時計と時間は別のモノ。
そんなことは勿論分かっている。でも政夫には、その時計をいじり回すこと以外、何もする術がなかった。
駆け落ちの末に手にした生活。それが十年も保たないなんて。
エリは実家へと戻って行ってしまったのだ。対して、政夫には帰る場所などなかった。
彼は彼女家に養子として預けられた身。恩を仇で返した所に、今更帰れるわけもない。
――いったい、どこで間違ってしまったのだろう。
政夫は記念の時計の針を戻している。何周も何周も。
ワンルームマンションでのこの生活は、彼女に耐え切れるものではなかったのだろう。
所詮、エリにこの生活は不釣合いだったのだ。あの豪華な生活から転落した人生。彼女も初めは物珍しそうに楽しく生きていた。しかし段々と不機嫌になり、そのストレスはショッピングへと向けられた。盛大なブランド漁り。派手なピアス、シックなスーツ。確かにそれらの物は、彼女に似合いすぎる程だった。彼女のためにデザインされたかのように。
しかし、当然政夫の稼ぎでは追いつかない。それでもガムシャラに働いた。
するとエリは自分が構ってもらえなくなったと非難をし、派手な遊びをするようになってしまったのだ。
お嬢様育ちの彼女には働く気などなく、足りない金は消費者金融から借り出されていた。
政夫が借金に気づいた時には、金額は一千万以上にも膨らんでいた。
――もう無理だ。
彼は彼女を懸命に説得した。
しかし思いは伝わらず、愛が足りないと逆に罵られた。
限界を突破した政夫は、養父に泣きついた。
条件は彼女の返還。
彼は幾日も悩んだ。
その間に養父は娘に接触していた。
エリは憤慨し、政夫をなじる。
「二人でやっていこうって言ってたじゃない!」「どうしてお父様に助けてもらおうとするの!」「私を愛していないのね!」
エリは出て行き、彼は彼女を追おうとしなかった。
――ありふれた話なのかもしれない。
しかし政夫は堪らなかった。
涙を流し、ヤケ酒を呷った。
そして手にした、この時計。
あの家に引き取られ、初めての誕生日に彼女から貰ったプレゼントだ。
政夫は飽きずに何時間も時計の針を回していた。反時計回りに。
彼の感情は麻痺してしまっていたのかもしれない。それまでどれほどの心の動きがあっただろうか。
エリへの未練。エリとの思い出。エリの言葉の数々。エリの様々な表情。養父へ対する複雑な感情。自分の不甲斐なさ。悔い。安堵。遣瀬なさ。エリへの愛。彼女への憎悪。
憑かれたように時計の針を回す。仕事に行く時間を過ぎても。酒による酔いが覚めてもまだ。
麻痺していた感情が息を吹き返し、政夫を苛む。
狂うほどの激情が揺り返す。
感情など殺したい!
彼はそう思った。
感情なんて消えて無くなればいい!
政夫はそう願った。
「でも、本当にそれでいいの?」声が聞こえる。
「誰だ!」政夫は時計を手放し、叫んだ。
周りを見渡すが、狭い部屋には自分以外の誰かがいる筈もなかった。
空耳かと思う。
そして彼は時計を再び手にし、目を見張った。
時計の針が、無くなっている。
――否。
目に見えない程の速さで、独りでに逆回転をしていたのだ。
「そんなバカな――」思わず呟いた。
針を回転させている時計の歯車から、軋んだ音がかすかに聞こえる。その音は徐々に大きくなり、笑い声にも似た音をたてている。
高速で回る針、歯車の笑い声――
政夫は幻惑されていった。
頭の中は空っぽに、しかし意識は知覚されないくらいの高速で働いている。そして視界は、真っ白になった。
気が付くと、政夫は広い室内に居た。
見覚えのある天井。見覚えのあるベッド。見覚えのあるカーテン。見覚えのあるテレビ、そしてパソコン、そして本棚、そしてカーペット…
彼は身を強張らせる。ここは彼女家。養父が彼のために用意してくれた部屋だった。
跳ね起きる。
ベッドから下り、しばらく部屋をウロウロしていた。と、政夫は何かがおかしい事に気付く。
――視線が低い。
明らかに背が縮んでいる。
政夫はクローゼットを開けると鏡を見る。
そこには、子供時代の政夫が居た。
あの時の声――
政夫は辺りを調べている。
クローゼットは空だ。タンスも。机の抽き出しも。
目についたバック。
この家に住むことになった時に持ってきたショルダーバックだ。
ジッパーを開ける。
見知った物ばかり。中には着古した服が新品同様に入っていた。
テレビをつける。
昔の番組…再放送?――いや、CMまで昔のものだ。
どうやら、本当に過去へ戻ってきたらしい。しかもあの日、この家に住むことになった運命の日に。
「……」
政夫は頭の中を整理しようとするが、うまくいかない。
すべてをありのままに受け入れるしかないのだろうか。
「――ならば」
政夫は覚悟を決めた。
政夫は徹底的にエリを遠避けた。
無愛想な顔をし、言葉は最小限。話をしても短いセンテンス。あくまで他人行儀に。心の内を隠し、悲しみを胸に秘めて…
時は流れ、二人は大人になった。
エリは養父の経営する会社に勤める若手エリートと結婚をし、政夫は大学で出来た彼女と付き合っていた。
彼の中の悲哀は時とともに薄れている。
エリは子を産み、家庭は円満。十分に幸せそうだった。
やはり自分は彼女の相手として相応しくなかったのだろう。
彼女は無事に、運命の人と出会えたようだった。
政夫も養父の仕事を手伝い、公私共に充実していた。
このまま、今の恋人と結婚してもいいかな。
彼はそう思い始めている。
そんなある日の事だった。
政夫が部屋で寛いでいると、聴いていたレコードプレイヤーが不自然なタイミングで止まった。
気持ち良く聴いていた歓喜の歌。政夫は少し不機嫌になる。
プレイヤーに近付き、調べてみても故障はない。
どうしたものかと考えていると、忘れもしない、あの時の声が聞こえてきた。
「本当に、これでいいの?」
懐かしさと衝撃。
そして一抹の不安。
「本当に、これで良かったの?」
あの時とは違い、声は再び問い掛けてくる。
政夫はそこで、ふと気付いた。
この声は――物心が付く前に聞いた、母の声だ。
「うん。これでいいんだ」感謝の念を込め、彼は言った。「俺は、もう泣かない。これからは誰も泣かせない。一人でもやっていけるよ」
――そして、声は聞こえなくなった。
レコードが流れる。
山場のコーラス部分だ。
殺し続けていた感情が蘇り、途端に涙が溢れ出す。
「あれ?おかしいな」政夫は抑制の効かない心の奔流に困惑した。
スピーカーからは、神へと捧げる生の喜びが高らかに歌われていた。
「母さんと約束したばかりなのに、困ったな」政夫は笑顔で泣いていた。「もう泣かないって約束したのにな」
そんなことは勿論分かっている。でも政夫には、その時計をいじり回すこと以外、何もする術がなかった。
駆け落ちの末に手にした生活。それが十年も保たないなんて。
エリは実家へと戻って行ってしまったのだ。対して、政夫には帰る場所などなかった。
彼は彼女家に養子として預けられた身。恩を仇で返した所に、今更帰れるわけもない。
――いったい、どこで間違ってしまったのだろう。
政夫は記念の時計の針を戻している。何周も何周も。
ワンルームマンションでのこの生活は、彼女に耐え切れるものではなかったのだろう。
所詮、エリにこの生活は不釣合いだったのだ。あの豪華な生活から転落した人生。彼女も初めは物珍しそうに楽しく生きていた。しかし段々と不機嫌になり、そのストレスはショッピングへと向けられた。盛大なブランド漁り。派手なピアス、シックなスーツ。確かにそれらの物は、彼女に似合いすぎる程だった。彼女のためにデザインされたかのように。
しかし、当然政夫の稼ぎでは追いつかない。それでもガムシャラに働いた。
するとエリは自分が構ってもらえなくなったと非難をし、派手な遊びをするようになってしまったのだ。
お嬢様育ちの彼女には働く気などなく、足りない金は消費者金融から借り出されていた。
政夫が借金に気づいた時には、金額は一千万以上にも膨らんでいた。
――もう無理だ。
彼は彼女を懸命に説得した。
しかし思いは伝わらず、愛が足りないと逆に罵られた。
限界を突破した政夫は、養父に泣きついた。
条件は彼女の返還。
彼は幾日も悩んだ。
その間に養父は娘に接触していた。
エリは憤慨し、政夫をなじる。
「二人でやっていこうって言ってたじゃない!」「どうしてお父様に助けてもらおうとするの!」「私を愛していないのね!」
エリは出て行き、彼は彼女を追おうとしなかった。
――ありふれた話なのかもしれない。
しかし政夫は堪らなかった。
涙を流し、ヤケ酒を呷った。
そして手にした、この時計。
あの家に引き取られ、初めての誕生日に彼女から貰ったプレゼントだ。
政夫は飽きずに何時間も時計の針を回していた。反時計回りに。
彼の感情は麻痺してしまっていたのかもしれない。それまでどれほどの心の動きがあっただろうか。
エリへの未練。エリとの思い出。エリの言葉の数々。エリの様々な表情。養父へ対する複雑な感情。自分の不甲斐なさ。悔い。安堵。遣瀬なさ。エリへの愛。彼女への憎悪。
憑かれたように時計の針を回す。仕事に行く時間を過ぎても。酒による酔いが覚めてもまだ。
麻痺していた感情が息を吹き返し、政夫を苛む。
狂うほどの激情が揺り返す。
感情など殺したい!
彼はそう思った。
感情なんて消えて無くなればいい!
政夫はそう願った。
「でも、本当にそれでいいの?」声が聞こえる。
「誰だ!」政夫は時計を手放し、叫んだ。
周りを見渡すが、狭い部屋には自分以外の誰かがいる筈もなかった。
空耳かと思う。
そして彼は時計を再び手にし、目を見張った。
時計の針が、無くなっている。
――否。
目に見えない程の速さで、独りでに逆回転をしていたのだ。
「そんなバカな――」思わず呟いた。
針を回転させている時計の歯車から、軋んだ音がかすかに聞こえる。その音は徐々に大きくなり、笑い声にも似た音をたてている。
高速で回る針、歯車の笑い声――
政夫は幻惑されていった。
頭の中は空っぽに、しかし意識は知覚されないくらいの高速で働いている。そして視界は、真っ白になった。
気が付くと、政夫は広い室内に居た。
見覚えのある天井。見覚えのあるベッド。見覚えのあるカーテン。見覚えのあるテレビ、そしてパソコン、そして本棚、そしてカーペット…
彼は身を強張らせる。ここは彼女家。養父が彼のために用意してくれた部屋だった。
跳ね起きる。
ベッドから下り、しばらく部屋をウロウロしていた。と、政夫は何かがおかしい事に気付く。
――視線が低い。
明らかに背が縮んでいる。
政夫はクローゼットを開けると鏡を見る。
そこには、子供時代の政夫が居た。
あの時の声――
政夫は辺りを調べている。
クローゼットは空だ。タンスも。机の抽き出しも。
目についたバック。
この家に住むことになった時に持ってきたショルダーバックだ。
ジッパーを開ける。
見知った物ばかり。中には着古した服が新品同様に入っていた。
テレビをつける。
昔の番組…再放送?――いや、CMまで昔のものだ。
どうやら、本当に過去へ戻ってきたらしい。しかもあの日、この家に住むことになった運命の日に。
「……」
政夫は頭の中を整理しようとするが、うまくいかない。
すべてをありのままに受け入れるしかないのだろうか。
「――ならば」
政夫は覚悟を決めた。
政夫は徹底的にエリを遠避けた。
無愛想な顔をし、言葉は最小限。話をしても短いセンテンス。あくまで他人行儀に。心の内を隠し、悲しみを胸に秘めて…
時は流れ、二人は大人になった。
エリは養父の経営する会社に勤める若手エリートと結婚をし、政夫は大学で出来た彼女と付き合っていた。
彼の中の悲哀は時とともに薄れている。
エリは子を産み、家庭は円満。十分に幸せそうだった。
やはり自分は彼女の相手として相応しくなかったのだろう。
彼女は無事に、運命の人と出会えたようだった。
政夫も養父の仕事を手伝い、公私共に充実していた。
このまま、今の恋人と結婚してもいいかな。
彼はそう思い始めている。
そんなある日の事だった。
政夫が部屋で寛いでいると、聴いていたレコードプレイヤーが不自然なタイミングで止まった。
気持ち良く聴いていた歓喜の歌。政夫は少し不機嫌になる。
プレイヤーに近付き、調べてみても故障はない。
どうしたものかと考えていると、忘れもしない、あの時の声が聞こえてきた。
「本当に、これでいいの?」
懐かしさと衝撃。
そして一抹の不安。
「本当に、これで良かったの?」
あの時とは違い、声は再び問い掛けてくる。
政夫はそこで、ふと気付いた。
この声は――物心が付く前に聞いた、母の声だ。
「うん。これでいいんだ」感謝の念を込め、彼は言った。「俺は、もう泣かない。これからは誰も泣かせない。一人でもやっていけるよ」
――そして、声は聞こえなくなった。
レコードが流れる。
山場のコーラス部分だ。
殺し続けていた感情が蘇り、途端に涙が溢れ出す。
「あれ?おかしいな」政夫は抑制の効かない心の奔流に困惑した。
スピーカーからは、神へと捧げる生の喜びが高らかに歌われていた。
「母さんと約束したばかりなのに、困ったな」政夫は笑顔で泣いていた。「もう泣かないって約束したのにな」
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Re:無題
本当は、泣いたっていいんですよね。
イインダヨ! グリーンダヨ!
泣くことを辞めたときの事を思い出した。
小学校6年だったなぁ。
『二度と人前で涙は流さない』
と。
今でも、泣くことは好きだが、映画とか、人が居る所では、
極力泣かないようにつとめるw
泣きたくて仕方ないのにねw
そんなときは、家でバカ笑いして吹き飛ばしますw
泣きたくなったら自室に籠もりますw
小学校6年だったなぁ。
『二度と人前で涙は流さない』
と。
今でも、泣くことは好きだが、映画とか、人が居る所では、
極力泣かないようにつとめるw
泣きたくて仕方ないのにねw
そんなときは、家でバカ笑いして吹き飛ばしますw
泣きたくなったら自室に籠もりますw
Re:イインダヨ! グリーンダヨ!
自分は泣くことはおろか、感情総てを消し去ろうとした事があります。
今ではそれが間違いであった事に気付き、感情を解放していますが、泣くことが出来なくなってしまっています。
感情を消そうとし、その間違いに気付いた事は、自分にとって必要な過程ではあったのですが、泣けなくなっのは残念な所です。
今ではそれが間違いであった事に気付き、感情を解放していますが、泣くことが出来なくなってしまっています。
感情を消そうとし、その間違いに気付いた事は、自分にとって必要な過程ではあったのですが、泣けなくなっのは残念な所です。
Re:うんw
そうですね、いつか涙が戻ってくるのを信じています。