――初冬の北海道。
カメラを手にして、亜紀はバス停に降り立った。
初雪は、まだ降っていない。
けれどもやはり、北国の地は寒い。
亜紀はカメラを手に、しばらく歩く。
ブーツの下には砂利の感覚。少し歩き難かった。
しばらく歩くと体も暖まってくる。
コートを脱いで、腕に掛けた。
古い型だが、新品同様に手入れされたカメラ。亜紀は大事そうにカメラを両手で包んでいる。
時折フレームを覗いているが、その手つきは慣れていない。
やがて目指すべき草原に辿り着く。
晴れ渡った青空下、草は渋茶色に枯れ始めている。
所々に冬の花が咲いてはいるが、明らかに写真を撮るには時期を逸している。
遠くに見える木立も冬支度を始めているため、さらにもの寂しい。
しかし亜紀は風景に目をやるでもなく、屋根の付いた休憩施設に向かい、据え付けの椅子に腰掛けた。
コートとバッグをテーブルの上に置く。
カメラを持った手は膝の上に。プラスチック製の表面を優しく撫でている。
亜紀がこの草原に来続けて、三日目になる。しかしフィルム数は一枚も減っていない。
二日前からこの椅子に座り、時々携帯電話をいじりながら、日が沈むまでぼんやりと辺りを見回し続けていた。
無為とも思える時間。
しかしそこには意味があった。
彼女はシャッターチャンスを待ち続けているのだ。
――雪虫。
亜紀はこのカメラで、どうしても雪虫が撮りたかったのだ。
そのために大学も休んでいる。
滞在予定は一週間。その間に撮れなければ、もう少し予定を伸ばしてもいいと思っている。
彼女が友人と交わした約束なのだ。
それは彼女が一方的にした約束なのだけれど――
白い息。
再び寒さを感じ、亜紀はコートを羽織った。
バッグから水筒を取り出し、暖かい紅茶を注ぐ。
一口飲み、熱さが喉元を通る感覚を味わう。
ほうっと息を吐くと、彼女は友人のことを思い出す――
中学校の図書館。
制服を着た亜紀と、友人の早織が椅子に座っている。
夕陽が窓から射し込み、亜紀はぼんやりと本の外を見ている。
「――綺麗」
「ん?何が?」早織の言葉に反応し、亜紀は彼女の見つめる写真集を覗く。「何コレ、雪?」
「雪虫っていうんだって」
「うわっ、虫か―」
「でも綺麗だよ」
「ダメダメ」亜紀は手を振った。「そんなモン蛍と一緒だよ。遠くから見れば綺麗かもしれないけど、近付いて見たらグロいモンだって」
「亜紀らしいね」早織は笑った。「――でも、いつか撮ってみたいな……こんな写真」
中学を卒業すると、二人は同じ高校に入学した。
早織は入学祝にカメラを買ってもらった。
「いつか雪虫を撮りに北海道へ行こうね」
亜紀は早織に連れられて、何度か写真旅行に行った。
亜紀自身は写真に興味は無かったのだけれど、カメラを手にして嬉々とする早織は精力的で魅力的で、とても輝いて見えた。
そんな彼女を見るのはとても素敵で、亜紀にとっても楽しい時間だった。
「早織は将来、カメラマンになればいいと思う」亜紀は早織の写真を見て言った。
「またまた―」早織は笑う。
「でも、とってもいい写真だよ」亜紀は本当にそう思っていた。「この花だって、とっても活き活きしてるし」
「――まぁ、なれればいいけどね」
そんな早織が通学中に事故に遭ったのは高校二年の春のことだった。
スピードを出し過ぎた車が交差点を曲がり切れず、信号待ちしていた彼女の方へ突っ込んできたのだ。
早織は跳ね飛ばされ、小さな体は十メートルも転がった。
いつも二人で通学していたが、その日は亜紀が体調を崩していたため、早織一人での通学途中の出来事だった。
早織はひどく頭を打ち、植物状態になってしまったのだ。
亜紀は毎日のように彼女の病室へ見舞いに行った。
しかし、何を言っても返事は無い。
手を握っても、そこに力は無い。
家に帰った後で、亜紀は一人、泣いていた。
一年経ち、三年生になると受験勉強をするために足が遠くなった。
大学へ合格した時は一番に報告した。
けれど、早織の笑顔は見られない。
亜紀は大学へ通うために上京したが、いつも早織の写真は部屋に飾られていた。
大きな休みのたびに実家へ戻り、彼女の病室へ見舞いに行った。
――そして大学三年目の秋。
男の子と付き合うこともなく、二十歳にして早織は息を引き取った。
無言の闘病生活は突然、終わりを告げたのだ。
彼女の通夜に間に合うことはできなかったが、葬式に参列することはできた。
不思議と涙は流れなかった。
実感も沸かず、もう会えないのかと、ぼんやりそう思ったことだけは覚えている。
残酷な言い方をすれば、こんな別れ方をするかもしれないという心の準備はできていたのかもしれない。
飽くまで亜紀は早織の意識が回復することを願い、望んでいた。
けれども一抹の不安や悲しさが無意識の裡でそう形造ってしまても、誰も非難できないだろう。
――本人以外には。
亜紀は式の間中、自分は薄情な人間だと罵り続けていた。
式が終わり、数週間が経っても。
心の空白はある。
だが早織のために悲しむことができない。
そんな戸惑いの中にいた亜紀の元に、一つの荷物が届いてきた。
中にはカメラが入っていた。
早織の両親からの手紙も入っている。そこには最期まで見舞いに来てくれた礼の言葉と、形見分けとしてカメラをもらってほしいという内容の文面があった。
亜紀はカメラを取り出し、つぶさに観察した。
旧式の一眼レフ。
その重みがズッシリと手に伝わる。
途端に、亜紀の双瞼から涙が溢れてくる。
「――どうしてだろう」亜紀は震える声で呟いた。「早織の顔を見た時にも涙は流れなかったのに」
――そして次々と脳裡に浮かぶ、早織との思い出。
カメラの重さに想い出の重さがかさなった。
泣いて泣いて、亜紀はそのまま夜を明かした。
朝日が昇り、あまりにも澄んだ青空が窓から見える。
亜紀は涙を拭い、早織のできなかった夢を叶えてあげようと、その時決めた。
――彼女の遺した、このカメラで。
これが、亜紀が早織に一方的に交わした約束だ。
寒空の下、亜紀は冷風に耐えている。
と、綿毛のようなものが宙に浮いている。
それは風に乗って徐々に増え、舞い踊る雪のように見えた。
――雪虫だ。
亜紀はカメラを構えると、シャッターを押した。
カメラを手にして、亜紀はバス停に降り立った。
初雪は、まだ降っていない。
けれどもやはり、北国の地は寒い。
亜紀はカメラを手に、しばらく歩く。
ブーツの下には砂利の感覚。少し歩き難かった。
しばらく歩くと体も暖まってくる。
コートを脱いで、腕に掛けた。
古い型だが、新品同様に手入れされたカメラ。亜紀は大事そうにカメラを両手で包んでいる。
時折フレームを覗いているが、その手つきは慣れていない。
やがて目指すべき草原に辿り着く。
晴れ渡った青空下、草は渋茶色に枯れ始めている。
所々に冬の花が咲いてはいるが、明らかに写真を撮るには時期を逸している。
遠くに見える木立も冬支度を始めているため、さらにもの寂しい。
しかし亜紀は風景に目をやるでもなく、屋根の付いた休憩施設に向かい、据え付けの椅子に腰掛けた。
コートとバッグをテーブルの上に置く。
カメラを持った手は膝の上に。プラスチック製の表面を優しく撫でている。
亜紀がこの草原に来続けて、三日目になる。しかしフィルム数は一枚も減っていない。
二日前からこの椅子に座り、時々携帯電話をいじりながら、日が沈むまでぼんやりと辺りを見回し続けていた。
無為とも思える時間。
しかしそこには意味があった。
彼女はシャッターチャンスを待ち続けているのだ。
――雪虫。
亜紀はこのカメラで、どうしても雪虫が撮りたかったのだ。
そのために大学も休んでいる。
滞在予定は一週間。その間に撮れなければ、もう少し予定を伸ばしてもいいと思っている。
彼女が友人と交わした約束なのだ。
それは彼女が一方的にした約束なのだけれど――
白い息。
再び寒さを感じ、亜紀はコートを羽織った。
バッグから水筒を取り出し、暖かい紅茶を注ぐ。
一口飲み、熱さが喉元を通る感覚を味わう。
ほうっと息を吐くと、彼女は友人のことを思い出す――
中学校の図書館。
制服を着た亜紀と、友人の早織が椅子に座っている。
夕陽が窓から射し込み、亜紀はぼんやりと本の外を見ている。
「――綺麗」
「ん?何が?」早織の言葉に反応し、亜紀は彼女の見つめる写真集を覗く。「何コレ、雪?」
「雪虫っていうんだって」
「うわっ、虫か―」
「でも綺麗だよ」
「ダメダメ」亜紀は手を振った。「そんなモン蛍と一緒だよ。遠くから見れば綺麗かもしれないけど、近付いて見たらグロいモンだって」
「亜紀らしいね」早織は笑った。「――でも、いつか撮ってみたいな……こんな写真」
中学を卒業すると、二人は同じ高校に入学した。
早織は入学祝にカメラを買ってもらった。
「いつか雪虫を撮りに北海道へ行こうね」
亜紀は早織に連れられて、何度か写真旅行に行った。
亜紀自身は写真に興味は無かったのだけれど、カメラを手にして嬉々とする早織は精力的で魅力的で、とても輝いて見えた。
そんな彼女を見るのはとても素敵で、亜紀にとっても楽しい時間だった。
「早織は将来、カメラマンになればいいと思う」亜紀は早織の写真を見て言った。
「またまた―」早織は笑う。
「でも、とってもいい写真だよ」亜紀は本当にそう思っていた。「この花だって、とっても活き活きしてるし」
「――まぁ、なれればいいけどね」
そんな早織が通学中に事故に遭ったのは高校二年の春のことだった。
スピードを出し過ぎた車が交差点を曲がり切れず、信号待ちしていた彼女の方へ突っ込んできたのだ。
早織は跳ね飛ばされ、小さな体は十メートルも転がった。
いつも二人で通学していたが、その日は亜紀が体調を崩していたため、早織一人での通学途中の出来事だった。
早織はひどく頭を打ち、植物状態になってしまったのだ。
亜紀は毎日のように彼女の病室へ見舞いに行った。
しかし、何を言っても返事は無い。
手を握っても、そこに力は無い。
家に帰った後で、亜紀は一人、泣いていた。
一年経ち、三年生になると受験勉強をするために足が遠くなった。
大学へ合格した時は一番に報告した。
けれど、早織の笑顔は見られない。
亜紀は大学へ通うために上京したが、いつも早織の写真は部屋に飾られていた。
大きな休みのたびに実家へ戻り、彼女の病室へ見舞いに行った。
――そして大学三年目の秋。
男の子と付き合うこともなく、二十歳にして早織は息を引き取った。
無言の闘病生活は突然、終わりを告げたのだ。
彼女の通夜に間に合うことはできなかったが、葬式に参列することはできた。
不思議と涙は流れなかった。
実感も沸かず、もう会えないのかと、ぼんやりそう思ったことだけは覚えている。
残酷な言い方をすれば、こんな別れ方をするかもしれないという心の準備はできていたのかもしれない。
飽くまで亜紀は早織の意識が回復することを願い、望んでいた。
けれども一抹の不安や悲しさが無意識の裡でそう形造ってしまても、誰も非難できないだろう。
――本人以外には。
亜紀は式の間中、自分は薄情な人間だと罵り続けていた。
式が終わり、数週間が経っても。
心の空白はある。
だが早織のために悲しむことができない。
そんな戸惑いの中にいた亜紀の元に、一つの荷物が届いてきた。
中にはカメラが入っていた。
早織の両親からの手紙も入っている。そこには最期まで見舞いに来てくれた礼の言葉と、形見分けとしてカメラをもらってほしいという内容の文面があった。
亜紀はカメラを取り出し、つぶさに観察した。
旧式の一眼レフ。
その重みがズッシリと手に伝わる。
途端に、亜紀の双瞼から涙が溢れてくる。
「――どうしてだろう」亜紀は震える声で呟いた。「早織の顔を見た時にも涙は流れなかったのに」
――そして次々と脳裡に浮かぶ、早織との思い出。
カメラの重さに想い出の重さがかさなった。
泣いて泣いて、亜紀はそのまま夜を明かした。
朝日が昇り、あまりにも澄んだ青空が窓から見える。
亜紀は涙を拭い、早織のできなかった夢を叶えてあげようと、その時決めた。
――彼女の遺した、このカメラで。
これが、亜紀が早織に一方的に交わした約束だ。
寒空の下、亜紀は冷風に耐えている。
と、綿毛のようなものが宙に浮いている。
それは風に乗って徐々に増え、舞い踊る雪のように見えた。
――雪虫だ。
亜紀はカメラを構えると、シャッターを押した。
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雪虫
タナトスにコメしたつもりが、半寝してたらしく、反映されてなかったみたいだねw
雪虫。
見てみたいw
そんなに寒い地域ではないため、見たことない。
二人の心が重なった時に映し出された作品を、
見てみたいと思った。
ハレさん。
好きです。
( ´艸`)ウフフ
雪虫。
見てみたいw
そんなに寒い地域ではないため、見たことない。
二人の心が重なった時に映し出された作品を、
見てみたいと思った。
ハレさん。
好きです。
( ´艸`)ウフフ
Re:雪虫
雪虫はググるばすぐに見られると思いますよ。
自分も実際には見たことないんですが、この話を思いついて書くまでの間、偶然それっぽいのを一匹だけ見掛けました。
綿毛に黒っぽいゴミが付いている感じでしたよ。
虫が苦手なので触りませんでしたが、フワフワして良く風に乗りそうでした。
自分も実際には見たことないんですが、この話を思いついて書くまでの間、偶然それっぽいのを一匹だけ見掛けました。
綿毛に黒っぽいゴミが付いている感じでしたよ。
虫が苦手なので触りませんでしたが、フワフワして良く風に乗りそうでした。
Re:無題
ありがとうございます。
生きているなら、いろんなことに区切りを付けなければなりませんよね。そのときは少しでも前向きにいきたいものです。
立ち止まっていては、きっと故人のためにもならないんでしょう。
生きているなら、いろんなことに区切りを付けなければなりませんよね。そのときは少しでも前向きにいきたいものです。
立ち止まっていては、きっと故人のためにもならないんでしょう。