雨の降りしきる路地。
少年は、お気に入りの黄色い傘をさしている。
傘の下には濡れた髪の毛、黒いランドセル、制服と半ズボンを履いた小さい体。制服のポケットには、三年生の名札がついている。
少年は長靴で水たまりを跳ねるように歩いている。そのたびに水面はパシャパシャと音をたて、飛沫を放ち小さな波紋をいくつも作る。
軽やかなステップ。
彼はこの雨を楽しんでいるようだった。
少年の豊かな想像力と冒険心が、この水たまりをジャングルの奥地にある沼辺に見立てているのだ。
路地の一角に、雨樋を伝って流れる小さな滝を発見する。少年は傘を突き出し、修行僧の物真似をした。
腕を伝う水の振動は、少年のリビドーを充足させた。
彼はしばしの恍惚を味わう。
やがて、それにも飽きる。
糸のような滝から傘を外し、水を撥ね飛ばすように音をたてて歩く。
と、路地の出口付近にある電柱の物陰から、か細い獣の啼き声が聞えてきた。
見ると、ダンボールが電柱に隠れるように置いてある。蓋を開いて中を覗くと、二匹の仔猫が体を寄せ合い啼いていた。
そのうちの一匹は少年を見上げると、心細そうに声を上げた。
が、もう一匹は体を小刻みに震わせ、声も上げずに少年を一瞥するだけだった。その猫は再び頭を両腕で覆い丸くなる。と、クシャミのような高い音をたてた。
少年は湿った仔猫の体をひと撫ですると、ダンボールを抱えて走り出した。二匹に雨が当たらぬよう、傘の角度を変えながら。
マンションに到着すると、エレベーターを待ちきれずに階段を駆け昇る。部屋まで急ぎ、勢い良く扉を開いた。
「お母さん、お母さん」
長靴を脱ぐのももどかしく、少年は玄関先から母親を呼んだ。
そして母親が来るなりダンボールの中身を見せる。
「この猫、捨てられていたんだ。この丸まってる方、風邪かもしれない。ねぇ、可哀想だよ」
「困ったわね…このマンションがペット禁止なのは知ってるでしょう」
「でも――でも病気なんだ、少しだけでいいからミルクか何か――」
「癖になったらどうするの?この辺に居着かれでもしたら、ご近所の方にも迷惑でしょうし」
「…じゃあ、どうしたらいいの…?」
「戻してらっしゃい」
「でも!でもそしたら――」
「誰か他の人が拾ってくれるわよ」
「――」
「戻してきたら早く帰るのよ。風邪でもひいたら大変だわ。帰ったらすぐお風呂に入らなきゃ」
「――ウン……」
玄関を出ると少年は静かに扉を閉める。
トボトボと廊下を歩いていく。
エレベーターの箱を待ちながら、彼はお気に入りの傘を見つめた。
いつもは鮮やかな黄色い布地が、なぜだかいつもよりくすんで見えた。
エレベーターが着き、少年は乗り込む。
下降する部屋の中で、少年は胸の中の疑問を二匹に放った。
「――誰か、本当に拾ってくれるのかな――」
元気な方の仔猫は少年を見上げると「なぁに?」と、甘えてくるように首を傾げ、ニャーと啼いた。
「…拾ってくれるよな」
自分に言い聞かせるように少年は言うと、エレベーターを降り、マンションを出た。
少しの間に、雨足は強くなっていた。
傘を打つ雨の音も大きく、威力も強い。
少年が二匹を見つけた電柱に着く頃には風も吹き始め、横殴りの雨となっていた。
傘も持っているだけで精一杯。長靴の中にも雨は侵入し、ガポガポと水が音をたてる。
激しい雨から逃れるように、路地の奥へと移動する。しかし奥へ行きすぎては誰も二匹に気付かないかもしれなかった。
少年は迷い、そして他の場所を見つけることに決めた。
少し歩くと雨の凌げそうな場所を見つけることが出来た。しかしそこは吹き曝しで、冷たい風が吹き荒れている。
少年は身震いをした。
仔猫の様子が気になったのか、少年は一旦ダンボールを下ろし、中を覗いた。
少年が初めて二匹を見た時と同じく、仔猫たちは身を寄せ合っている。
しかし数十分前と比べると、明らかに元気がない。
二匹とも震え、動きが鈍くなっているようだ。
特に――いや、やはりと言うべきか、衰弱の酷いのは啼かずに丸まっている方の猫だ。
目を瞑っていて、体を撫でても五月蝿そうに耳を動かす位しか反応しない。
少年の鋭敏な心が、生命の危機を感じて大きく揺らいだ。
どうすればいいんだろう――彼は思った。お母さん――
しかし思い出されるのは先程の冷たい言葉だけ。
少年は矛盾を感じ、迷った。
学校では命は平等と教えられた。しかし現実はどうだ。
二匹の命は見捨てられるべき物なのか。
――世間に疎まれる命。
自分はこの猫を見つけるべきではなかったのか?少年は謂れのない罪悪感に捕われる。自分が拾わなければ、この間に猫を飼える誰かが見つけてくれたかもしれない。
いや、そんなことを言えば、この二匹が別の猫の元に産まれていれば――その前に、この仔猫が生まれてこなければ…。
少年は二匹を見る。
衰弱した仔猫は息をするのも辛いようだ。
もう一匹の仔猫が励ますように兄弟の顔を舐めている。
生と死の残酷さを思いながら少年はダンボールを手に、再び歩きだす。
水の入った長靴と壁を擦る傘の音が、雨水の伴奏に彩られ、奇妙な音色を醸しだした。
少年は暫く歩き、幾つかの角を曲がった。
いつしか道が開け、川原沿いの公園が雨空の下に広がる。
公園に続く階段を降りる。
増水した川と薄汚れた遊具――
ベンチへ近付くと、水滴も構わず座った。
お気に入りの傘を肩で支え、猫の入ったダンボールを傍らに置いた。
少年は元気な方の猫を取り上げると、その細い首をゆっくりと絞め始めた。
喉の奥でグルグルと猫が啼いている。
その震動を指先で感じながらも、少年は無表情で首を絞め続ける。
風雨によって体力を奪われた仔猫は、あっけないほど簡単に息を引き取った。
軽い命。
見た目よりも重い身体。
今、死んだばかりの猫と入れ違いに、衰弱している仔猫の体を持ち上げる。
青白い顔をして、少年はその猫の首をも絞め始めた。
その時、傘の先から滴が猫の鼻先へと濡れ落ちる。その滴は抵抗もせずに鼻の中へと滲み込んでいった。
――どうやら、この仔猫は既に命を落としていたようだ。
少年は二匹の遺体をダンボールの中に並べると、傘を手に増水した川へと近付く。
ぬかるんだ地面に小さな長靴の足跡が残る。
手を伸ばし、ダンボールを川の流れに差し入れた。
と、少年はバランスを崩し、泥の中へ尻餅をついてしまった。
お気に入りの傘は少年の体重によって押し潰される。無残にも骨は折れ、大好きだった黄色い布地も泥にまみれた。
ランドセルや制服、それに顔にまで泥は跳ね飛び、斑に汚す。
――ダンボールは無事に川の流れに乗って、川面を下流へと漂っていった。
少年は泥だらけになった顔を涙と鼻水でクシャクシャにして、流れ行くダンボールをいつまでも見送っていた。
しかし、いろいろ考えていくうちに、
この方法しかなかったんだろうなぁと、
涙ながらに読みふけりました。
死が見えていても、捨ててこなければいけないボクが取った行動を、
誰も咎めることはできないだろう。
いやぁ…
いつもながら『深い』ですなぁ。
(^-^)
道徳的に誉められはしないかもしれませんが、誰も非難は出来ないと思います。
痛みを知ることでしか大人になれないというのも残酷ですけれど。
心の痛みは生きている限り、大なり小なり必ずあります。
しかし少年には早すぎた試練だったかもしれません。
このトラウマを乗り越えることが出来ますように。