もう十二時か。
ユウヤは少し困っている。
友人のナガトミが、なかなか帰ってくれないのだ。買ってきたばかりのゲームを始めてから三時間。
ユウヤは退屈し、ちょっと眠くなっている。いや、かなりの眠気を感じている。
目をこすり、ぼんやりとゲーム画面を見つめる。
平面なモニターは、懸命に三次元に似せようとしてポリゴンを複雑化させている。車は破壊的スピードで走り、背景は時のように流れて消える。
変化する画像速度は、睡魔に襲われたユウヤの脳の限界を越えている。そのせいか、彼はますます眠くなる。
手を伸ばし、背筋を反らせると、ユウヤは大きく口を開いた。
「ふあ~ぁ」
あくび。
閉じた目から涙が流れる。
大きく息を吸い、そして吐く。
一回では頭がクリアにならず、二回目のあくびをする。
その時だった。
彼の口の中に、何かが入ってきた。
舌に張り付いたそれはどこか甘く、驚いたユウヤは口を閉じ、思わず飲み込んだ。
あくびを止められた不快感よりもまず、彼は戸惑った。
この味は何だ、何を飲みこんだ? 口の中に溜まった唾液は飲むべきか吐き出すべきか?
不確定な想いの中で分かっていることは、ただひとつ。
「飲んじゃった」
反射的に、思わず、何も考えず。
「え?」モニターに目を向けたまま、ナガトミは尋ねる。
「飲んじゃった」
「だから何をだよ」
「分かんない」
「はあ?」ナガトミは失笑し、ポーズボタンを押す。「何言ってんだよ」
そこで初めて彼はユウヤの顔を見た。
「飲んじゃったんだよ」
表情の欠落したユウヤを視て、ナガトミはやっと、何らかの異常が起きたことを知る。
「どうした」
ナガトミの言葉に、ユウヤはたどたどしく答える。
「あくびしたらさ、何か良く分かんないけど、口に入ってきたんだ。それ、飲んじゃったんだよ。ヤバイかな」
「何を飲んだんだよ」
「だから分かんないって。目、閉じてたし。虫だったらどうしよう……あ、でも、なんか甘かった気もする」
「甘い? じゃあ虫じゃないんじゃね?」
「虫じゃないなら何を飲んだのかな――」
「つーか、なんで飲んだんだよ」
「分かんないって。あ、あれ?」
ユウヤはげほごほと咳をする。
喉が熱い。舌の根にある感覚は辛味のようだった。
「辛っ! かっれーっ!」ペットボトルを掴み、蓋を開ける。
紅茶を飲むユウヤを、ナガトミは心配そうに見ている。
「ゲホッゲホゲホ。うわっまだ辛いよ。なんだこれ、さっきの飲んだせいかな」
「どうしたんだよ」
「なんか喉が熱くってさ、なんか口の奥が辛いんだよ、どうすりゃいいんかな」
「とりあえずあれだ、うがいでもしてきたら?」
「ああ、うん。そうだな、うがいしてくる」
ユウヤはキッチンへ駆けると水をコップへ汲み、うがいを始める。
ナガトミはゲーム機本体のボタンを押してディスクを取り出すと、パッケージへしまう。
隣のキッチンから、ユウヤのうがいをする音が聞こえてきた。
五分も経たずに、ユウヤはコップを手にして部屋へ戻ってきた。
「辛いのは消えたか」ナガトミはユウヤの顔を見てぎょっとする。
「消えたけど喉が渇――」友人の異変に気付く。「どうした?」
「赤くなってないか、首の辺り」
言われてユウヤは姿見を覗く。
首から顎にかけて赤くなり、ぽつぽつと湿疹のような膨らみができている。
嫌な予感とともに服を捲り上げてみると、予感は的中。胸、腹部両方が首と同じような状態になっていた。
「俺、何を飲んだんだろう」ユウヤはつぶやく。
「うわっ、お前どうしたんだよ」ナガトミが声を上げる。「背中まで真っ赤だぞ」
「――湿疹みたいの、できてるか」
「できてる。大丈夫か?痒くはないのか」
言われた途端、ユウヤはムズ痒さを感じ始めた。
室内のわずかな空気の流れすらが刺激して痛痒感を増幅しているようにも感じる。
しかし掻いたら虫さされのように痒みが広がりそうな気がして、ユウヤは我慢する。
服を下ろしてコップの水を飲む。
心を落ち着かせようとするが、湿疹を見たせいで動揺は大きくなるばかり。
「俺、何を飲んじゃったのかな。この湿疹も飲んじゃった奴のせいなのかな」
救いを求めるような目で見られ、ナガトミは考える。
しかし簡単に答えの出るわけもない。
「とりあえず明日――あ、もう今日か。今日さ、早めに病院行けよ。朝になったら消えてるかもしれないしさ、気にしない方が良いと思う」
気安めの言葉であるのは分かっていたが、ユウヤは頷いた。
「病院、行ってみるわ」背中をくねらせ、彼は言った。
その様子を見て、ナガトミは痒そうだなと思い、次に感染性について考えた。さらには何を飲んだのか分からないが、その何かがまだ室内にある可能性もある。
「今日は風呂に入んない方が良いぞ」ナガトミは荷物を手に取り、立ち上がる。「湿疹は血行が良くなると広がるらしいからな」
「帰るのか?」シャツが擦れるだけで全身が痒い。
「うん。お前もその方が良いだろう。今夜は早く寝とけ」
「ああ、分かった」痒みに意識を支配され、友人の薄情さに気付かない。
ユウヤはナガトミを見送ると、玄関のドアにかぎとチェーンを掛けた。
部屋の中を片付けていると、知らずうちに体を掻いている自分に気付かされる。
痒い、痒い。
どうしようもなく痒い。
なんでこんなに痒く――ユウヤは考える――痒いってのはアレルギーからだろ。ってことは飲んだ奴が飲んだヤツがアレルギーの元なのか?アレルギーって、ひどいヤツになると死ぬ場合もあるんだろ。俺、大丈夫かな。なんなんだよ、あれ。
うがいをした時に、実は一度、胃の中の物を吐いてみたのだが、それらしい物は見当たらなかった。
なんだろう。
なんなんだろう。
布団に入っても、ユウヤは不安と恐怖と痒さのせいで眠れない。
全身を掻く。
腕や足まで痒くなってきた。
掻く、叩く、撫でる、つねる、爪で十字に跡をつける。
いろいろ試しても効果は刹那的なものだ。
濁点を付けた『あ』とか『い』とかの語尾を伸ばして、ユウヤは呻いている。時々「痒い痒い痒い」と連呼し、ばりばりと皮膚を掻く。
布団は乱れ、着ているスウェットも乱れている。
とても他人に見せられたものではない。
布団の上で転がり、跳ね、体を捻り、背を反らせ、丸くなる。
しかし意識の底には、氷でできた針を背筋に刺されたような恐怖感が張り付いている。
半端な痛みより辛い拷問。
正体不明の恐怖感。
実は何かを飲んだというのは気のせいだったりするのだ。本当はナガトミに早く帰って欲しいために起きた心理的なもの。病院に行って医者から問題無しと言われるまでユウヤの苦しみは続いたのであった。
ユウヤは少し困っている。
友人のナガトミが、なかなか帰ってくれないのだ。買ってきたばかりのゲームを始めてから三時間。
ユウヤは退屈し、ちょっと眠くなっている。いや、かなりの眠気を感じている。
目をこすり、ぼんやりとゲーム画面を見つめる。
平面なモニターは、懸命に三次元に似せようとしてポリゴンを複雑化させている。車は破壊的スピードで走り、背景は時のように流れて消える。
変化する画像速度は、睡魔に襲われたユウヤの脳の限界を越えている。そのせいか、彼はますます眠くなる。
手を伸ばし、背筋を反らせると、ユウヤは大きく口を開いた。
「ふあ~ぁ」
あくび。
閉じた目から涙が流れる。
大きく息を吸い、そして吐く。
一回では頭がクリアにならず、二回目のあくびをする。
その時だった。
彼の口の中に、何かが入ってきた。
舌に張り付いたそれはどこか甘く、驚いたユウヤは口を閉じ、思わず飲み込んだ。
あくびを止められた不快感よりもまず、彼は戸惑った。
この味は何だ、何を飲みこんだ? 口の中に溜まった唾液は飲むべきか吐き出すべきか?
不確定な想いの中で分かっていることは、ただひとつ。
「飲んじゃった」
反射的に、思わず、何も考えず。
「え?」モニターに目を向けたまま、ナガトミは尋ねる。
「飲んじゃった」
「だから何をだよ」
「分かんない」
「はあ?」ナガトミは失笑し、ポーズボタンを押す。「何言ってんだよ」
そこで初めて彼はユウヤの顔を見た。
「飲んじゃったんだよ」
表情の欠落したユウヤを視て、ナガトミはやっと、何らかの異常が起きたことを知る。
「どうした」
ナガトミの言葉に、ユウヤはたどたどしく答える。
「あくびしたらさ、何か良く分かんないけど、口に入ってきたんだ。それ、飲んじゃったんだよ。ヤバイかな」
「何を飲んだんだよ」
「だから分かんないって。目、閉じてたし。虫だったらどうしよう……あ、でも、なんか甘かった気もする」
「甘い? じゃあ虫じゃないんじゃね?」
「虫じゃないなら何を飲んだのかな――」
「つーか、なんで飲んだんだよ」
「分かんないって。あ、あれ?」
ユウヤはげほごほと咳をする。
喉が熱い。舌の根にある感覚は辛味のようだった。
「辛っ! かっれーっ!」ペットボトルを掴み、蓋を開ける。
紅茶を飲むユウヤを、ナガトミは心配そうに見ている。
「ゲホッゲホゲホ。うわっまだ辛いよ。なんだこれ、さっきの飲んだせいかな」
「どうしたんだよ」
「なんか喉が熱くってさ、なんか口の奥が辛いんだよ、どうすりゃいいんかな」
「とりあえずあれだ、うがいでもしてきたら?」
「ああ、うん。そうだな、うがいしてくる」
ユウヤはキッチンへ駆けると水をコップへ汲み、うがいを始める。
ナガトミはゲーム機本体のボタンを押してディスクを取り出すと、パッケージへしまう。
隣のキッチンから、ユウヤのうがいをする音が聞こえてきた。
五分も経たずに、ユウヤはコップを手にして部屋へ戻ってきた。
「辛いのは消えたか」ナガトミはユウヤの顔を見てぎょっとする。
「消えたけど喉が渇――」友人の異変に気付く。「どうした?」
「赤くなってないか、首の辺り」
言われてユウヤは姿見を覗く。
首から顎にかけて赤くなり、ぽつぽつと湿疹のような膨らみができている。
嫌な予感とともに服を捲り上げてみると、予感は的中。胸、腹部両方が首と同じような状態になっていた。
「俺、何を飲んだんだろう」ユウヤはつぶやく。
「うわっ、お前どうしたんだよ」ナガトミが声を上げる。「背中まで真っ赤だぞ」
「――湿疹みたいの、できてるか」
「できてる。大丈夫か?痒くはないのか」
言われた途端、ユウヤはムズ痒さを感じ始めた。
室内のわずかな空気の流れすらが刺激して痛痒感を増幅しているようにも感じる。
しかし掻いたら虫さされのように痒みが広がりそうな気がして、ユウヤは我慢する。
服を下ろしてコップの水を飲む。
心を落ち着かせようとするが、湿疹を見たせいで動揺は大きくなるばかり。
「俺、何を飲んじゃったのかな。この湿疹も飲んじゃった奴のせいなのかな」
救いを求めるような目で見られ、ナガトミは考える。
しかし簡単に答えの出るわけもない。
「とりあえず明日――あ、もう今日か。今日さ、早めに病院行けよ。朝になったら消えてるかもしれないしさ、気にしない方が良いと思う」
気安めの言葉であるのは分かっていたが、ユウヤは頷いた。
「病院、行ってみるわ」背中をくねらせ、彼は言った。
その様子を見て、ナガトミは痒そうだなと思い、次に感染性について考えた。さらには何を飲んだのか分からないが、その何かがまだ室内にある可能性もある。
「今日は風呂に入んない方が良いぞ」ナガトミは荷物を手に取り、立ち上がる。「湿疹は血行が良くなると広がるらしいからな」
「帰るのか?」シャツが擦れるだけで全身が痒い。
「うん。お前もその方が良いだろう。今夜は早く寝とけ」
「ああ、分かった」痒みに意識を支配され、友人の薄情さに気付かない。
ユウヤはナガトミを見送ると、玄関のドアにかぎとチェーンを掛けた。
部屋の中を片付けていると、知らずうちに体を掻いている自分に気付かされる。
痒い、痒い。
どうしようもなく痒い。
なんでこんなに痒く――ユウヤは考える――痒いってのはアレルギーからだろ。ってことは飲んだ奴が飲んだヤツがアレルギーの元なのか?アレルギーって、ひどいヤツになると死ぬ場合もあるんだろ。俺、大丈夫かな。なんなんだよ、あれ。
うがいをした時に、実は一度、胃の中の物を吐いてみたのだが、それらしい物は見当たらなかった。
なんだろう。
なんなんだろう。
布団に入っても、ユウヤは不安と恐怖と痒さのせいで眠れない。
全身を掻く。
腕や足まで痒くなってきた。
掻く、叩く、撫でる、つねる、爪で十字に跡をつける。
いろいろ試しても効果は刹那的なものだ。
濁点を付けた『あ』とか『い』とかの語尾を伸ばして、ユウヤは呻いている。時々「痒い痒い痒い」と連呼し、ばりばりと皮膚を掻く。
布団は乱れ、着ているスウェットも乱れている。
とても他人に見せられたものではない。
布団の上で転がり、跳ね、体を捻り、背を反らせ、丸くなる。
しかし意識の底には、氷でできた針を背筋に刺されたような恐怖感が張り付いている。
半端な痛みより辛い拷問。
正体不明の恐怖感。
実は何かを飲んだというのは気のせいだったりするのだ。本当はナガトミに早く帰って欲しいために起きた心理的なもの。病院に行って医者から問題無しと言われるまでユウヤの苦しみは続いたのであった。
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