白球を突き、他の球をポケットに落とすゲーム、ビリヤード。
私はこのゲームが嫌いで嫌いでたまらない。
似たゲームとしてボーリングが上げられるけれど、ビリヤードに比べたら断然マシだ。
両者の共通点、それは他者を弾き、その存在を物理的に否定する事にある。
ボーリングがビリヤードよりマシな所は、ガーターがある点だろう。球の方にもリスクがある。
対してビリヤードの白球には、ゲームの主人公としての重要視された特殊なルールがある。
つまり、私にとって、白球は他者を排除するシンボル的存在であって、その厚顔で鉄面皮な所が気にくわない。
それは、私が自分を恥ずかしく思い、この世から消え去ってしまいたいと望む者だからだろう。
人に限らず、命の有る無しに関わらず、あらゆる物質、物体は、その空間に有る限りに於いて、他者の存在を否定する事になる。
その空間を占有するからだ。
簡単に言えば、水の満杯な浴槽に人が入る。すると、その人間分の体積と同じだけの水が溢れ、押し退けられる。
つまり何物かが存在するという事は、別の何物かが存在する可能性を奪い取る事なのだ。
まさしくビリヤードそのものではないだろうか。
他者を押し退け、自分の存在を主張、誇示をするゲーム。
何故、私がこんな考え方に染まったのか、その説明をしなければならないだろう。
自分を恥じ入り、消え去りたいという話は、すでにした。
問題は、その理由である。
私は精神的な病を患っているのだ。
いわゆる鬱である。
自分の呼吸すらが他人の酸素を奪い、人の迷惑になっていると感じている。
病が治らない事に対する肉親への思い。自分を責める気持ち。
それでも生き続けているのは、自分の足跡を滅したいのに、それは無理だと分かっているからだ。
自分が産まれ、育ち、その間に出会った人たちの記憶から私を消したい。自分の物、した事、された事、食べた物、その他、この世に関わり、生きた証を一つも残さず、消え失せてしまいたい。
けれども、そんな事は物理的に不可能なのだ。
一番、それに近しい事ができるとしたならば、なるたけ人の世を平穏に生き、最低限の人とだけ関わり合い、子孫を作らず、自然死をし、私を知る者が一人も居なくなった百数十年後まで待たねばなるまい。
市井の名も無き人間として生活し、一日も早く死ぬ事を願うだけの毎日。
他人を押し退けてまで生きていようとは思わない。
だから、私はビリヤードという自分を主張するゲームの、いや、白球の存在が嫌いなのだ。
到底、私には受け入れがたい。容認する事は許されない。
でも、本当は分かっている。
私がビリヤードを嫌っている理由は、一種の羨望があるからだ。
私は醜い嫉妬に駆られている。
そしてその思いの分だけ、他者を否定し、自分に拘泥している事にも。
分かっている。
この心の捻れのわけも。
私は自分が好きなのだ。
そして、同じくらいにそんな自分が許せず、嫌いなのだ。
私はこのゲームが嫌いで嫌いでたまらない。
似たゲームとしてボーリングが上げられるけれど、ビリヤードに比べたら断然マシだ。
両者の共通点、それは他者を弾き、その存在を物理的に否定する事にある。
ボーリングがビリヤードよりマシな所は、ガーターがある点だろう。球の方にもリスクがある。
対してビリヤードの白球には、ゲームの主人公としての重要視された特殊なルールがある。
つまり、私にとって、白球は他者を排除するシンボル的存在であって、その厚顔で鉄面皮な所が気にくわない。
それは、私が自分を恥ずかしく思い、この世から消え去ってしまいたいと望む者だからだろう。
人に限らず、命の有る無しに関わらず、あらゆる物質、物体は、その空間に有る限りに於いて、他者の存在を否定する事になる。
その空間を占有するからだ。
簡単に言えば、水の満杯な浴槽に人が入る。すると、その人間分の体積と同じだけの水が溢れ、押し退けられる。
つまり何物かが存在するという事は、別の何物かが存在する可能性を奪い取る事なのだ。
まさしくビリヤードそのものではないだろうか。
他者を押し退け、自分の存在を主張、誇示をするゲーム。
何故、私がこんな考え方に染まったのか、その説明をしなければならないだろう。
自分を恥じ入り、消え去りたいという話は、すでにした。
問題は、その理由である。
私は精神的な病を患っているのだ。
いわゆる鬱である。
自分の呼吸すらが他人の酸素を奪い、人の迷惑になっていると感じている。
病が治らない事に対する肉親への思い。自分を責める気持ち。
それでも生き続けているのは、自分の足跡を滅したいのに、それは無理だと分かっているからだ。
自分が産まれ、育ち、その間に出会った人たちの記憶から私を消したい。自分の物、した事、された事、食べた物、その他、この世に関わり、生きた証を一つも残さず、消え失せてしまいたい。
けれども、そんな事は物理的に不可能なのだ。
一番、それに近しい事ができるとしたならば、なるたけ人の世を平穏に生き、最低限の人とだけ関わり合い、子孫を作らず、自然死をし、私を知る者が一人も居なくなった百数十年後まで待たねばなるまい。
市井の名も無き人間として生活し、一日も早く死ぬ事を願うだけの毎日。
他人を押し退けてまで生きていようとは思わない。
だから、私はビリヤードという自分を主張するゲームの、いや、白球の存在が嫌いなのだ。
到底、私には受け入れがたい。容認する事は許されない。
でも、本当は分かっている。
私がビリヤードを嫌っている理由は、一種の羨望があるからだ。
私は醜い嫉妬に駆られている。
そしてその思いの分だけ、他者を否定し、自分に拘泥している事にも。
分かっている。
この心の捻れのわけも。
私は自分が好きなのだ。
そして、同じくらいにそんな自分が許せず、嫌いなのだ。
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