喉が渇く。
たまらない。どうしようもないほどカラカラに渇いている。
水は、あることはあるのだが――
見渡す限りの荒れ果てた大地。
破裂した水道管から吹き出す水は、すでに汚染され飲めたものではない。
いや、自分自身だって侵されているのだ。
放射能に。
この国はもう、終わってしまったのだ。
いや、この国だけではない。世界は核によって齎された死の灰によって覆われている。
五つの大陸は焦土と化している。
人の歴史は終わりつつあるのだろう。
でも――そんなことより、今は喉の渇きだ。
目の前に吹き出る水道管の水。やはりどうしても視線はそこへ行ってしまう。
この水を飲まずにいたところで、僕にはもう長生きなどできるワケがない。
それは分かっている。でも…
でも自分の命は惜しい。水を飲むことには抵抗がある。
「ゲホッ」
咳とともに血の味が腔内に広がる。
吐き出された黒い染みが赤茶けた地面にへばりつく。
――ゴクリ。
口の中に残る血を飲み込む。
うまく飲み込めずに、喉には粘ついた感覚だけが残った。
意に反し、干からびた体が水を求める。
ズルズルと這いずるように前進し、水たまりの中に浸る。僕はさらに進んだ。
水の迸る水道管に向かって。
ぬかるんだ土で手を滑らせ、思わず顔を水につかった。
はっとする。
イヤだ!
こんな水、飲みたくない。体が水を求めていたとしても、それはこの汚染された水なんかじゃない。
これを飲んだら、確実に死ぬ。
僕は慌てて顔を引き上げた。
そのまま四つん這いになってひと休みをする。
髪から垂れた水滴が水面を揺らす。
波紋によって崩れた顔が水溜りに映った。
ひどく疲れた、薄汚い僕の顔…
その顔を見て、僕はふと不思議な気分になった。
一体、僕は何のためにガマンをしているのだろう。たとえ生き延びたとしても、もっと悲惨な地獄を見るだけだろう。
――そう。
いったい僕に何ができるっていうんだ?
世界が再建しなければ僕には何もできない。再建する力もなければ、そんなことをしようとするほどの気力もない。
僕は無力だ。
生きたいがために水を求め、生きるために水を拒む。
マッタク、惨めな人生だ。
バシャバシャと水を掻き分け、水道管に向かう。
こんな惨めな思いはイヤだ。
吹き出す水に口を付け、一気に飲んだ。
何度も咳こみ、むせかえる。それでも気にせず、力一杯、飽きることなく飲み続けた。
でも、最後の咳だけは違った。
内臓を抉り出されるような痛み。
水と一緒に、大量の血を吐いた。
再び味わう、口の中の血の臭い。
僕は思わず微笑んだ。
血を吐いたって構うものか。
世界の終わりなんて気にしない。
自分の破滅もどうでもいい。
水を目前に渇死する。
そういう終わり方がイヤになっただけ。後悔なんてしたくない。それだけだ。
…ちょっとキザだったかな。『溺れる者はワラをも掴む』そんな心境だったのかもしれないな――ちょっと違う?
「うふふ」
でも、もうどうでもいい。
笑いながら死ねる。それだけで十分じゃないか。
あとは血を吐き、死ぬだけだ。
「ぼくは空を飛びたい。だから翼が欲しいんだ。君の翼をぼくにくれ」
少年はそう言うと、少女の翼を静かに剥ぎ取る。
少女はすでに飛ぶことを嫌い、絶望し、疲れていたので、黙って痛みに耐えていた。
少年は剥ぎ取った一対の翼を自分の体に付けようとする。しかしそれはどうやってもできなかった。
悔しそうにして、少年は翼を返す。
だが少女は受け取ろうとしない。
仕方がないので、少年はその場に翼を置いて立ち去った。
やがて少女は成長して女となる。
女は空飛ぶことを再び願った。
昔、自分の捨てた翼のことを思い出す。
女は必死に探し、ようやく翼を見つけた時、すでにそれは腐っていた。
使い物にならない翼を手に、女は一人、寂しげに涙を流す。
今日は楽しみにしていた花火の日。
五歳の清香にとっては、初めての花火大会だった。
興奮して昼寝もせず、彼女は画用紙に絵を描いている。
クレヨンで描かれた絵は、彼女の想像した花火の絵だ。
赤い渦巻きの外側に、放射状の線が広がっている。それは花火というよりも、むしろ太陽のようであった。
そんな絵がひとつの画用紙にいくつも描かれている。
しかし三時を過ぎた頃には雲行きが怪しくなってきた。
黒い雲が押し寄せ、ポツリポツリと雨が落ちてくる。
「雨降ってきたよー」清香は半泣きで母親に言う。「雨降ってきたー」
母親は清香の心中を察し、頭を撫でる。
「大丈夫よ、夕立だからすぐに止むわ」
「ホント?」
「ええ。本当よ」
なおも不安げな清香に、母親は力強く言い切った。
清香は窓に張り付き外を見る。
晴れ間が戻るのを心待ちにしている。
庭先にあるブロック塀を雨の滴が黒く塗り潰していく。
雨足は徐々に強くなる。
清香は少し、悲しくなった。
しかし十分も過ぎるとピークを迎え、夕立は嘘のように去っていった。
雲の切れ間に虹が見える。
「ママ、虹だよ!虹」清香は指差し叫ぶ。
子供特有のテンションの高さで彼女ははしゃぎ回った。
兄夫婦の前で、清香の両親はバツが悪そうにしている。宥めようにも彼女の興奮は簡単に治まりそうにない。
すいませんと謝る母親に向かって、子供のいない嫂はいいのよと笑って答える。
騒々しい時間はあっという間に過ぎ去る。
太陽の熱で夕立の跡も消え、緩んだ暑さも力を取り戻す。
やがてヒグラシが鳴き始め、誰そ彼時の黄色い色が空を覆う。
はしゃぎ疲れたのか、清香はうつらうつらと船を漕いでいる。
眠らないように励ます両親。
温かい目で見守るもう一組の夫婦。
「お店に行って綿飴でも買ってこようか?」
伯父の提案に、清香は目を輝かせる。眠気は一発で吹き飛んだようだった。
「ねぇママ、行ってもいいい?」
「たまにだから仕方がないわね」母親は微笑む。「皆で行こうか」
清香を浴衣に着替えさせると、五人揃って家を出る。
外は夜店の匂いで溢れていた。
焼きソバの匂い、トウモロコシを焦がした匂い、人の匂い、祭りの匂い。
清香は母親と手を繋ぎ、空いた手に綿飴を持っている。腕に巾着を引っ掛け、機嫌良く歌を歌う。
人ごみのせいで歩きにくかったが、彼女はそれすらも楽しんでいるようだった。
――ドン ドドン
初めの花火が音を立てる。
あまりの音の大きさに、清香は身を硬くした。
人の流れが一瞬止まり、皆が空を見て歓声を上げる。
しかし大人が多いせいで清香には花火が見えなかった。
次の花火まで時間が開く。
どうやら初めの花火は大会開始の合図だったようだ。
その間に五人は河原に移動し、席を確保した。
ここなら清香にも、花火が良く見えるだろう。
すでに日は暮れ、すっかり夜空になっている。
そして――
ヒュルヒュルと魂のように糸を引いた弾が天を昇る。
飛沫のような花が開き、遅れて炸裂音が、そして火花の散る音までが聞こえてくる。
燃える空、爆発音。
あまりの迫力に、清香は恐がり泣き出した。
清香の様子を、四人の大人は笑顔で見守っていた。