜まり。
緑化政策のために植えられた樹には、車の跳ねる飛沫のせいで、ゴミやホコリが張りついている。
風が吹いて、枝葉が揺れる。
零れる雫が、濁って見える。
清潔なデスクに、彼女はコトリと眼鏡を置いた。
ため息がひとつ。
━━最近、疲れている。
自覚はしていても、今は無理をしなければならない。
目頭を押さえ、軽くマッサージをする。
ささやかな至福。
時時、なんのために頑張っているのかと、目的を見失いそうになる。
先のこと以前に、今の状況すら分からないのに。
この仕事が自分に向いているとは思わない。
今を乗り越えた先に、なにがあるというのか。
ただ、今を必死に生きている。
彼女はコメカミを揉み、眼鏡をかける。
不安はよぎるが、今は仕方がない。
皆、こうなんだろう。
ただただ、必死に生きているのだ。
必死に生きる、その言葉の矛盾性に苦笑しつつ、彼女は仕事モードに頭を切り換える。
老紳士はルノアールの画集を見ていた。
静謐な図書館。
彼は杖を支点に椅子から立ち上がると画集を棚に戻し、ダリの画集を手に取った。
椅子に座り、ランダムにページをめくる。
溶けた時計、足の伸びた駱駝。
ほとんどの人がダリの絵画としてイメージする物がそこにあった。
老紳士は、ふと思い立ち、ピカソと岡本太郎の画集を取った。
所詮は暇潰し。
何も考えずにぼんやり眺める。
ゲルニカ、縄文と炎の息吹き。
老紳士は思った。
岡本太郎が、一番素敵だ。
プードルのトリミングをしている時、客からの注文が入った。
白い毛色をピンクに染めてほしいと。
他人のペットだし、犬自身がどう感じるかは知らないけれど、少なくとも私は悪趣味だなと思った。
でも、これは仕事。
客への軽蔑の念を隠し、毛を染める準備をする。
これで少しでも売り上げが上がるのだから。
眼鏡の彼女は、仕事を続けている。
他のことなど一切考えず、昼食すら摂るのも忘れて。
生きるために健康を犠牲にし、仕事のために私事を封印し、今の生活レベルを維持し、あわよくばそのレベルを上げようとするため、彼女は仕事に生きている。
結婚の二文字は頭に無い。
余裕が無いのか関心が無いのか。その両方か。
ただひとつだけ確実に言えること、それは彼女が真面目に真剣に、そして必死に生きているということだけだ。
狭い箱。
白い光。
クリーム色の壁には半透明のプラスチックパネル。
……ぼくは今、どこに居る?
白い、蒼白い人工的な光。
━━痛み。
肺から込み上げる重苦しい塊。
ああ、そうか。
ここは病院内のエレベーター。
噎せて苦しみ、ぼくは吐血した。
抑えた手が、視界が、服が血に染まる。
壁やパネル、床に血の滴。
エレベーターの中に充満する血の臭い。
その臭いは院内に漂う薬品の臭いに混じって━━
━━酷く気持ちが悪くなった。
打ち合わせ中にも関わらず、あたしの頭にはショウウィンドウの映像が焼きついて離れない。
合同出資して作り上げた会社の名義を、こっそり変更してあたしを追い出した男。
━━いつか、見返してやる。
その思いは意識下に常駐している。
不況のあおりを受け、あいつの会社は経営が厳しいようだ。あたしの個人事務所の方が今では順調だ。
けれどそんなことで、あたしは彼を許すことはない。
あたしはあいつを、憎んでいる。
お婆さんが卓球をしている。
そのスポーツ施設の外では、老人たちがゲートボールを楽しんでいる。
みな、持病はあるが、それなりに健康だ。
孫を連れて来ている老人もいる。
故障で停まったエレベーターの中で、気を失いそうになりながらも、ぼくは辛うじて意識を保っている。
不思議な気持ちだ。
楽観も悲観もしていない。
自分病状や、今置かれている状況に、まったくと言って良いほど関心がないのだ。
諦めとも違う。
悟りとも違う。
沸き上がる感情。
爆発する奔流。
「フフフ、ハハハ、ハハハハハハハッ」
狭い箱の中、ぼくは笑った。
トリマーという職業を選んだのは、動物が好きだから、なんて理由ではない。これからはペット産業の時代だと気づいたから。
金に茶色の混じったこの犬は、少し毛並みが悪い。けれど私は飼い主に向かって「良い毛並みの犬ですね」なんて、適当なことを言う。
所詮、接客業。犬よりも飼い主のご機嫌窺い。
足下に犬の冬毛が溜まる。
犬は呑気そうに舌を出し、こちらを見ている。
ショウウィンドウから見えるウェディングドレス。
あたしは足を止め、思わず魅入られた。
このレイアウトは、あの人のやり方。
━━裏切り者。
あたしはハイヒールを脱いでガラスに叩きつけたい衝動に襲われた。
けれど、我慢する。
あたしはきちんとした社会人なのだ。
あいつとは違う。
ショウウィンドウに背を向けて、あたしは待ち合わせ場所へと足を運んだ。
雨。
道路の両脇に規則正しく樹樹が並んでいる。
黒く濡れたアスファルト。
ところどころにできる水溜まり。
緑化政策のために植えられた樹には、車の跳ねる飛沫のせいで、ゴミやホコリが張りついている。
風が吹いて、枝葉が揺れる。
零れる雫が、濁って見える。
清潔なデスクに、彼女はコトリと眼鏡を置いた。
ため息がひとつ。
━━最近、疲れている。
自覚はしていても、今は無理をしなければならない。
目頭を押さえ、軽くマッサージをする。
ささやかな至福。
時時、なんのために頑張っているのかと、目的を見失いそうになる。
先のこと以前に、今の状況すら分からないのに。
この仕事が自分に向いているとは思わない。
今を乗り越えた先に、なにがあるというのか。
ただ、今を必死に生きている。
彼女はコメカミを揉み、眼鏡をかける。
不安はよぎるが、今は仕方がない。
皆、こうなんだろう。
ただただ、必死に生きているのだ。
必死に生きる、その言葉の矛盾性に苦笑しつつ、彼女は仕事モードに頭を切り換える。
老紳士はルノアールの画集を見ていた。
静謐な図書館。
彼は杖を支点に椅子から立ち上がると画集を棚に戻し、ダリの画集を手に取った。
椅子に座り、ランダムにページをめくる。
溶けた時計、足の伸びた駱駝。
ほとんどの人がダリの絵画としてイメージする物がそこにあった。
老紳士は、ふと思い立ち、ピカソと岡本太郎の画集を取った。
所詮は暇潰し。
何も考えずにぼんやり眺める。
ゲルニカ、縄文と炎の息吹き。
老紳士は思った。
岡本太郎が、一番素敵だ。
プードルのトリミングをしている時、客からの注文が入った。
白い毛色をピンクに染めてほしいと。
他人のペットだし、犬自身がどう感じるかは知らないけれど、少なくとも私は悪趣味だなと思った。
でも、これは仕事。
客への軽蔑の念を隠し、毛を染める準備をする。
これで少しでも売り上げが上がるのだから。
眼鏡の彼女は、仕事を続けている。
他のことなど一切考えず、昼食すら摂るのも忘れて。
生きるために健康を犠牲にし、仕事のために私事を封印し、今の生活レベルを維持し、あわよくばそのレベルを上げようとするため、彼女は仕事に生きている。
結婚の二文字は頭に無い。
余裕が無いのか関心が無いのか。その両方か。
ただひとつだけ確実に言えること、それは彼女が真面目に真剣に、そして必死に生きているということだけだ。
狭い箱。
白い光。
クリーム色の壁には半透明のプラスチックパネル。
……ぼくは今、どこに居る?
白い、蒼白い人工的な光。
━━痛み。
肺から込み上げる重苦しい塊。
ああ、そうか。
ここは病院内のエレベーター。
噎せて苦しみ、ぼくは吐血した。
抑えた手が、視界が、服が血に染まる。
壁やパネル、床に血の滴。
エレベーターの中に充満する血の臭い。
その臭いは院内に漂う薬品の臭いに混じって━━
━━酷く気持ちが悪くなった。
打ち合わせ中にも関わらず、あたしの頭にはショウウィンドウの映像が焼きついて離れない。
合同出資して作り上げた会社の名義を、こっそり変更してあたしを追い出した男。
━━いつか、見返してやる。
その思いは意識下に常駐している。
不況のあおりを受け、あいつの会社は経営が厳しいようだ。あたしの個人事務所の方が今では順調だ。
けれどそんなことで、あたしは彼を許すことはない。
あたしはあいつを、憎んでいる。
お婆さんが卓球をしている。
そのスポーツ施設の外では、老人たちがゲートボールを楽しんでいる。
みな、持病はあるが、それなりに健康だ。
孫を連れて来ている老人もいる。
故障で停まったエレベーターの中で、気を失いそうになりながらも、ぼくは辛うじて意識を保っている。
不思議な気持ちだ。
楽観も悲観もしていない。
自分病状や、今置かれている状況に、まったくと言って良いほど関心がないのだ。
諦めとも違う。
悟りとも違う。
沸き上がる感情。
爆発する奔流。
「フフフ、ハハハ、ハハハハハハハッ」
狭い箱の中、ぼくは笑った。
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