飢えた一族の数は三十。
ネズミたちの瞳は黒く、爛爛と光っている。
血にしたたる生肉を目にした猛獣、湯気を上げて食べ残された臓物を見る猛禽、大金に目がくらんだ人間のように、たぎる情熱を抑えきれず、今にも飛びかからんばかりの勢いで、カゴの中のチーズを見つめている。
だが、一匹も動かない。
熱を帯びた異様な静謐の中には張りつめた空気独特の緊張感が溢れている。
彼らは知っているのだ。それが罠であることに。
格別に大きなチーズはカゴの中に、針金によってぶら下がっている。チーズに喰らい付いたが最後、その者は仕掛けられたバネによって扉が閉められ、外に出ることは叶わない。
そうして人間の手によって、どこかへと運ばれていくのだ。
彼らは、幾匹もの同胞の、罠にかかった姿を見てきている。
捕らえられた者がどんな末路にあうかは分からない。しかし、彼らは一匹たりとも戻ってはこないのだ。
いくら愚鈍な者でも長い経験から、それがネズミ駆除の罠であることに気付いている。
昔は、もっとシンプルな罠だった。
バネ仕掛けなのは同じだが、コの字型の鉄の棒が、チーズを口にした者を挟み、死の苦痛を味わわせていたのだ。 彼らネズミは板と鉄のついたチーズを警戒し、どうにか逃れる術を身につける者もいた。が、大抵の者は寄りつかず、罠としての機能性は格段に劣化した。
罠を仕掛ける側、つまり人間もネズミの学習能力に感心しつつ、以前の欠点を埋める罠を次々と開発しているのだ。
餌に似せた毒薬、簡単な仕組みから複雑なものへ。
巧妙な仕掛けは罠から逃れ、チーズだけを取る方法を難しくし、今では確実に捕らえられてしまうまでに進歩している。
仕掛けが複雑化したおかげで、チーズを取っても罠が作動しない時もあったが、今ではこのタイプも精度が上がり、数々の仲間が連れ去られている。
そして今、彼らの目の前にあるのはカゴ型の罠。
さらには厳寒の冬。
口にできるものの極端に少ない季節な上に、今年の冬は異常な寒さであった。
体を押し付け、群れて夜を過していても、凍死する者が出る始末。
これには体力の低下が伴っていることは確実だろう。
そこで、このネズミグループの長は禁じ手ともいえる、最後の手段に打って出た。
これから、その作業が始まる。
周囲に漂う異様な雰囲気は、この作戦による期待と猟奇性による高揚性も手伝っていたといえるだろう。
リーダーの鼻がヒクヒクと動き、同時にヒゲが上下すると、年老いた一匹のメスネズミが隣に立った。
「本当に良いんだな」リーダーが尋ねる。
「ええ、ええ。構いはしないんですよ」老ネズミは言う。「私はちょっと生き過ぎたくらいなんですからね。こんな私でも皆の役に立てるなら、それで本望なんですよ」
「分かった」リーダーは言い放つと、そっぽを向いた。
「ただ、残念なのはね」老ネズミが再び口を開く。「私は痩せすぎているということ。もっと太っていたら――」
「やめろ」リーダーが口を挟む。「それは他の皆も同じことだ。今は食い物が無い。ここに居る全員、お前と同じくガリガリに痩せているんだ。それを言い訳に辞退することはできん」
「分かっていますよ。もう覚悟はできているんです。ただ、それだけが残念でねぇ」
「気持ちは分かった」リーダーは冷たく言った。「他に言うことはないか」
「ただ、痩せていることが残念でねぇ。それだけが残念なだけですよ」
リーダーは頷く。そして言った。
「始めよう」
号令には一切の感情も無かった。
熱気に包まれ浮き足立ったグループ全員にその声は届き、場は一瞬にして厳粛なものへと変わった。
のろのろと、重たい足取りで老ネズミはカゴの中へ入って行く。
全員が、彼女の一挙手一投足に注視している。
しかし老ネズミの速度は変わらない。あくまで落ち着き、その丸い背中には悲壮感もない。
「ちょっとお隣の老ネズミとお話しでもしようかしら」そんな具合に自然で、あまりにも平凡にすぎた。
けれど、それこそがグループ内の数匹に感動の涙を齎した。
老ネズミはすすり泣く声など聞こえないように振り返らず、のそのそとマイペースでチーズに近付いていった。
そしてチーズに手を掛け、針金から外す。
その瞬間、轟音と同時に扉が閉まり、老ネズミはカゴに囚われた。
しかし彼女は平然としてチーズを手にカゴの中を歩く。
チーズをカゴの側面の網目に力一杯押しつけた。
だが、夏場ならいざ知らず、この寒さではチーズは凍り、裂けて外へ出すのは難しい。
リーダーの支持の下、グループは一斉に動き、老ネズミを手伝って、細かく千切りながらあるいは食べ、あるいは他の者へと手渡した。
チーズはあっという間に平らげられ、ネズミのグループは久々の満腹感を味わった。
もちろん老ネズミは一片のチーズも口にはしていない。
優しそうな目をして、消えて行くチーズを見ていただけだ。
そして責任あるリーダーは、全員に満遍なくチーズが渡ったか、不正はなかったかと監視していたために、最小限の食事しかしなかった。
グループが引き上げる中、リーダーはカゴの中の老ネズミに声を掛けた。
「できるだけ、網目の近くで死んでくれよ」
この寒さだ、飢えたネズミが一匹だけで夜を過せば確実に死ぬ。ましてやこのグループの一番の年寄り。
今は満腹でも、明日にはまた腹が減る。
そう。この計画は二重作戦だったのだ。
老ネズミがチーズを仲間に配り、そして凍死する。凍死した老ネズミの体を今度は食べる。そのような手筈になっていたのだ。
「ええ、ええ。分かっていますよ」老ネズミは優しく言う。「全てはお前のため、仲間のため、なんですからね」
「すまない」リーダーは涙を零した。「すみません、お母様」
「良いんだよ。さあ涙を拭いて。あらまあ、これじゃ子供みたいじゃないか。ほらほら、泣き止んだら仲間のところへ戻って命令しなくちゃいけないんだよ。そうそう。ちゃんとして。ほら、向こうで皆が待ってるよ」
リーダーは威厳を取り戻して、グループの待つ巣へと帰っていった。
息子の後姿を網目越しに見て、老ネズミは満足そうに鼻をヒクヒクさせる。同時にヒゲが上下する。
そして老ネズミは、夜になるのを待った。金網に細い腕とピンク色の尻尾を絡ませて。
徐々に日は沈み、青白い冷気が強さを増す。
老ネズミは小刻みに体を震わせていたが、次第に眠気に包まれ始める。
彼女は夢を見た。
幼い子ネズミたちが目を輝かせて彼女の肉を喰らう様を。しかしその幼子は息子であるあのリーダーの顔。
「寒いよ、寒い。でも泣いちゃだめだよ。あんたは立派な大人になるんだから」老ネズミはつぶやく。「それにしても残念だねぇ。本当に残念だよ。私がもっと太っていたら、お前のお腹も膨れるだろうに」彼女はあまりの寒さで幻を見、息子に食われ、痛み無く彼の一部になれるという幸せな幻覚の中に居た。「しかしこの寒さは、いつまで続くんだろう。おう、よしよし。寒いねぇ。本当に寒い――」
ネズミたちの瞳は黒く、爛爛と光っている。
血にしたたる生肉を目にした猛獣、湯気を上げて食べ残された臓物を見る猛禽、大金に目がくらんだ人間のように、たぎる情熱を抑えきれず、今にも飛びかからんばかりの勢いで、カゴの中のチーズを見つめている。
だが、一匹も動かない。
熱を帯びた異様な静謐の中には張りつめた空気独特の緊張感が溢れている。
彼らは知っているのだ。それが罠であることに。
格別に大きなチーズはカゴの中に、針金によってぶら下がっている。チーズに喰らい付いたが最後、その者は仕掛けられたバネによって扉が閉められ、外に出ることは叶わない。
そうして人間の手によって、どこかへと運ばれていくのだ。
彼らは、幾匹もの同胞の、罠にかかった姿を見てきている。
捕らえられた者がどんな末路にあうかは分からない。しかし、彼らは一匹たりとも戻ってはこないのだ。
いくら愚鈍な者でも長い経験から、それがネズミ駆除の罠であることに気付いている。
昔は、もっとシンプルな罠だった。
バネ仕掛けなのは同じだが、コの字型の鉄の棒が、チーズを口にした者を挟み、死の苦痛を味わわせていたのだ。 彼らネズミは板と鉄のついたチーズを警戒し、どうにか逃れる術を身につける者もいた。が、大抵の者は寄りつかず、罠としての機能性は格段に劣化した。
罠を仕掛ける側、つまり人間もネズミの学習能力に感心しつつ、以前の欠点を埋める罠を次々と開発しているのだ。
餌に似せた毒薬、簡単な仕組みから複雑なものへ。
巧妙な仕掛けは罠から逃れ、チーズだけを取る方法を難しくし、今では確実に捕らえられてしまうまでに進歩している。
仕掛けが複雑化したおかげで、チーズを取っても罠が作動しない時もあったが、今ではこのタイプも精度が上がり、数々の仲間が連れ去られている。
そして今、彼らの目の前にあるのはカゴ型の罠。
さらには厳寒の冬。
口にできるものの極端に少ない季節な上に、今年の冬は異常な寒さであった。
体を押し付け、群れて夜を過していても、凍死する者が出る始末。
これには体力の低下が伴っていることは確実だろう。
そこで、このネズミグループの長は禁じ手ともいえる、最後の手段に打って出た。
これから、その作業が始まる。
周囲に漂う異様な雰囲気は、この作戦による期待と猟奇性による高揚性も手伝っていたといえるだろう。
リーダーの鼻がヒクヒクと動き、同時にヒゲが上下すると、年老いた一匹のメスネズミが隣に立った。
「本当に良いんだな」リーダーが尋ねる。
「ええ、ええ。構いはしないんですよ」老ネズミは言う。「私はちょっと生き過ぎたくらいなんですからね。こんな私でも皆の役に立てるなら、それで本望なんですよ」
「分かった」リーダーは言い放つと、そっぽを向いた。
「ただ、残念なのはね」老ネズミが再び口を開く。「私は痩せすぎているということ。もっと太っていたら――」
「やめろ」リーダーが口を挟む。「それは他の皆も同じことだ。今は食い物が無い。ここに居る全員、お前と同じくガリガリに痩せているんだ。それを言い訳に辞退することはできん」
「分かっていますよ。もう覚悟はできているんです。ただ、それだけが残念でねぇ」
「気持ちは分かった」リーダーは冷たく言った。「他に言うことはないか」
「ただ、痩せていることが残念でねぇ。それだけが残念なだけですよ」
リーダーは頷く。そして言った。
「始めよう」
号令には一切の感情も無かった。
熱気に包まれ浮き足立ったグループ全員にその声は届き、場は一瞬にして厳粛なものへと変わった。
のろのろと、重たい足取りで老ネズミはカゴの中へ入って行く。
全員が、彼女の一挙手一投足に注視している。
しかし老ネズミの速度は変わらない。あくまで落ち着き、その丸い背中には悲壮感もない。
「ちょっとお隣の老ネズミとお話しでもしようかしら」そんな具合に自然で、あまりにも平凡にすぎた。
けれど、それこそがグループ内の数匹に感動の涙を齎した。
老ネズミはすすり泣く声など聞こえないように振り返らず、のそのそとマイペースでチーズに近付いていった。
そしてチーズに手を掛け、針金から外す。
その瞬間、轟音と同時に扉が閉まり、老ネズミはカゴに囚われた。
しかし彼女は平然としてチーズを手にカゴの中を歩く。
チーズをカゴの側面の網目に力一杯押しつけた。
だが、夏場ならいざ知らず、この寒さではチーズは凍り、裂けて外へ出すのは難しい。
リーダーの支持の下、グループは一斉に動き、老ネズミを手伝って、細かく千切りながらあるいは食べ、あるいは他の者へと手渡した。
チーズはあっという間に平らげられ、ネズミのグループは久々の満腹感を味わった。
もちろん老ネズミは一片のチーズも口にはしていない。
優しそうな目をして、消えて行くチーズを見ていただけだ。
そして責任あるリーダーは、全員に満遍なくチーズが渡ったか、不正はなかったかと監視していたために、最小限の食事しかしなかった。
グループが引き上げる中、リーダーはカゴの中の老ネズミに声を掛けた。
「できるだけ、網目の近くで死んでくれよ」
この寒さだ、飢えたネズミが一匹だけで夜を過せば確実に死ぬ。ましてやこのグループの一番の年寄り。
今は満腹でも、明日にはまた腹が減る。
そう。この計画は二重作戦だったのだ。
老ネズミがチーズを仲間に配り、そして凍死する。凍死した老ネズミの体を今度は食べる。そのような手筈になっていたのだ。
「ええ、ええ。分かっていますよ」老ネズミは優しく言う。「全てはお前のため、仲間のため、なんですからね」
「すまない」リーダーは涙を零した。「すみません、お母様」
「良いんだよ。さあ涙を拭いて。あらまあ、これじゃ子供みたいじゃないか。ほらほら、泣き止んだら仲間のところへ戻って命令しなくちゃいけないんだよ。そうそう。ちゃんとして。ほら、向こうで皆が待ってるよ」
リーダーは威厳を取り戻して、グループの待つ巣へと帰っていった。
息子の後姿を網目越しに見て、老ネズミは満足そうに鼻をヒクヒクさせる。同時にヒゲが上下する。
そして老ネズミは、夜になるのを待った。金網に細い腕とピンク色の尻尾を絡ませて。
徐々に日は沈み、青白い冷気が強さを増す。
老ネズミは小刻みに体を震わせていたが、次第に眠気に包まれ始める。
彼女は夢を見た。
幼い子ネズミたちが目を輝かせて彼女の肉を喰らう様を。しかしその幼子は息子であるあのリーダーの顔。
「寒いよ、寒い。でも泣いちゃだめだよ。あんたは立派な大人になるんだから」老ネズミはつぶやく。「それにしても残念だねぇ。本当に残念だよ。私がもっと太っていたら、お前のお腹も膨れるだろうに」彼女はあまりの寒さで幻を見、息子に食われ、痛み無く彼の一部になれるという幸せな幻覚の中に居た。「しかしこの寒さは、いつまで続くんだろう。おう、よしよし。寒いねぇ。本当に寒い――」
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