登場人物は西洋風の王冠と服を纏った王、そして滑稽な程きらびやかに装った道化のみ。
王、羽根ペンを放り投げて。
「ああ、なんという仕事の煩わしさよ」
道化、羽根ペンを拾い、懐にしまいながら。
「おお、それが数多くの民草を総べる者の口にすべき言葉ですかい?次のあなたの地位を巡って、すでに数々の有象無象が跋扈しているというのに」
王、鼻息を荒くして。
「ふん。この泥棒めが。ペン一本をそれほどまでに恭しそうにしまいこみながら、宰相のような口振りで、よう言うわい。お前はあの芝居を知らんのか。ほら、一人の市民が王と身分を一日だけ取り替えてみたならば、天井から己目掛けて一本の剣が垂れ下がっていたという話を」
「ええ、ええ。そのお話は存じてございますとも」
「毎日をその責務の下に行っているのだ。何者かが朕の命を狙っていようが同じことよ。朕は今、失望の中に居るのだからな」
「失望ですと?絶望の間違いではないのですかい?」
「ふん。朕の揚げ足を取ったようにニヤつきおって。失望と絶望との違いすらお前には分からんと見えるな」
道化、あたふたと周りを見て何かを探しながら。
「ちょいと待ってくださいよ旦那様。私めには学が無いものでございまして――ええと……あったあった。この辞書にて調べさせて頂きますよ」道化、辞書を捲りながら。「学は無くとも字は読める。これも旦那様のおかげというものでございまして――」
「おべっかは、もう良い」
「そうですか? 私なんぞは一日中おべっかを言われて暮らしてみたい質なんだが、どうしてかおべっかを一日中使う身の上におりまして――こんなお話なぞ退屈でしょうな。さっさと調べてみましょうか――おっと、これだぁ『失望 一、望みを失うこと。二、あてが外れてガッカリすること』『絶望 望みがまったく絶えること』」道化、顔を上げて。「何ですかい、こりゃあ。私には違いがまったく分かりませんがね」
王、馬鹿にしたような笑みを浮かべつつ。
「ふん。辞書なんかですべてが分かってたまるものか」
道化、まさしくお道化て。
「旦那様もお人が悪い。それならそうと初めっから教えてくれりゃあ、こんな手間なぞ必要なかったでしょうに」
王、道化を無視して一転、暗い表情。
「朕の言う失望とは諦めのことよ。もはやすべてがどうでも良い。絶望というものは一種の自己憐憫でな、自らを憐れと思い、おお可哀想にと甘えの殻に閉じ籠もっているにすぎんのだ。失望となれば、そのような甘えなどで自己を包むことなど、どうでも良いのさ。否、むしろすべてがどうでも良い。もうどうにでもなれという心境なのだ」
道化、狐につままれたような顔で。
「はてさて、違いが一行に分かりませんが」
「そうでもあろうさ。これは実際に味わった者でしか分からぬ種類のものであるからな。あえて分かりやすく説明するならば、もう駄目だと思っているのが絶望さ。どうにもできない、どうにかしたい、その狭間で苦しんでいる哀れさ、物悲しさを思い嘆いているということだ。対して失望とはそれを越え、どうにもならずにすべてを受け入れるしかない状態。己の身の破滅も抵抗なく受け入れよう」
「つまり絶望には希望もあるわけで、失望にはそれがないと?」
王、意外そうに。
「その通りだ」
道化、辞書を捲り。
「『希望 一、願い望むこと。二、よい見通し、期待』とありますな」
王、手を振り払い。
「辞書の言葉などどうでも良い」
「どうでも良くはありますまい」道化、辞書をしまう。「学者のお歴歴が編まれたものですからね。しかし希望という奴は不思議でなりませんな。希望とは良き物でございましょう? それなのにパンドラの箱に様様な厄災と共に入っていた。その理由がまるきり分かりません」
「それは朕が昔、お前に聞かせた話であったな。だが箱というのはどうやら間違い、すなわち誤訳であった可能性もあるとのこと。正しくは箱ではなく坩堝であったらしい」
「してみると希望というのも誤訳なわけで?」
「いやいや、それはさすがになかろうよ。希望には災厄と共にあるべき理由があるのだ」
道化、興味深そうに。
「ご存知なんですね? 一体、それはなんですか? もったいぶらないで教えて下さいまし、旦那様」
王、冷たい目をして頷く。
「うむ。希望とはな、甘い誘惑、惑乱するもの、淡い期待、夢。つまりは目くらましということよ。甘言に乗りて人は大地から離れ、己の身の丈に合った所から出ようとする。中には新しき居場所を見つける者もいるだろう。しかしその足下には夢破れ、悲嘆に呻き、今日のパンを買う金も無く路上に死を曝す者。成功者への呪詛を吐き、言葉を弄して奪う者。天に唾して自らの顔にその唾が降りかかる。そんな者のどれほど居ることか。人は大地に足を付けねばならん。それができぬ者のみが駆けるべき茨の道を、さも金のなる木に見立てるのが希望という奴の正体なのだ」
道化、笑いつつ。
「なるほど、なるほど」
王、奇妙なものを見る目つきで。
「その納得は、何か別のものを得心したようであるな」
「ひっひっひ。さすがは旦那様。誰よりも私めのことをご存知で」
「世辞は良い。何を考えておるのだ」
「いえね、今の旦那様のお言葉ですと、どうやら私も旦那様も地に足の付かない人間。つまりは同じ側に立つ者同士なのではないかなどと思いまして」
王、苦笑して。
「知れたことよ。だから王は例外なく道化を傍らへ置き、己の陰を見失うまいとするのさ」
「私めが陰ですかい、こんなに陽気なのに?失礼ながら旦那様の方がお暗いご様子にお見えなさるが?」
王、独白。
「ふん。所詮道化は道化か。同じ地に足が付かぬ同士でも、別の場所を走っていることに気付かず思い上がっている。そろそろこいつにも飽きてきた。首を刎ね、次の道化を雇うとするか。王も道化も取り替えがきく。なんとも不様で愚かなことよ」
参考・角川国語辞典
王、羽根ペンを放り投げて。
「ああ、なんという仕事の煩わしさよ」
道化、羽根ペンを拾い、懐にしまいながら。
「おお、それが数多くの民草を総べる者の口にすべき言葉ですかい?次のあなたの地位を巡って、すでに数々の有象無象が跋扈しているというのに」
王、鼻息を荒くして。
「ふん。この泥棒めが。ペン一本をそれほどまでに恭しそうにしまいこみながら、宰相のような口振りで、よう言うわい。お前はあの芝居を知らんのか。ほら、一人の市民が王と身分を一日だけ取り替えてみたならば、天井から己目掛けて一本の剣が垂れ下がっていたという話を」
「ええ、ええ。そのお話は存じてございますとも」
「毎日をその責務の下に行っているのだ。何者かが朕の命を狙っていようが同じことよ。朕は今、失望の中に居るのだからな」
「失望ですと?絶望の間違いではないのですかい?」
「ふん。朕の揚げ足を取ったようにニヤつきおって。失望と絶望との違いすらお前には分からんと見えるな」
道化、あたふたと周りを見て何かを探しながら。
「ちょいと待ってくださいよ旦那様。私めには学が無いものでございまして――ええと……あったあった。この辞書にて調べさせて頂きますよ」道化、辞書を捲りながら。「学は無くとも字は読める。これも旦那様のおかげというものでございまして――」
「おべっかは、もう良い」
「そうですか? 私なんぞは一日中おべっかを言われて暮らしてみたい質なんだが、どうしてかおべっかを一日中使う身の上におりまして――こんなお話なぞ退屈でしょうな。さっさと調べてみましょうか――おっと、これだぁ『失望 一、望みを失うこと。二、あてが外れてガッカリすること』『絶望 望みがまったく絶えること』」道化、顔を上げて。「何ですかい、こりゃあ。私には違いがまったく分かりませんがね」
王、馬鹿にしたような笑みを浮かべつつ。
「ふん。辞書なんかですべてが分かってたまるものか」
道化、まさしくお道化て。
「旦那様もお人が悪い。それならそうと初めっから教えてくれりゃあ、こんな手間なぞ必要なかったでしょうに」
王、道化を無視して一転、暗い表情。
「朕の言う失望とは諦めのことよ。もはやすべてがどうでも良い。絶望というものは一種の自己憐憫でな、自らを憐れと思い、おお可哀想にと甘えの殻に閉じ籠もっているにすぎんのだ。失望となれば、そのような甘えなどで自己を包むことなど、どうでも良いのさ。否、むしろすべてがどうでも良い。もうどうにでもなれという心境なのだ」
道化、狐につままれたような顔で。
「はてさて、違いが一行に分かりませんが」
「そうでもあろうさ。これは実際に味わった者でしか分からぬ種類のものであるからな。あえて分かりやすく説明するならば、もう駄目だと思っているのが絶望さ。どうにもできない、どうにかしたい、その狭間で苦しんでいる哀れさ、物悲しさを思い嘆いているということだ。対して失望とはそれを越え、どうにもならずにすべてを受け入れるしかない状態。己の身の破滅も抵抗なく受け入れよう」
「つまり絶望には希望もあるわけで、失望にはそれがないと?」
王、意外そうに。
「その通りだ」
道化、辞書を捲り。
「『希望 一、願い望むこと。二、よい見通し、期待』とありますな」
王、手を振り払い。
「辞書の言葉などどうでも良い」
「どうでも良くはありますまい」道化、辞書をしまう。「学者のお歴歴が編まれたものですからね。しかし希望という奴は不思議でなりませんな。希望とは良き物でございましょう? それなのにパンドラの箱に様様な厄災と共に入っていた。その理由がまるきり分かりません」
「それは朕が昔、お前に聞かせた話であったな。だが箱というのはどうやら間違い、すなわち誤訳であった可能性もあるとのこと。正しくは箱ではなく坩堝であったらしい」
「してみると希望というのも誤訳なわけで?」
「いやいや、それはさすがになかろうよ。希望には災厄と共にあるべき理由があるのだ」
道化、興味深そうに。
「ご存知なんですね? 一体、それはなんですか? もったいぶらないで教えて下さいまし、旦那様」
王、冷たい目をして頷く。
「うむ。希望とはな、甘い誘惑、惑乱するもの、淡い期待、夢。つまりは目くらましということよ。甘言に乗りて人は大地から離れ、己の身の丈に合った所から出ようとする。中には新しき居場所を見つける者もいるだろう。しかしその足下には夢破れ、悲嘆に呻き、今日のパンを買う金も無く路上に死を曝す者。成功者への呪詛を吐き、言葉を弄して奪う者。天に唾して自らの顔にその唾が降りかかる。そんな者のどれほど居ることか。人は大地に足を付けねばならん。それができぬ者のみが駆けるべき茨の道を、さも金のなる木に見立てるのが希望という奴の正体なのだ」
道化、笑いつつ。
「なるほど、なるほど」
王、奇妙なものを見る目つきで。
「その納得は、何か別のものを得心したようであるな」
「ひっひっひ。さすがは旦那様。誰よりも私めのことをご存知で」
「世辞は良い。何を考えておるのだ」
「いえね、今の旦那様のお言葉ですと、どうやら私も旦那様も地に足の付かない人間。つまりは同じ側に立つ者同士なのではないかなどと思いまして」
王、苦笑して。
「知れたことよ。だから王は例外なく道化を傍らへ置き、己の陰を見失うまいとするのさ」
「私めが陰ですかい、こんなに陽気なのに?失礼ながら旦那様の方がお暗いご様子にお見えなさるが?」
王、独白。
「ふん。所詮道化は道化か。同じ地に足が付かぬ同士でも、別の場所を走っていることに気付かず思い上がっている。そろそろこいつにも飽きてきた。首を刎ね、次の道化を雇うとするか。王も道化も取り替えがきく。なんとも不様で愚かなことよ」
参考・角川国語辞典
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Re:ふぅむ
ご愛読、ありがとうございますm(_ _)m
ゲーテのファウストを読んで思い付いた構成です。
さらに内容は「もう駄目だより、もう良いやと思う方が危険」と言った、太宰治のパクリみたいなものなのですが、自分なりに昇華してみたつもりです(^_^;)
ゲーテのファウストを読んで思い付いた構成です。
さらに内容は「もう駄目だより、もう良いやと思う方が危険」と言った、太宰治のパクリみたいなものなのですが、自分なりに昇華してみたつもりです(^_^;)
Re:うんうん。
これからも是非、よろしくお願いしますm(_ _)m