細長い室内。
すでに電気は消えており、室内は真っ暗だ。
両の壁際には小さな動物用のケージが三段、ずらりと部屋いっぱいに並んでいる。
室内には様々な動物の混じりあった、独特の獣臭。
ケージの空きは少なく、動物たちが主人から放された悲壮感が漂っている。
「おれたち、ここに捨てられたのかな」年端もいかない、白いチンチラがつぶやく。「ここで死ぬのかな」
「お前は今日初めてだからそんなことを言うのかもしれないけれど」対面の三毛猫が言う。「そんなこと言わない方がいいわ。余計に辛気臭くなる」
「そうだ、やめろよ」言うのは年経たシベリアンハスキーだ。「まあ不安になるのは分かる。しかしおれはここを何回も出入りしている。大丈夫だよ、安心しろ」
「安心安心」今度は白いフェレットだ。「ここは動物病院。病気が治ればすぐ出られる」
「だけど――」チンチラはまだ不安そうだ。
「お前は重い病気ってわけでもないんだろ」シベリアンハスキーがなだめる。「大丈夫だよ、一週間もしないうちに家へ帰れる」
「安心安心」白いフェレットだ。
「手術は明日なんだろう。大丈夫。寝ているうちに終わるよ」
三毛猫がそう言うと、フェレットが大丈夫大丈夫と連呼する。
「でもなあ」意地悪そうにアビシニアンが言う。「お腹切られるんだぜ」
「お腹――」
死という概念をきちんと理解はできていないのだが、アビシニアンの言葉にチンチラは身を震わせた。
「そういうことは言うもんじゃない」
三毛猫がアビシニアンをたしなめる。
「すまねえな姉御」アビシニアンは謝りつつも嗜虐心を抑えることができない。「確かに寝ているうちに終わるよ。おれの骨折手術も寝ているうちに終わった。だけども麻酔が切れると痛くて痛くて仕方がないぜ。今でも手術痕が痛むよ。おーいてぇいてぇ」
「痛ぇ痛ぇ」フェレットが言った。
チンチラはまたもや身震いをする。未知の恐怖ほど恐いものはない。チンチラは小便をした。
「おやおや漏らしちまったのかい」アビシニアンはアリスに出てくるチェシャ猫のような顔をした。
「そこら辺でやめてあげな」ゴールデンレトリバーが言う。「アンタ、家の近くの飼い猫だったわね。それ以上言うと散歩で家の前を通るたびに吠えまくってやるからね」
アビシニアンはビクリとすると、それきり黙りこんでしまう。
「アンタもね、そんなに恐がるんじゃないよ」ゴールデンレトリバーはチンチラに向かって言う。「みんな病気や怪我してるんだし、そんなこと言われると不快になるやつもいるんだからさ」
「すみません」チンチラは素直に謝る。
「そんなに硬くならなくていい」三毛猫だ。
「ここの獣医は名医だからね、心配しなくても大丈夫さ」
「大丈夫大丈夫」
「はい。優しそうな獣医さんでした」
「それでいいんだよ」三毛猫はチンチラに言った。
「それでいいそれでいい」
「まったくお前は、オウムでもないのにオウム返しばっかりだな」
シベリアンハスキーに言われてフェレットは恥ずかしそうに身をよじる。
「――優しそうな獣医、ね」意味ありげにアカミミガメ――通称ミドリガメが水槽からか首を伸ばして言う。
「えっ何ですか、何ですか」チンチラは恐がっている。
「あたしらには関係ない話よ」ゴールデンレトリバーだ。「ただ、人間相手にはちょっと……ね。獣医さんも人間だし、どこか欠点があるのも仕方のない話よ」
「何ですか?気になります」恐そうな話ではないと知り、チンチラは興味を掻き立てられる。
「気になる気になる」フェレットもこの話は知らないようだ。
ウヒヒヒヒと亀は笑って水槽に潜った。
「まったく、あいつ本当に出歯亀だぜ」シベリアンハスキーがこぼす。
「人間はおれたちと違って万年発情期だからな」静かにしていたアビシニアンが勢いを取り戻した。「ここの看護婦たちに手当たり次第、手を付けているのさ。人がいない所ならどこでもやる。この部屋でだってやるんだぜ、おれたちの目の前で。まったくうるさくてかなわんわな」
「下世話な話よ」ゴールデンレトリバーは興味を失くしたように丸くなった。
「人間の交尾っていうのは、なんであんなに時間がかかるものなのかね」アビシニアンは続ける。「それに服なんてものを着て。あんなことをするんなら最初から服なんて着なきゃいいのに、わざわざ面倒臭いことをするもんだ」
「ウヒヒヒヒ」ミドリガメがまたもや首を伸ばした。「ウチの飼い主なんて、服を着たままの方が燃えるなんて言ってやしたぜ。性癖ってやつなんでしょうな」
「まったく、朝昼夜と関係ないからな、人間ってやつは。どうしようもねぇよ」誇り高きシベリアンハスキーはうんざりといった様子だ。
「そうですか、ダンナ」ミドリガメは好色そうに言う。「あたしには願ったり叶ったりですがね」
「ああもう面倒臭い。なんでこんな話になっちまったのかねぇ」三毛猫がグチをこぼす。
「――発情期?」チンチラはピンと来ないようだ。「交尾ってなんですか」
ミドリガメが驚きの声を上げる。
「まあ、ミドリガメには同じ列で見えないから仕方ないか」アビシニアンが言った。「チンチラはまだ子供なんだよ。ネンネなのさ」
なんだつまらないと言ってミドリガメは水槽の中に沈んだ。
「――何だろう。見てみたいなぁ」
「見てみたい見てみたい」
フェレットも子供なのか、てらいなくチンチラの言葉を繰り返す。
その時、室内に電気が点き、夜の回診かと動物達は静かにする。
が、入室してきたのは獣医と看護師。
動物たちの見守る中、人間たちの交尾が始まる――
すでに電気は消えており、室内は真っ暗だ。
両の壁際には小さな動物用のケージが三段、ずらりと部屋いっぱいに並んでいる。
室内には様々な動物の混じりあった、独特の獣臭。
ケージの空きは少なく、動物たちが主人から放された悲壮感が漂っている。
「おれたち、ここに捨てられたのかな」年端もいかない、白いチンチラがつぶやく。「ここで死ぬのかな」
「お前は今日初めてだからそんなことを言うのかもしれないけれど」対面の三毛猫が言う。「そんなこと言わない方がいいわ。余計に辛気臭くなる」
「そうだ、やめろよ」言うのは年経たシベリアンハスキーだ。「まあ不安になるのは分かる。しかしおれはここを何回も出入りしている。大丈夫だよ、安心しろ」
「安心安心」今度は白いフェレットだ。「ここは動物病院。病気が治ればすぐ出られる」
「だけど――」チンチラはまだ不安そうだ。
「お前は重い病気ってわけでもないんだろ」シベリアンハスキーがなだめる。「大丈夫だよ、一週間もしないうちに家へ帰れる」
「安心安心」白いフェレットだ。
「手術は明日なんだろう。大丈夫。寝ているうちに終わるよ」
三毛猫がそう言うと、フェレットが大丈夫大丈夫と連呼する。
「でもなあ」意地悪そうにアビシニアンが言う。「お腹切られるんだぜ」
「お腹――」
死という概念をきちんと理解はできていないのだが、アビシニアンの言葉にチンチラは身を震わせた。
「そういうことは言うもんじゃない」
三毛猫がアビシニアンをたしなめる。
「すまねえな姉御」アビシニアンは謝りつつも嗜虐心を抑えることができない。「確かに寝ているうちに終わるよ。おれの骨折手術も寝ているうちに終わった。だけども麻酔が切れると痛くて痛くて仕方がないぜ。今でも手術痕が痛むよ。おーいてぇいてぇ」
「痛ぇ痛ぇ」フェレットが言った。
チンチラはまたもや身震いをする。未知の恐怖ほど恐いものはない。チンチラは小便をした。
「おやおや漏らしちまったのかい」アビシニアンはアリスに出てくるチェシャ猫のような顔をした。
「そこら辺でやめてあげな」ゴールデンレトリバーが言う。「アンタ、家の近くの飼い猫だったわね。それ以上言うと散歩で家の前を通るたびに吠えまくってやるからね」
アビシニアンはビクリとすると、それきり黙りこんでしまう。
「アンタもね、そんなに恐がるんじゃないよ」ゴールデンレトリバーはチンチラに向かって言う。「みんな病気や怪我してるんだし、そんなこと言われると不快になるやつもいるんだからさ」
「すみません」チンチラは素直に謝る。
「そんなに硬くならなくていい」三毛猫だ。
「ここの獣医は名医だからね、心配しなくても大丈夫さ」
「大丈夫大丈夫」
「はい。優しそうな獣医さんでした」
「それでいいんだよ」三毛猫はチンチラに言った。
「それでいいそれでいい」
「まったくお前は、オウムでもないのにオウム返しばっかりだな」
シベリアンハスキーに言われてフェレットは恥ずかしそうに身をよじる。
「――優しそうな獣医、ね」意味ありげにアカミミガメ――通称ミドリガメが水槽からか首を伸ばして言う。
「えっ何ですか、何ですか」チンチラは恐がっている。
「あたしらには関係ない話よ」ゴールデンレトリバーだ。「ただ、人間相手にはちょっと……ね。獣医さんも人間だし、どこか欠点があるのも仕方のない話よ」
「何ですか?気になります」恐そうな話ではないと知り、チンチラは興味を掻き立てられる。
「気になる気になる」フェレットもこの話は知らないようだ。
ウヒヒヒヒと亀は笑って水槽に潜った。
「まったく、あいつ本当に出歯亀だぜ」シベリアンハスキーがこぼす。
「人間はおれたちと違って万年発情期だからな」静かにしていたアビシニアンが勢いを取り戻した。「ここの看護婦たちに手当たり次第、手を付けているのさ。人がいない所ならどこでもやる。この部屋でだってやるんだぜ、おれたちの目の前で。まったくうるさくてかなわんわな」
「下世話な話よ」ゴールデンレトリバーは興味を失くしたように丸くなった。
「人間の交尾っていうのは、なんであんなに時間がかかるものなのかね」アビシニアンは続ける。「それに服なんてものを着て。あんなことをするんなら最初から服なんて着なきゃいいのに、わざわざ面倒臭いことをするもんだ」
「ウヒヒヒヒ」ミドリガメがまたもや首を伸ばした。「ウチの飼い主なんて、服を着たままの方が燃えるなんて言ってやしたぜ。性癖ってやつなんでしょうな」
「まったく、朝昼夜と関係ないからな、人間ってやつは。どうしようもねぇよ」誇り高きシベリアンハスキーはうんざりといった様子だ。
「そうですか、ダンナ」ミドリガメは好色そうに言う。「あたしには願ったり叶ったりですがね」
「ああもう面倒臭い。なんでこんな話になっちまったのかねぇ」三毛猫がグチをこぼす。
「――発情期?」チンチラはピンと来ないようだ。「交尾ってなんですか」
ミドリガメが驚きの声を上げる。
「まあ、ミドリガメには同じ列で見えないから仕方ないか」アビシニアンが言った。「チンチラはまだ子供なんだよ。ネンネなのさ」
なんだつまらないと言ってミドリガメは水槽の中に沈んだ。
「――何だろう。見てみたいなぁ」
「見てみたい見てみたい」
フェレットも子供なのか、てらいなくチンチラの言葉を繰り返す。
その時、室内に電気が点き、夜の回診かと動物達は静かにする。
が、入室してきたのは獣医と看護師。
動物たちの見守る中、人間たちの交尾が始まる――
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まったくこの世には馬鹿が蔓延しているものだと鉄也は思う。
学校内での乱射事件が起こるたびに、毎回毎回。
けれども彼の沸点は人とは違い、事件が起きたことに対する怒りではなく、犠牲になった対象、つまりは犯人の狙いや動機に対してである。
学校内で乱射事件を起こす理由は一体何だろうかと考えてみる。
若者の可能性への嫉妬?いや。犯人も大抵は若者だ。ならば落ちこぼれがエリートに対する劣等感でもあろうか?けれども鉄也には注目を浴びたいがための単なる恣意行動に思えてならない。
それはテロのような信条もない、ただ迷惑な子供の我がままによる目立ちたいがための無意味な行動にすぎない。
改めて彼は思う。
まったく、同世代として恥ずかしい。本当に――本当にこの世は馬鹿で溢れている。
――自分だったら、もっと有用なところで乱射事件を起こすのに。
……いや、起こしてみようか。
世の中に手本を示すのだ。
狙うは老人施設。
殺害の後に自害などしない。できる限りの施設を破壊し、老人を殺害し、福祉構成の支出を抑える。これこそ次世代に対する恩恵を与える崇高な目的のためになされる対策であり、現実問題においての命の優先順位、老害の排除、エセボランティアの壊滅などなど、社会に発するメッセージを内包する。
こんなに重要かつ攻めるに容易な対象などないだろう。
彼の思いは半ばドストエフスキー著『罪と罰』に描かれる主人公ラスコーリニコフの思想とも一致するものであるのだが、それを読んでいないために、彼にはラスコーリニコフと自分の思考を比較することも検討することも類似性に悩むこともしなかった。
彼はただ、自分の考えこそが正しいものなのだという信念の元に行動を移してみようと思っている。
自宅から程よい距離にあり、捜査線上に自分の浮かばなそうな場所の老人ホームをインターネットにて検索する。
いくつかの候補先が見つかり、鉄也は移動料金のなるべく安く済みそうなところに対象を絞り込む。
武器はどうしようか。
モデルガンやエアーガンを購入し、インターネットで改造する術を調べてみることにしてみようかと思い、鉄也はアングラサイトを調べまくる。
なるべく足がつかないように。
なるべく速やかに。
モデルガン、エアーガン、改造部品や工具をバラバラに注文手配し、手に入れる。
――そして武器は完成した。
続くは下見だ。
鉄也は人気の多い日曜日に、面会者と混じって老人施設に入り、警備や監視カメラの配置を調べる。介護社員の会話や言動などから類推し、決行時間は深夜、それも火曜日が望ましいのではないかと考えた。
武器の扱いを練習するために、サバイバルゲームのサークルに入り、銃の基本的な扱い方や照準の狙い方を学んだ。
――そして、いざ決行の火曜日深夜。
鉄也は数々の貧弱なセキュリティを突破し、施設内の廊下に立っている。
トイレの窓から侵入したのだ。
侵入方法はクライムサスペンスの小説や映画による情報が功を奏した。
中腰に威力アップした銃を構える。
足音を偲ばせ廊下を進む。
と、左奥のドアが無防備に開く。
中から一人の老人。トイレに行こうとでもして部屋を出てきたのだろうか。
しかしそれが運の尽きだったな。
記念すべき第一の犠牲者――に、その老人はなるはずだった。
しかし……老人は鉄也に気づくと素頓狂な声を上げた。
「鉄也君、鉄也徹君じゃあないかね?」
何故自分の名前をこの老人が知っているのか、鉄也は狼狽える。
「私だよ、中学の時の担任だった花山だ」
「――花山先生!」
鉄也は思わず萎縮する。
十年前には厳しかった恩師がこんな所に、しかも好々爺然としてそこに立っている。
鉄也はギャップと驚きに固まってしまったのだった。
「君は成績優秀だったなあ、鉄也君。私の教員生活において唯一IQ200を越える天才だった」
花山は遠い目をしてそう言った。
しかし鉄也は実際の所、目立つことのない生徒だった。IQ200なんてあるはずもない。
良く見ると、花山の瞳は胡乱で焦点が定まっていない。
さてはボケたかと思い、鉄也は銃を構え直して平常心を保とうとする。
しかし花山は無警戒に近寄り、鉄也の銃をしげしげと観察する。
「これは良い銃だねぇ」花山はむんずと銃身を掴んだ。「私は若い頃ガンマニヤだったのだよ」
即座に銃を撃てば良かったのだが、鉄也にもまだ人としての良心が残っていたものと見える。彼は躊躇し、そうしているうちに花山に銃を奪われてしまった。
花山は興味深そうに銃をいじり回し、銃口を鉄也に向ける。
「ばーん」
口で言いながら花山は引き金を引いた。
軽い発射音とともに飛び出した弾丸は鉄也の皮膚を抉り、頭蓋骨を砕いた。
「うは」花山は感嘆の声を上げる。「いい反動だ」
花山は皮肉にも第一の犠牲者となってしまった鉄也の体から武器類をすべて強奪し、嬉声を上げる、
「うはははははは」
かくして老人の、老人による、老人に対する未曾有の惨劇が起こったのだった。
学校内での乱射事件が起こるたびに、毎回毎回。
けれども彼の沸点は人とは違い、事件が起きたことに対する怒りではなく、犠牲になった対象、つまりは犯人の狙いや動機に対してである。
学校内で乱射事件を起こす理由は一体何だろうかと考えてみる。
若者の可能性への嫉妬?いや。犯人も大抵は若者だ。ならば落ちこぼれがエリートに対する劣等感でもあろうか?けれども鉄也には注目を浴びたいがための単なる恣意行動に思えてならない。
それはテロのような信条もない、ただ迷惑な子供の我がままによる目立ちたいがための無意味な行動にすぎない。
改めて彼は思う。
まったく、同世代として恥ずかしい。本当に――本当にこの世は馬鹿で溢れている。
――自分だったら、もっと有用なところで乱射事件を起こすのに。
……いや、起こしてみようか。
世の中に手本を示すのだ。
狙うは老人施設。
殺害の後に自害などしない。できる限りの施設を破壊し、老人を殺害し、福祉構成の支出を抑える。これこそ次世代に対する恩恵を与える崇高な目的のためになされる対策であり、現実問題においての命の優先順位、老害の排除、エセボランティアの壊滅などなど、社会に発するメッセージを内包する。
こんなに重要かつ攻めるに容易な対象などないだろう。
彼の思いは半ばドストエフスキー著『罪と罰』に描かれる主人公ラスコーリニコフの思想とも一致するものであるのだが、それを読んでいないために、彼にはラスコーリニコフと自分の思考を比較することも検討することも類似性に悩むこともしなかった。
彼はただ、自分の考えこそが正しいものなのだという信念の元に行動を移してみようと思っている。
自宅から程よい距離にあり、捜査線上に自分の浮かばなそうな場所の老人ホームをインターネットにて検索する。
いくつかの候補先が見つかり、鉄也は移動料金のなるべく安く済みそうなところに対象を絞り込む。
武器はどうしようか。
モデルガンやエアーガンを購入し、インターネットで改造する術を調べてみることにしてみようかと思い、鉄也はアングラサイトを調べまくる。
なるべく足がつかないように。
なるべく速やかに。
モデルガン、エアーガン、改造部品や工具をバラバラに注文手配し、手に入れる。
――そして武器は完成した。
続くは下見だ。
鉄也は人気の多い日曜日に、面会者と混じって老人施設に入り、警備や監視カメラの配置を調べる。介護社員の会話や言動などから類推し、決行時間は深夜、それも火曜日が望ましいのではないかと考えた。
武器の扱いを練習するために、サバイバルゲームのサークルに入り、銃の基本的な扱い方や照準の狙い方を学んだ。
――そして、いざ決行の火曜日深夜。
鉄也は数々の貧弱なセキュリティを突破し、施設内の廊下に立っている。
トイレの窓から侵入したのだ。
侵入方法はクライムサスペンスの小説や映画による情報が功を奏した。
中腰に威力アップした銃を構える。
足音を偲ばせ廊下を進む。
と、左奥のドアが無防備に開く。
中から一人の老人。トイレに行こうとでもして部屋を出てきたのだろうか。
しかしそれが運の尽きだったな。
記念すべき第一の犠牲者――に、その老人はなるはずだった。
しかし……老人は鉄也に気づくと素頓狂な声を上げた。
「鉄也君、鉄也徹君じゃあないかね?」
何故自分の名前をこの老人が知っているのか、鉄也は狼狽える。
「私だよ、中学の時の担任だった花山だ」
「――花山先生!」
鉄也は思わず萎縮する。
十年前には厳しかった恩師がこんな所に、しかも好々爺然としてそこに立っている。
鉄也はギャップと驚きに固まってしまったのだった。
「君は成績優秀だったなあ、鉄也君。私の教員生活において唯一IQ200を越える天才だった」
花山は遠い目をしてそう言った。
しかし鉄也は実際の所、目立つことのない生徒だった。IQ200なんてあるはずもない。
良く見ると、花山の瞳は胡乱で焦点が定まっていない。
さてはボケたかと思い、鉄也は銃を構え直して平常心を保とうとする。
しかし花山は無警戒に近寄り、鉄也の銃をしげしげと観察する。
「これは良い銃だねぇ」花山はむんずと銃身を掴んだ。「私は若い頃ガンマニヤだったのだよ」
即座に銃を撃てば良かったのだが、鉄也にもまだ人としての良心が残っていたものと見える。彼は躊躇し、そうしているうちに花山に銃を奪われてしまった。
花山は興味深そうに銃をいじり回し、銃口を鉄也に向ける。
「ばーん」
口で言いながら花山は引き金を引いた。
軽い発射音とともに飛び出した弾丸は鉄也の皮膚を抉り、頭蓋骨を砕いた。
「うは」花山は感嘆の声を上げる。「いい反動だ」
花山は皮肉にも第一の犠牲者となってしまった鉄也の体から武器類をすべて強奪し、嬉声を上げる、
「うはははははは」
かくして老人の、老人による、老人に対する未曾有の惨劇が起こったのだった。
電車の座席に男が座っている。
車内にはまばらに人が立っている。
空席も目立つが、一駅くらいならば座ることもないということなのだろう。
男の前に初老の女性が立っていた。
窓外の景色は風のように流れていく。遠景よりも近景の方が流れが速い。人々はそんな遠近感覚に疑問を呈することなく受け入れている。
「あぐ」
男の奇声に、女性は警戒心を抱いた。
少し距離をとろうとして、女性は男の異変に気付く。
男の額に一本の角が現れ、引っ込んでいく。
長さは二センチくらい。時間としては三秒にも満たない。
角が引いてからしばらくすると、今度は側頭部盛り上がる。
すぐに瘤は治まり、さらに反対側が隆起する。
間隔が短くなるにつれ、角の長さも伸びてくる。
ガコッガコッという不気味な音。
女性は内側から乱打されたゴムボールを連想した。
男の首は角の伸びる方向に引っぱられたようにカクッと曲がる。
挙動の不振さに女性は小さな悲鳴を上げた。
車内の何人かがそれに反応する。
男の目が見開く。
充血というには危険すぎる赤い色。毛細血管が破裂し、涙に血の色が混じっているようだ。
流血は耳の穴からも。内耳、中耳、外耳へと溢れ、酸素をたっぷりと含んだ一筋の赤い糸がぽたりと落ちた。
続いて鼻血。
涙点から鼻涙管を通って血の混じった涙が流れてきたようだ。
角は鼻腔方向にも伸びてくるのか、時折バフッと霧状に鼻血が噴出される。
初老の女性の姿はもう見えない。気味悪がって別車輌に移ったのだろう。変わりに小さな野次馬の群れができつつある。何人かは携帯電話を取り出し、写真や動画を撮っている。
定期的な列車の音にまぎれた不気味な音は小さくなっていく。男の頭部内で暴れる何かが頭蓋骨を文字通りに粉砕してしまったのだろう。
角の勢いが鈍くなり、代わりに男の頭部は血で膨れてきている。
内側から圧迫され、眼球が目蓋を押し拡げ、飛び出さんばかりに突出する。
男の頭の中でズタズタに引き裂かれた脳は互いに疎通しない意識を残している。それは例えば「右足の触覚」「ラベンダーの花の赤黒いタイヤキ」「アレ、時々あいつの性格は嫌いだ」「昨夜の朝食の耳の紫」「消しゴムよりもタバスコの辛さは横一本加えると幸せ」「動物の臭いは初恋よりも俺らしい」といった支離滅裂な思考であり、他にも記憶の中の一場面や欲望といったものまで、走るインパルスに無分別に反応している。それはまさに断末魔。頭部の皮膚は血液が透けて見えるほどに薄くなり、信じられないくらいに膨らんでいる。それを見ている乗客たちはもはや目を背けることもできずに固まり、無意識の底から恐慌を来たしている。男の鼻は内部からの圧迫により、詰まっているようだ。鼻血ももはや流れていない。耳も同様で、あるいはカタツムリ管もせり出してきそうな勢い。呼吸も止まり、大、小便を垂れ流しており、悪嗅を放っている。やがて限界を迎えた男の頭部はパアンと破裂をして飛び散った。座席のシート、窓、吊り革、野次馬、床、天井、すべてが血液や脳髄、脳漿、骨片に汚れる。頭部のあった場所には光る球体。
その光球はどこか神々しく、畏敬の念を感じさせる。
暴れていたのはこれなのか、それとも暴れていたエネルギーが結晶したものなのかは分からない。
けれども魂というものがこの世にあるならば、これこそが魂と呼ぶに相応しいと思われるようなものでもあった。
光球は電車の窓をすり抜け、天へ昇って行く。
後に残された乗客たちは我に帰り、凄惨な自分たちの姿に阿鼻叫喚。
あるいは涙し、あるいはゲロを吐き、あるいは天井に張り付いた眼球と目が合って失神し、まさにこの世の地獄であった。
車内にはまばらに人が立っている。
空席も目立つが、一駅くらいならば座ることもないということなのだろう。
男の前に初老の女性が立っていた。
窓外の景色は風のように流れていく。遠景よりも近景の方が流れが速い。人々はそんな遠近感覚に疑問を呈することなく受け入れている。
「あぐ」
男の奇声に、女性は警戒心を抱いた。
少し距離をとろうとして、女性は男の異変に気付く。
男の額に一本の角が現れ、引っ込んでいく。
長さは二センチくらい。時間としては三秒にも満たない。
角が引いてからしばらくすると、今度は側頭部盛り上がる。
すぐに瘤は治まり、さらに反対側が隆起する。
間隔が短くなるにつれ、角の長さも伸びてくる。
ガコッガコッという不気味な音。
女性は内側から乱打されたゴムボールを連想した。
男の首は角の伸びる方向に引っぱられたようにカクッと曲がる。
挙動の不振さに女性は小さな悲鳴を上げた。
車内の何人かがそれに反応する。
男の目が見開く。
充血というには危険すぎる赤い色。毛細血管が破裂し、涙に血の色が混じっているようだ。
流血は耳の穴からも。内耳、中耳、外耳へと溢れ、酸素をたっぷりと含んだ一筋の赤い糸がぽたりと落ちた。
続いて鼻血。
涙点から鼻涙管を通って血の混じった涙が流れてきたようだ。
角は鼻腔方向にも伸びてくるのか、時折バフッと霧状に鼻血が噴出される。
初老の女性の姿はもう見えない。気味悪がって別車輌に移ったのだろう。変わりに小さな野次馬の群れができつつある。何人かは携帯電話を取り出し、写真や動画を撮っている。
定期的な列車の音にまぎれた不気味な音は小さくなっていく。男の頭部内で暴れる何かが頭蓋骨を文字通りに粉砕してしまったのだろう。
角の勢いが鈍くなり、代わりに男の頭部は血で膨れてきている。
内側から圧迫され、眼球が目蓋を押し拡げ、飛び出さんばかりに突出する。
男の頭の中でズタズタに引き裂かれた脳は互いに疎通しない意識を残している。それは例えば「右足の触覚」「ラベンダーの花の赤黒いタイヤキ」「アレ、時々あいつの性格は嫌いだ」「昨夜の朝食の耳の紫」「消しゴムよりもタバスコの辛さは横一本加えると幸せ」「動物の臭いは初恋よりも俺らしい」といった支離滅裂な思考であり、他にも記憶の中の一場面や欲望といったものまで、走るインパルスに無分別に反応している。それはまさに断末魔。頭部の皮膚は血液が透けて見えるほどに薄くなり、信じられないくらいに膨らんでいる。それを見ている乗客たちはもはや目を背けることもできずに固まり、無意識の底から恐慌を来たしている。男の鼻は内部からの圧迫により、詰まっているようだ。鼻血ももはや流れていない。耳も同様で、あるいはカタツムリ管もせり出してきそうな勢い。呼吸も止まり、大、小便を垂れ流しており、悪嗅を放っている。やがて限界を迎えた男の頭部はパアンと破裂をして飛び散った。座席のシート、窓、吊り革、野次馬、床、天井、すべてが血液や脳髄、脳漿、骨片に汚れる。頭部のあった場所には光る球体。
その光球はどこか神々しく、畏敬の念を感じさせる。
暴れていたのはこれなのか、それとも暴れていたエネルギーが結晶したものなのかは分からない。
けれども魂というものがこの世にあるならば、これこそが魂と呼ぶに相応しいと思われるようなものでもあった。
光球は電車の窓をすり抜け、天へ昇って行く。
後に残された乗客たちは我に帰り、凄惨な自分たちの姿に阿鼻叫喚。
あるいは涙し、あるいはゲロを吐き、あるいは天井に張り付いた眼球と目が合って失神し、まさにこの世の地獄であった。
その1
近頃の親子関係っていうのは、一体どうなっちまってるんでしょうね。あたしは独身の身ですから、ほとんど他人事みたいに気楽に話せるんですけれどもね。まあ、なんて言うんでしょうかな、まず第一に親の躾ってのがなってない。先日もね、電車でエライ目に遭っちまったんですよ。幼稚園児くらいの子供でしたかね、靴を履いたままでシートに上がり、窓の外を眺めてる。隣には母親も居るんですよ。しかし叱らない。携帯電話なんかいじってる。子供が子供なら親も親っていう言葉がありますけど、あれは本当だね、親からしてマナーがなってない。あたしが溜息吐いてますとね、母親がジロリとこちらを向いて一言。「何見てんだよ」思わずあたしもね、「あなた電車の中で携帯電話へ電源つけたままじゃマナー違反ですよ」って言っちまった。そしたらその人、目を釣り上げてこうですよ。「ジロジロ見るのもマナー違反じゃないのか」って。ああいう人たちはどうしてこうも屁理屈こねるのが上手いんでしょうかねぇ。しかしあたしだって噺家の端くれ、口で負けたとあっちゃあお師匠様に顔向けできません。「あなた、子供にもマナー違反をさせているじゃあありませんか。土足でシートの上に立ってるのを叱ろうともしない。あなたはマナーを二つも違反しています。それに対してあたしは一つ。あなたの方が分が悪い」けれども相手もなかなかの遣り手でして、こう返されてしまいましたよ。「人の子育てに横から口を出すのもマナー違反でしょ。私は放任主義で育てているのよ」って。なんだかもう相手にするのも面倒になってしまいましてね、「もういいです」って言って車輌を移りましたよ。しかし放任主義って、言葉の意味を履き違えるのも甚だしい。世の中、何か間違ってるなんて良識派振るつもりもないんですがね、けれども見ていて恥ずかしくなっちゃうんですよ。やめてくれませんかね、放任主義って言葉の使い方。
その2
まあねぇ、四十過ぎの独身男にそんなこと言われる筋合いはないなんて言われたら、その通り。返す言葉もありませんけれどもね。ええ。まあ子育てっていうか、家庭を持つこと事態があたしにとっては夢のまた夢ですよ。見合いも何べんも断られてる。噺家の嫁なんかになったら高座で悪口を言われるのがオチだ、ってな具合でしょうかね。ですから、家庭を維持する難しさっていうのは分かりませんが、人を育て、他人と生活をする。想像するだけでも大変双です。苛々するのも分かりますよ。でもねぇ、だからって弱い子供に当たるのは良くないです。ええ。本当に良くないですよ。ですけれど、最近、そういう事件報道が多いでございましょ、中には死亡事件にまで発展することがある。何も殴るのがいけないってわけじゃあない。理由なく殴るっていうのがいけない。それこそ暴力ですからね。でも最近じゃあ、その反対もあるそうで。ネグレクトって言うんだそうですよ。なーんにもしないの。もうとにかくね、子供の面倒を見ない。育児放棄ってやつですよ。子供が構ってもらいたい時に構ってもらえない、愛情が必要なときに愛情をもらえない。これはね、悲劇ですよ。本当に。でもね、こういうことは表面に出なかっただけで昔からあるっていうんだから驚きですよ。虐待されていた子供が成長して、子供ができると虐待してしまうらしいんです。負の連鎖ってやつですよねぇ、本当に。「自分は両親みたいにならない、なりたくない」そう思うそうですが、子供との接し方が分からないそうなんですね。自分が愛されていなかったから愛する方法が分からないってことらしいんです。子供は親の背中を見て育つっていうのは本当のことかもしれません。でもね、どういうわけか自分の場合には当たらない。親父は会社の役員でしたが、あたしはまだまだ前座上がりの二つ目ですからね。どうしてこうもうまくいかないものなんでしょう。人生っていうのは難しいですね。
その3
少々前口上が長くなってしまいましたが、ここからが本題です。江戸とかそれ以前の昔の話なんですが、子供は人扱いされなかったそうなんですよね。と、いうか人間ではなかった。犬猫とかペット扱いだったそうですよ。法律というか因習みたいなものなんでしょうけれど、それには意味があるんです。昔は医療なんて発達していませんでしたからね、子供や赤ん坊は病にかかるとすぐ死んだ。どんどん死んだ。死んだらまた次を産めばいいか、なんて具合だったらしいんですよ。ですから生と死の間の、何か人とは別の神格扱いされる時も、逆にはあったらしいんです。片足をあの世、もう一本の足をこの世に突っ込んだ存在としてね。もちろん将軍様の子供とかお武家様の子供は別ですよ。お世継ぎですからね、大切にしなきゃならない。でね、ある村にわんぱくな男の子がいた。この子はイタズラが大好きで両親を困らせてばかり。しかし両親は咎めようとしないんですな。その村の住人全員が咎めない。この子だけ他の子供と扱いが違う。当然、子供増長するわけです。他の子供はいい気持ちがしない。そこである子供が親に尋ねる。「ねぇ父ちゃん、どうして捨三だけがあんなに特別扱いされるのさ」けれども親は決まり悪そうに口ごもる。実はですね、この捨三、もしも村に飢饉が訪れた時、人身御供にされる運命だったんですな。もちろん捨三自身にはそんなこと知らされていない。けどまあ、幸いにして捨三が大人になるまで飢饉は訪れなかった。大人になった捨三が結婚して、子供ができるまでそのことは秘されていたんですな。捨三は自分の運命を聞いた時にこう言ったそうです。「ざけるな、腫れものみたいに扱いやがって。こんな村が飢饉になった所で、オレはイケニエになんてならんーぞ、むしろ逆に、お前らを食ってでも生き延びてやらあ」そこに村長が言います。「安心しろ。もうその必要はなくなったのだから。お前の任は解かれ、その運命はお前の子に引き継がれる」そう言われて捨三は愕然とするわけです。なんてことだとショックを受けて気を落とす。つまりそういう家系だったんでしょうなぁ。残酷なことです。そこで彼はふと思い、村長に尋ねてみる。「じゃあオレの前任は――」「お前の父親だよ」村長の言葉を聴いて捨三は父親の元へ走り、訴える。「おっ父、おっ父ならオレの気持ちをわかっていたはずだ、どうしてあんな育て方をしたんだ、俺はずっと寂しかったんだぞ」すると父親は泣きながら謝る。「すまねえ、すまねえなぁ捨三。オレも同じようにして育てられたから、子供の育て方が分からなかったんだ」と。そこで捨三は心に誓うわけです。自分の子供には愛情をたっぷりと注いで育てようと。そしてもしも飢饉が来た時には、村を捨ててもいい。自分の子供だけは必死で守り通そうと。けれど――けれども子供ができて八年目、ついに飢饉が訪れてしまったのです。捨三は子供の佐吉を背負い、村を出ようとしますが村人も必死です。家を取り囲み、松明を手にして脅かします。「佐吉を神様に捧げねえなら、このまま家に火を放つぞ」何人かの村人の「死なばもろともじゃあ」という声と、「そうじゃそうじゃ」と賛同する声。みな飢饉という危機的状況に鬼気迫る迫力です。家には捨三と佐吉は元より、女房に佐吉の弟や妹たち。捨三の大事な大事な家族がいるのです。捨三は迷った。多いに迷った。その時に背中の佐吉が捨三に声をかけます。「おっ父、オラ死んでもいいぞ」外の声によって子供ながらも自分に何を求められているのか、佐吉は察したのでしょう。捨三は慌てます。「佐吉、何を言うか」「でもおっ父、オラが死なねば、みんな殺されてしまうんじゃろ。オラおっ父とおっ母が死ぬのは嫌じゃ。弟たちが死ぬのも嫌じゃ」「しかし佐吉、オレも佐吉が死ぬのは嫌なんだ」「でもおっ父――」「いいや駄目だ」「ならばおっ父、どうするだ」「うーむ」捨三悩みに悩み、こう言います。「ならば、みなで死のう」しかし佐吉は暴れて反対する。「いやじゃいやじゃ」佐吉と捨三をつなぐ縄をほどき、佐吉は叫びながら外へ出てしまいました。驚いた捨三も佐吉を追いかけ、外に出ます。佐吉は村人の腕に捕まりながらも家族を助けてくれるよう懇願しておりました。腕を引かれる佐吉を見て、捨三は叫びます。「佐吉、分かった。そこまで言うのなら――村の衆よ、お前たちに連れられていくのなら、オレがこの手で佐吉を神様の所へ届けたい」そして諸諸の儀式が執り行われ、捨三は佐吉を再び背負います。二人は姥捨て山の話のように、山の中へ登って行くわけですが、その道中、捨三は自分たちの生まれを呪い、佐吉に謝り続けていました。「すまねえな、本当にすまねえな佐吉よう」「いんやおっ父、そんなに謝んねえでくれ」「だけでもよう」「いんや。オラは幸せだっただ。おっ父とおっ母の子供に生まれて、本当に幸せだっただ」それでも捨三は謝ることをやめず、涙を流しながら山道を登り続けました。――子供の幸せとはいったいなんなんでしょうかねぇ。この世の中は難しいことばっかりでございます。
近頃の親子関係っていうのは、一体どうなっちまってるんでしょうね。あたしは独身の身ですから、ほとんど他人事みたいに気楽に話せるんですけれどもね。まあ、なんて言うんでしょうかな、まず第一に親の躾ってのがなってない。先日もね、電車でエライ目に遭っちまったんですよ。幼稚園児くらいの子供でしたかね、靴を履いたままでシートに上がり、窓の外を眺めてる。隣には母親も居るんですよ。しかし叱らない。携帯電話なんかいじってる。子供が子供なら親も親っていう言葉がありますけど、あれは本当だね、親からしてマナーがなってない。あたしが溜息吐いてますとね、母親がジロリとこちらを向いて一言。「何見てんだよ」思わずあたしもね、「あなた電車の中で携帯電話へ電源つけたままじゃマナー違反ですよ」って言っちまった。そしたらその人、目を釣り上げてこうですよ。「ジロジロ見るのもマナー違反じゃないのか」って。ああいう人たちはどうしてこうも屁理屈こねるのが上手いんでしょうかねぇ。しかしあたしだって噺家の端くれ、口で負けたとあっちゃあお師匠様に顔向けできません。「あなた、子供にもマナー違反をさせているじゃあありませんか。土足でシートの上に立ってるのを叱ろうともしない。あなたはマナーを二つも違反しています。それに対してあたしは一つ。あなたの方が分が悪い」けれども相手もなかなかの遣り手でして、こう返されてしまいましたよ。「人の子育てに横から口を出すのもマナー違反でしょ。私は放任主義で育てているのよ」って。なんだかもう相手にするのも面倒になってしまいましてね、「もういいです」って言って車輌を移りましたよ。しかし放任主義って、言葉の意味を履き違えるのも甚だしい。世の中、何か間違ってるなんて良識派振るつもりもないんですがね、けれども見ていて恥ずかしくなっちゃうんですよ。やめてくれませんかね、放任主義って言葉の使い方。
その2
まあねぇ、四十過ぎの独身男にそんなこと言われる筋合いはないなんて言われたら、その通り。返す言葉もありませんけれどもね。ええ。まあ子育てっていうか、家庭を持つこと事態があたしにとっては夢のまた夢ですよ。見合いも何べんも断られてる。噺家の嫁なんかになったら高座で悪口を言われるのがオチだ、ってな具合でしょうかね。ですから、家庭を維持する難しさっていうのは分かりませんが、人を育て、他人と生活をする。想像するだけでも大変双です。苛々するのも分かりますよ。でもねぇ、だからって弱い子供に当たるのは良くないです。ええ。本当に良くないですよ。ですけれど、最近、そういう事件報道が多いでございましょ、中には死亡事件にまで発展することがある。何も殴るのがいけないってわけじゃあない。理由なく殴るっていうのがいけない。それこそ暴力ですからね。でも最近じゃあ、その反対もあるそうで。ネグレクトって言うんだそうですよ。なーんにもしないの。もうとにかくね、子供の面倒を見ない。育児放棄ってやつですよ。子供が構ってもらいたい時に構ってもらえない、愛情が必要なときに愛情をもらえない。これはね、悲劇ですよ。本当に。でもね、こういうことは表面に出なかっただけで昔からあるっていうんだから驚きですよ。虐待されていた子供が成長して、子供ができると虐待してしまうらしいんです。負の連鎖ってやつですよねぇ、本当に。「自分は両親みたいにならない、なりたくない」そう思うそうですが、子供との接し方が分からないそうなんですね。自分が愛されていなかったから愛する方法が分からないってことらしいんです。子供は親の背中を見て育つっていうのは本当のことかもしれません。でもね、どういうわけか自分の場合には当たらない。親父は会社の役員でしたが、あたしはまだまだ前座上がりの二つ目ですからね。どうしてこうもうまくいかないものなんでしょう。人生っていうのは難しいですね。
その3
少々前口上が長くなってしまいましたが、ここからが本題です。江戸とかそれ以前の昔の話なんですが、子供は人扱いされなかったそうなんですよね。と、いうか人間ではなかった。犬猫とかペット扱いだったそうですよ。法律というか因習みたいなものなんでしょうけれど、それには意味があるんです。昔は医療なんて発達していませんでしたからね、子供や赤ん坊は病にかかるとすぐ死んだ。どんどん死んだ。死んだらまた次を産めばいいか、なんて具合だったらしいんですよ。ですから生と死の間の、何か人とは別の神格扱いされる時も、逆にはあったらしいんです。片足をあの世、もう一本の足をこの世に突っ込んだ存在としてね。もちろん将軍様の子供とかお武家様の子供は別ですよ。お世継ぎですからね、大切にしなきゃならない。でね、ある村にわんぱくな男の子がいた。この子はイタズラが大好きで両親を困らせてばかり。しかし両親は咎めようとしないんですな。その村の住人全員が咎めない。この子だけ他の子供と扱いが違う。当然、子供増長するわけです。他の子供はいい気持ちがしない。そこである子供が親に尋ねる。「ねぇ父ちゃん、どうして捨三だけがあんなに特別扱いされるのさ」けれども親は決まり悪そうに口ごもる。実はですね、この捨三、もしも村に飢饉が訪れた時、人身御供にされる運命だったんですな。もちろん捨三自身にはそんなこと知らされていない。けどまあ、幸いにして捨三が大人になるまで飢饉は訪れなかった。大人になった捨三が結婚して、子供ができるまでそのことは秘されていたんですな。捨三は自分の運命を聞いた時にこう言ったそうです。「ざけるな、腫れものみたいに扱いやがって。こんな村が飢饉になった所で、オレはイケニエになんてならんーぞ、むしろ逆に、お前らを食ってでも生き延びてやらあ」そこに村長が言います。「安心しろ。もうその必要はなくなったのだから。お前の任は解かれ、その運命はお前の子に引き継がれる」そう言われて捨三は愕然とするわけです。なんてことだとショックを受けて気を落とす。つまりそういう家系だったんでしょうなぁ。残酷なことです。そこで彼はふと思い、村長に尋ねてみる。「じゃあオレの前任は――」「お前の父親だよ」村長の言葉を聴いて捨三は父親の元へ走り、訴える。「おっ父、おっ父ならオレの気持ちをわかっていたはずだ、どうしてあんな育て方をしたんだ、俺はずっと寂しかったんだぞ」すると父親は泣きながら謝る。「すまねえ、すまねえなぁ捨三。オレも同じようにして育てられたから、子供の育て方が分からなかったんだ」と。そこで捨三は心に誓うわけです。自分の子供には愛情をたっぷりと注いで育てようと。そしてもしも飢饉が来た時には、村を捨ててもいい。自分の子供だけは必死で守り通そうと。けれど――けれども子供ができて八年目、ついに飢饉が訪れてしまったのです。捨三は子供の佐吉を背負い、村を出ようとしますが村人も必死です。家を取り囲み、松明を手にして脅かします。「佐吉を神様に捧げねえなら、このまま家に火を放つぞ」何人かの村人の「死なばもろともじゃあ」という声と、「そうじゃそうじゃ」と賛同する声。みな飢饉という危機的状況に鬼気迫る迫力です。家には捨三と佐吉は元より、女房に佐吉の弟や妹たち。捨三の大事な大事な家族がいるのです。捨三は迷った。多いに迷った。その時に背中の佐吉が捨三に声をかけます。「おっ父、オラ死んでもいいぞ」外の声によって子供ながらも自分に何を求められているのか、佐吉は察したのでしょう。捨三は慌てます。「佐吉、何を言うか」「でもおっ父、オラが死なねば、みんな殺されてしまうんじゃろ。オラおっ父とおっ母が死ぬのは嫌じゃ。弟たちが死ぬのも嫌じゃ」「しかし佐吉、オレも佐吉が死ぬのは嫌なんだ」「でもおっ父――」「いいや駄目だ」「ならばおっ父、どうするだ」「うーむ」捨三悩みに悩み、こう言います。「ならば、みなで死のう」しかし佐吉は暴れて反対する。「いやじゃいやじゃ」佐吉と捨三をつなぐ縄をほどき、佐吉は叫びながら外へ出てしまいました。驚いた捨三も佐吉を追いかけ、外に出ます。佐吉は村人の腕に捕まりながらも家族を助けてくれるよう懇願しておりました。腕を引かれる佐吉を見て、捨三は叫びます。「佐吉、分かった。そこまで言うのなら――村の衆よ、お前たちに連れられていくのなら、オレがこの手で佐吉を神様の所へ届けたい」そして諸諸の儀式が執り行われ、捨三は佐吉を再び背負います。二人は姥捨て山の話のように、山の中へ登って行くわけですが、その道中、捨三は自分たちの生まれを呪い、佐吉に謝り続けていました。「すまねえな、本当にすまねえな佐吉よう」「いんやおっ父、そんなに謝んねえでくれ」「だけでもよう」「いんや。オラは幸せだっただ。おっ父とおっ母の子供に生まれて、本当に幸せだっただ」それでも捨三は謝ることをやめず、涙を流しながら山道を登り続けました。――子供の幸せとはいったいなんなんでしょうかねぇ。この世の中は難しいことばっかりでございます。
もっと静かなところへ行きたい
ここではみんなが騒ぐんだ
もっと静かなところへ行きたい
でも……
でもぼくはどこへも行けない
なぜならここは
ぼくの中――
自分の頭の中だから
頭の中でみんなが叫ぶ
希望絶望失望羨望
苦悩苦痛苦情苦渋
呻き喚き嘆き呟き
友情愛情人間不信自己嫌悪
喜び哀しみ悲しみ怒り
みんながぼくを縛りつける
こんなところにいたくないのに
こんな場所になんていたくないのに
ぼくはもっと……
もっと静かで冷たい場所に
もっと今より落ち着いたところ
そんなところに行きたいのに――
そんな願いすら――ぼくを苦しめる
ここではみんなが騒ぐんだ
もっと静かなところへ行きたい
でも……
でもぼくはどこへも行けない
なぜならここは
ぼくの中――
自分の頭の中だから
頭の中でみんなが叫ぶ
希望絶望失望羨望
苦悩苦痛苦情苦渋
呻き喚き嘆き呟き
友情愛情人間不信自己嫌悪
喜び哀しみ悲しみ怒り
みんながぼくを縛りつける
こんなところにいたくないのに
こんな場所になんていたくないのに
ぼくはもっと……
もっと静かで冷たい場所に
もっと今より落ち着いたところ
そんなところに行きたいのに――
そんな願いすら――ぼくを苦しめる