天使と悪魔は表裏一体の存在だ。
その顕著な例が、死の天使、サマエル。
サマエルは始め、病人を天に召すという重要な役割を持った天使であった。
しかし死を司るという性質のため、いつしか立場は死へ誘う悪魔として堕とされる。
そして、堕天使となり、死神の扱いを受けることとなった。
まさしく、聖と邪は表裏一体である。このことに気づいた19世紀の巨人は、神の存在を疑問視し、結果、ツラトシュトラを媒介とし、力への意思を示した。
だが、彼の指針は個による超人への憧憬であった。 そこに、彼の危うさを見受けることができる。
畢竟、人間とは社会的生物なのである。
彼の見落とした部分は、そこにある。
人とは、人との間、関わりを持ってこその人間なのだ。
個と個の思考、嗜好、志向とは、微妙に違い、その差によってバランスを保っている。
互いに研磨し、止揚することによって、人間社会は進歩して行く。
個と個のつながりが、超人対超人であることが望ましいのだが、自らを全肯定しながらも迷いの中に在る者である。
したがって、超人とは超人たるがゆえに、己が主張と他者の主張とは僅かな誤謬によって反発することも、想像に難くない。
それは当然、軋轢をもたらす。
ならば、これから我々の進むべき道とは何なのか。
そこに超人と対極にある、全否定をもってするのは安易かつ不適当で不誠実な対応であろう。
ディスプレイを見て、笹木は溜め息を吐く。
どうしたって、この後が続かないのだ。
それも当然と言えよう。
笹木は巨人の天才ではない。
彼は、明日締め切りのレポートを書いている一学生にすぎないのだ。
何杯目かのコーヒーを飲み、笹木はコメカミの強張りをほぐす。
そしてふと、手を伸ばす。
壁に掛けられたコルク製のパネル。
ピンで止められた、いくつか写真。
実家の猫、彼女の写真、友人の笑顔、ベースを弾く笹木、夜の中で彩られたモンサンミッシェル。
一つ一つ、笹木は写真に触れる。
指先で、撫でるように。
指紋がつくのも構わず。
手が、安らぎを感じる。
手に、思い出が伝わる。
手の、その指先から疲れが薄れ、暖かい優しさに包まれる。
手を、手を伸ばし、触れただけなのに、笹木は静寂覆われ、一瞬の安らぎに心を奪われる。
理屈じゃないんだ、笹木は思う。
小さな集団であっても、無私、無欲、無償、利他、自己犠牲の精神すら、個々人の思いは擦れ違う。
互いに思い合っていても、どれ程、皆の幸福を考えてした行動であっても。
それによって、人は諍う。
人間が、皆同じ考えを持つ方が異常なのだ。何かに突っ走る、集団心理と同様に。
悲しいけれど、それが現実というものだ。
人はどこまでも分かり合えない。だからこそ主張し、折り合いを付け、分かった気になって納得という妥協をする。
しかし、それは馴れ合いだ、予定調和でしかない。
不協和音を産み出さなければ、閉塞した現状を打破しえない。
そして、新しい不協和音は、ここにある。
笹木は手を握り締め、ディスプレイに視線を移す。
現実と電脳世界。
二つの世界は交錯し、しかし決して同一視してはならない。
なぜなら、それは理屈と本能の世界であるからだ。
今はまだ脆弱で確定定まらない、本能である電脳世界。
本能が牙を剥き、理性を凌駕した時代。
何が待ち受けるのか分からない。
けれど、変革はもう訪れている。
その顕著な例が、死の天使、サマエル。
サマエルは始め、病人を天に召すという重要な役割を持った天使であった。
しかし死を司るという性質のため、いつしか立場は死へ誘う悪魔として堕とされる。
そして、堕天使となり、死神の扱いを受けることとなった。
まさしく、聖と邪は表裏一体である。このことに気づいた19世紀の巨人は、神の存在を疑問視し、結果、ツラトシュトラを媒介とし、力への意思を示した。
だが、彼の指針は個による超人への憧憬であった。 そこに、彼の危うさを見受けることができる。
畢竟、人間とは社会的生物なのである。
彼の見落とした部分は、そこにある。
人とは、人との間、関わりを持ってこその人間なのだ。
個と個の思考、嗜好、志向とは、微妙に違い、その差によってバランスを保っている。
互いに研磨し、止揚することによって、人間社会は進歩して行く。
個と個のつながりが、超人対超人であることが望ましいのだが、自らを全肯定しながらも迷いの中に在る者である。
したがって、超人とは超人たるがゆえに、己が主張と他者の主張とは僅かな誤謬によって反発することも、想像に難くない。
それは当然、軋轢をもたらす。
ならば、これから我々の進むべき道とは何なのか。
そこに超人と対極にある、全否定をもってするのは安易かつ不適当で不誠実な対応であろう。
ディスプレイを見て、笹木は溜め息を吐く。
どうしたって、この後が続かないのだ。
それも当然と言えよう。
笹木は巨人の天才ではない。
彼は、明日締め切りのレポートを書いている一学生にすぎないのだ。
何杯目かのコーヒーを飲み、笹木はコメカミの強張りをほぐす。
そしてふと、手を伸ばす。
壁に掛けられたコルク製のパネル。
ピンで止められた、いくつか写真。
実家の猫、彼女の写真、友人の笑顔、ベースを弾く笹木、夜の中で彩られたモンサンミッシェル。
一つ一つ、笹木は写真に触れる。
指先で、撫でるように。
指紋がつくのも構わず。
手が、安らぎを感じる。
手に、思い出が伝わる。
手の、その指先から疲れが薄れ、暖かい優しさに包まれる。
手を、手を伸ばし、触れただけなのに、笹木は静寂覆われ、一瞬の安らぎに心を奪われる。
理屈じゃないんだ、笹木は思う。
小さな集団であっても、無私、無欲、無償、利他、自己犠牲の精神すら、個々人の思いは擦れ違う。
互いに思い合っていても、どれ程、皆の幸福を考えてした行動であっても。
それによって、人は諍う。
人間が、皆同じ考えを持つ方が異常なのだ。何かに突っ走る、集団心理と同様に。
悲しいけれど、それが現実というものだ。
人はどこまでも分かり合えない。だからこそ主張し、折り合いを付け、分かった気になって納得という妥協をする。
しかし、それは馴れ合いだ、予定調和でしかない。
不協和音を産み出さなければ、閉塞した現状を打破しえない。
そして、新しい不協和音は、ここにある。
笹木は手を握り締め、ディスプレイに視線を移す。
現実と電脳世界。
二つの世界は交錯し、しかし決して同一視してはならない。
なぜなら、それは理屈と本能の世界であるからだ。
今はまだ脆弱で確定定まらない、本能である電脳世界。
本能が牙を剥き、理性を凌駕した時代。
何が待ち受けるのか分からない。
けれど、変革はもう訪れている。
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